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鳴らない鐘  作者: 迎ラミン
第二章:池ノ上の新聞記者 ~一九五〇年~
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池ノ上の新聞記者 ~一九五〇年~ 1

 うわ、またやってる。


 月明かりの下、共同便所に向かおうと部屋を出た(あさ)()()(えい)()は、廊下の途中で足を止めた。窓ガラスの向こうに見える光景は、もはや見慣れたものと言っていい。


 一体、何キロあるんだろう。


 自分も含め学生ばかりが住まう安アパートの裏庭で、一人の男が今夜も巨大なバーベルを担ぎ上げているのだった。

 身長こそ高くないが、見事な逆三角形の背中にがっしりと太い両脚。万歳のような格好でバーベルを頭上に掲げたりもするので、やはり重量挙げの選手なのかもしれない。勝手なイメージだが、彼――一〇一号室の(たか)()が通うW大学ならば、そういうクラブ活動もありそうに思う。


 でもほんと、真面目だよなあ。


 他の学生に気を遣っているのだろう、高部は必ず夜中にトレーニングを行う。しかもまめなことに、終了後は重たいバーベルをきちんと自分の部屋に片づけてもいるようだ。そのため彼の奇行を知っているのは、今のところ朝比奈と、あとは宵っぱりの学生が数人だけだった。

 深夜のトレーニングはさておき、高部が礼儀正しく真面目な青年だという印象は、アパートの仲間たち全員が抱いているはずだ。すれ違う際は、いちいち学帽を取って挨拶してくれるし、ゴミ出しや共同便所の掃除といった当番も決しておろそかにしない。誰かが大きな荷物を運んでいるのを見かければ、「手伝いますよ」と笑顔で声をかけ、重そうな机や木箱をひょいと運んであげたりもする。


 (くら)(しき)の高校だっけ。


 バーベルを上げ続ける広い背中を見ながら、朝比奈は高部の出身を思い出した。大学に入学したばかりの一ヶ月ほど前、おたがいに簡単な自己紹介をしたとき、たしか言っていた。ただし向こうはW大、こちらはM大と大学が違うのもあって、それ以上の会話を交わしたことはまだない。

 同じアパートに同じタイミングで入居した、同じ大学一年生。そして「気は優しくて力持ち」を地で行く言動。


 いつか、ゆっくり話してみたいな。


 ここ、池ノ上で下宿を始めて以来、高部(みの)()という筋骨隆々のお隣さんに、朝比奈はいたく興味を惹かれているのだった。




 終戦から約五年。日本は、特に東京はすっかり様変わりして、今もめまぐるしいほどの早さで復興を続けている。敗戦国として実質的に米英の支配下に置かれた状態だし、進駐軍の姿もまだまだ多く見かけるが、街に建物が戻り、人が戻り、何より活気が戻ってきているのは、地方出身者である朝比奈の目にもよくわかった。同時に、それまでのどこか窮屈な空気が消え去って、日本人同士の間でも自由で開放的な会話や交流ができるようになったとも感じるのは、気のせいだろうか。


 変わったのは街だけではない。学校もそうで、山梨に生まれ育ったごく普通の中学生だった朝比奈は一年前、新制高等学校の発足で一気に「高校三年生」となった。しかも近隣の高等女学校との合併によって、少数ながら女子の同級生もできたのである。

 これが朝比奈には新鮮だったし、何より嬉しかった。女性に興味がないわけではないが、そんな気持ち以上に、男女が机を並べて対等に学び合える環境というものを、素晴らしいと感じたのだ。

 今は嫁いだ四つ上の姉が、よく言っていた。


「女は家を守るものとか、旦那様の三歩後ろを歩くべきとかっていうのは、単なる決めつけよ。女にだって男以上に仕事ができる人はいるし、男と同じように勉強も運動も好きで、頑張れる人だっているもの」


 活発な姉は少女時代から柔道を習っており、戦争が始まって道場そのものが休止に追い込まれるまでの間、ずっと熱心に通っていた。たまたま近所に、農業を営む奥さんの実家を継ぐために、東京から戻ってきた夫婦が開いた道場があったのだ。ご夫婦は二人とも、朝比奈も名前を聞いたことがある『講道館』の出身で、そこでは奥さんだけでなく何人もの女性が、男子と肩を並べて稽古に励んでいたという。


「乗富五段なんて、そのへんの男子なんて歯が立たないくらいお強いんですって。普段は優しくて面白いのに、いざ立ち合ってもらうと、根っこが生えたみたいにびくともしないそうよ」


 会ったこともないくせに姉が目を輝かせて語るせいで、講道館には乗富五段という凄い女性指導員がいるのだと、朝比奈も覚えてしまったほどである。


「しかも文武両道で、英語もちょっと喋れるらしいの。仲良しのお友達がアメリカにいらっしゃって、その方も日本にいた頃、講道館の女子部員だったって先生が仰ってたわ。やっぱり凄く強くて、練習熱心で、そのうえ女優さんみたいな美人なんですって」

「へえ」

「だから、女とか外人とかっていうだけで何かを決めつけるのは、絶対に間違ってると私も思う。勉強してお金も貯めて、いつか絶対に洋行してやるんだから」


 鼻息荒く語っていた姉は、今でもその夢を諦めておらず、子育てをしながら英語の勉強を続けているらしい。本人からこっそり教えてもらったが、「敵性言語」たる英語を学ぶことなどもっての他とされた戦時中ですら、こつこつと続けていたのだとか。

 身近にそうした存在がいた生い立ちもあってか、朝比奈自身も何事につけ進歩的な考え方で、好奇心も旺盛だった。

 ただし。

 決定的に違うのは、姉とは正反対に自分はまったくの運動音痴という事実である。


 身体が弱いというわけではないが、体育の授業や運動会は仲間に迷惑をかけないようにするのが精一杯。休みの日も、山や川へ遊びに出かけるよりも読書をしている方が好きという、言わば屋内派として十八年間の人生を生きてきた。

 本が沢山の知識をくれたお陰で、人にはそれぞれ得手不得手があること、文の道と武の道に貴賤などないことは知っている。それでも、ときには姉のような人たちがまぶしく映る瞬間がある。ちょっぴり憧れる瞬間がある。

 風を切るような速さで走ったり、なんでもない顔で高い木に登れるというのはどういう感覚なのだろう。どんな気持ちになるのだろう。

 だからこそ、壁一枚を隔てて暮らす高部のことが、日に日に気になっていったのかもしれない。




 高部とゆっくり話す機会は、ほどなく訪れた。六月も近くなったある日、彼の方から朝比奈が住む部屋の扉をノックしてくれたのである。

 その日は日曜日で、朝比奈は午前中から自室で机に向かっていた。

 四畳半しかない部屋に、コンコンという控えめなノックの音が響いたのは、そろそろ一服しようかと鉛筆を置いたタイミングでだった。


「はーい」


 返事をすると、穏やかな声が返ってきた。


「こんにちは。隣の高部です」


 おお、と思い、ちゃぶ台の前から立ち上がっていそいそと玄関へ歩み寄る。年季の入った木戸を開けると、アメリカ風の半袖シャツに身を包んだ高部が、ぬっと立って微笑んでいた。


「こんにちは」


 もう一度言って、高部が丁寧に頭を下げてくる。向こうも休日なようで、いつもの学帽は被っていない。「こんにちは」と会釈を返した朝比奈は、彼の右手に紙袋があることに気づいた。


「突然すみません。実家からきび団子が沢山送られてきたので、朝比奈さんにもお裾分けをと思いまして」

「わあ、ありがとうございます!」


 さすがは岡山出身だ。しかも甘い物が好きな自分にとっては、二重に嬉しい訪問である。 自身も顔をほころばせた朝比奈は、思い切って申し出てみた。


「良ければ高部さんも一緒にどうですか。ちょうど休憩にしようと思ってたんです」

「え? いいんですか?」

「もちろん。じつを言うと、一度ゆっくりお話させてもらいたかったんです。お隣さんなのに、最初のご挨拶だけになってしまっていて失礼しました」

「いえいえ、こちらこそ」


 なんだか大人みたいな会話だな、とくすぐったい感想を胸の内で抱きながら、朝比奈は狭い室内へと高部を招き入れた。

 お裾分けのきび団子は大層美味しかった。加えて、なんと高部の方でも一度語り合ってみたいと思ってくれていたそうで、二人はすぐに会話を弾ませることができた。そうして初めて知ったのだが、四月生まれの高部は「中学受験で一回失敗して」高等小学校に一年通った経験があるため、現時点で朝比奈より二歳上の二十歳だという。

 けれども彼は、


「長い人生、一、二歳の違いなんて大した差じゃありません。同じ新入生として、気にせず仲良くしてください」


 と朗らかに首を振り、「敬語もやめましょう」と先んじて言ってくれた。にもかかわらず、自分自身が丁寧な言葉遣いのままなので思わず笑ってしまう。可愛らしいと言っては失礼だが、意外に抜けたところもあるのかもしれない。


「じゃあ、せーのでおたがいに〝君〟づけで呼び合おう。もちろん敬語もなしで」


 笑った勢いも借りつつ朝比奈が提案すると、「わかりました……じゃなかった、わかった!」と、太い首をぎくしゃくと縦に振っている。ますます面白い。


「よし、いくよ。せーの――!」


 笑みを深くして、朝比奈は音頭を取った。すっと息を吸うタイミングが高部と重なる。


「実隆君!」「瑛人君!」


 妙な間が空いた直後、ぽかんと目を見交わした二人は揃って吹き出していた。


「あはは、同じことを考えてたんだね!」

「恋人じゃあるまいし! でもたしかに、地元じゃ下の名前で呼ばれていたよ。よく似た兄もいるから」


 ますます打ち解けた二人は、笑顔のままさらにいろいろな話を語り合った。高部がウエイトトレーニングを始めたきっかけは、同じように身体を鍛えるのが好きな長兄の影響であること。本当に重量挙げの選手で、中学の時点で既に国民体育大会にも出場していること。朝比奈の方は、読書と並んで学級新聞などを書くのが子どもの頃から好きで、将来は記者になりたいと思っていること、等々。


 気づけばすっかり昼時になり、きび団子だけでは足りなくなった二人は「そばでも食いに行こうか」と、ごく自然に連れ立って昼食へ出かけることにした。

 朝比奈にとって初めてとなる学外の、そして生涯の友人ができた日だった。

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