表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳴らない鐘  作者: 迎ラミン
第一章:小石川の留学生 ~一九三三年~
5/26

小石川の留学生 ~一九三三年~ 4

 最初は、自分のことではないと思った。オッピロゲ、メリケン、ダラクジョガクセイ、といった単語の意味がわからなかったというのもある。だが「偏見」という言葉すらすぐ使いこなせるようになったほどの高い日本語力が、これに関してだけは仇となった。

 足をおっぴろげて自転車にまたがる、メリケンの堕落女学生。

 自転車姿のメイを見て、聞こえよがしにそんな言葉を口にする人々が、近隣には少しだけ存在するのだった。どちらかというと中高年に多いだろうか。


 今でこそ友人たちから「日本人より日本人らしい」とまで言ってもらえる性格も、その頃はまだ、己の意見をはっきりと述べるアメリカ仕様(?)だったのも、結果としてマイナスに働いた。

「どうしてそういうことを仰るのですか?」「今、私のことを侮辱しましたよね?」と、わざわざ自転車を降り胸を張って抗議するメイは、いつしか彼らの間で「メリケンの堕落女学生」だの「跳ねっ返りの金髪女」だのという二つ名で、知られるようになってしまったのである。


 だから、私は――。


 大取と若山に語ってから、メイは軽く唇を噛んだ。

 だから自分は、講道館や大取自転車が余計に大好きなのだ。道場の人々や大取店長は、決してそんな目を向けてきたりしない。政子や綾子、康子といった女子部の仲間などは同じように、「女だてらに柔道なんて」という心ない偏見と戦っているとも聞く。

 どうして自他共栄できないのだろう。どうして精力善用の心で他人と向き合えないのだろう。日本はこんなに素敵な国なのに。優しい人たちだって、こんなにも沢山いるのに。


 自転車が女性の身体に悪いなどというおかしな説は気にもしないメイだったが、直接目に入る視線や、耳に届くひそひそ声はやはり精神をすり減らすし、何より不愉快だ。柔道やウエイトトレーニングを通じて精神面も鍛えているつもりではあるが、嘉納先生や鷹崎先生といった達人に遠く及ばない身としては、大なり小なり心が乱されてしまう。

 気持ちがささくれだったとき。吐き出せないイライラが溜まったとき。そんな自分を癒やしてくれるのが、講道館や大取自転車での時間だった。彼らと同じ日本人である皆に相談したことはないが、道場や鍛錬小屋で仲間と鍛錬したり、大取と笑顔で語り合ったりするうちに、乱れた心はいつも静まってくれる。日本への愛情を再確認できる。


「ふむ。なるほど」


 直立不動だった若山が、太い両腕を組んで唸った。

 たまたま同席しただけの彼にまで重たい話を聞かせてしまった、と今さらながら申し訳なく思っていたメイだが、続けられた言葉は意外すぎるものだった。


「ぶっ飛ばしてしまえば、いいじゃないですか」

「はい?」

「くだらないことを言うくだらない奴らなど、シレア先生のお力でぶっ飛ばしてしまえばいいんです。うん、じつにくだらない」

「え……」


 相変わらずの真面目な顔と口調で、若山はさも当然のように頷いている。物騒な言い草にぽかんとさせられたメイは、またしてもの「先生」呼びにも気づかないほどだった。


「お話を聞く限りでは、シレア先生のお手を汚すほどでもない輩だとは思いますが、ぶっ飛ばさないにしても、厳しく説教ぐらいはしてやって良いのではないでしょうか」


 半袖シャツの袖口をパンパンに張らせながら、腕を組んだままの若山が続ける。


「精力善用のお言葉は、鍛えた力を善なる目的で使うという意味だと、鷹崎先生が仰っていましたよね」

「は、はい」


 ……この人、スポーツ関係で自分が認めた人のことは、全員「先生」って呼んでるのじゃないかしら。


 どうでもいい推測をしてしまう一方で、メイは若山の言葉を脳内で反芻していた。

 鍛えた力を善なる目的で使う。つまり――。


「偏見や差別は良くないと、メイ先生が講道館仕込みの勇気と胆力で厳しく説諭することは、そのくだらない人々に正しい価値観やものの見方を学んでもらうという、まさに善なる行いなのではないでしょうか」

「!!」


 そういう考え方もあるのか、とメイは驚いた。セツユというのは、たしか「お説教」と同じような意味だったはずだ。若山の言う「厳しく」がどの程度を想定しているのかはわからないが、怒りにまかせて抗議するだけではなく、相手を想って正しい心の在り方を説く行いは、たしかに精力善用の理念にも合致する。

「結果」と、若木は熱のこもった口調で続けた。


「無知蒙昧な輩と知恵を共有し、彼らをくだらない価値観から救い出す。たがいに構えることなく相対せるようになる。これは言わば、ともに前進する融和であり協調です。すなわち――」

「あ! 自他共栄!」

「はい。私はそう思います」


 ムチモーマイ、という単語を若山が口にした時点で大取がさり気なく苦笑したので、ひょっとしたら「くだらない」同様、少々オーバーな表現なのかもしれない。いずれにせよ、彼のアドバイスには一理あった。「ぶっ飛ばす」つもりなどはもちろんないが、もう少し冷静に、理詰めで、彼ら彼女らに対して「それは間違っていますよ」と説明する姿勢で話してみるというのは、たしかにいい方法だ。


「ありがとうございます、若山さん」


 メイがぺこりと頭を下げると、「いえ。差し出がましい発言で失礼しました」と、今度も生真面目な答えが返ってきた。


「運動を愛し、バーベルを愛する仲間として、つい熱くなってしまいました。まだまだ鍛錬が足りませんね。精力善用、自他共栄の考えを忘れず、私も引き続き精進致します」


 鷹崎と問答をしたときのように語った若山は、直後に大取から古チューブを何本か受け取り(この瞬間だけは、わかりやすく嬉しそうだった)、「ではこれにて」と例によって堂々と去っていった。




「へえ。で、メイちゃんはなんて言ったの?」

「〝それは偏見です。女性が自転車に乗ってはいけないという法律は、日本にもアメリカにもありませんし、身体に良くないというのも医学的な根拠のないまったくの誤解です〟って説明させてもらいました。あと、〝心の平穏のためにも、皆さんも運動するといいですよ〟とも」


 興味津々の政子にメイが答えると、隣でプレス動作をしていた綾子が、思わずという感じで吹き出してバーベルを下ろした。


「ちょっとメイちゃん、笑わせないでよ! 力抜けちゃったじゃない!」


 彼女の向こう側でもスクワットを終えた綾子が、やはり笑いながらバーベルを地面に置いている。


「でも、メイちゃんらしいわね」


 この日も四人は、講道館の鍛錬小屋で仲良くウエイトトレーニング中だった。インターバルの合間にメイが、大取自転車で若山と再会したこと、自分の密かな悩みに彼がアドバイスをくれたことを話すと、さっそく仲間たちが食いついてきたというわけである。


「私が講道館の生徒というのを知っている人もいたので、柔道だけでなくウエイトトレーニングも一緒にやりましょうって誘ったら、なんだか困ったような顔をしてました。どうしてでしょう」


 きょとんとするメイとは対照的に、先輩トリオは一層笑って顔を見合わせている。


「ほんと、メイちゃんらしいなあ。けどそういうところ、私も見習わないと」


 四人のうちで一番の実力者である政子が、しみじみと言う。だがメイ自身は、さらに小首を傾げるしかない。


「私は政子さんや綾子さん、康子さんたちみたいになりたいんですけど」


 不思議に思いつつ返したところで、「おお、やってるね」と穏やかな声がした。


「あっ!」という反応と、続けての「嘉納先生、こんにちは!」という挨拶が全員で重なる。講道館館長、嘉納治五郎本人が背広姿で立っていた。相変わらず忙しいにもかかわらず、合間を縫って道場に寄ってくれたようだ。


「君たち女子部の積極的な取り組みのお陰で、道場全体でウエイトトレーニングが根づいてきたと、指導員のみんなから聞いています。私がなかば勝手に持ち込んだ物なのに、沢山使ってくれてありがとう」

「いえ。もともと唖鈴は使っていましたし、最新型を買ってくださって本当に嬉しいです。ありがとうございます」


 一番の実力者である政子が、代表して逆に礼を述べる。だがその顔は堅苦しいものではなく、敬愛する父や祖父に会えたかのような表情だ。


「ありがとうございます!」


 メイ、綾子、康子も揃って続き、素早く頭を下げる。同じく明るい笑顔をたたえて。


「メイ君」


 顔を上げたメイに、嘉納が呼びかけてきた。


「はい」

「留学期間は、あと半年ほどだったね」

「はい」


 日本の最高学府である帝大は三年制なので、二年時から編入留学したメイは、今年度いっぱいで帰国せねばならない。まだ半年あるとはいえ、おそらくはあっという間だ。それを思うと、どうしても寂しさが湧き起こる。

 胸の内を見透かしたように、嘉納が穏やかな声のまま語る。


「今はお金も時間もかかるし、偉い人たちは中国あたりと、また戦争なんぞ始めちまうかもしれない。でも、いつかきっと普通の人々が、みんなのような女性が、気軽に洋行できる時代が来るはずだ。そうすれば政子君や綾子君、康子君が、逆にメイ君に会いに行けるだろうし、手紙や写真のやり取りだけでも絶やさなければ、友情や愛情はずっと続いていくよ。私もそうやって世界中のスポーツマン、スポーツウーマンと仲良くさせてもらっているんだ」

「はい」


 優しい人だ、とメイはあらためて思う。優しくて、大らかで、柔らかい心。まさに「(やわら)」そのものな人。豊かな口ひげの上で細い目をさらにすがめる嘉納を見つめるうち、メイも似た表情になっていた。


「何せ百貫ぶんのバーベルだって、日本に持って帰れる時代だしね」


 最後に冗談ぽくつけ加えた嘉納は、「おっと、トレーニングの邪魔をして申し訳なかったね」と頭に手をやると、国際人らしい慣れた仕草のウインクを残してスマートに去っていった。


「メイちゃん!」


 呼ばれてそちらを向くと、政子がなぜか涙目になっている。


「メイちゃん、私、絶対メイちゃんに会いに行くからね! ニューヨークでもワシントンでもロンドンでも、どこでも行くから、また一緒に乱取りして、スクワットして、プレスして、ウエイトリフティングしようね!」


 メイの帰国を考えて本人以上に寂しく感じたのだろう。一番の実力者のくせに、相変わらず子どもみたいに無邪気な先輩だ。けれどもメイは嬉しかった。正直、こんな日々がずっと続けばいいとも思う。


「政子さん、ロンドンはイギリスよ」

「しかも一緒にウエイトリフティングって、それただの合宿じゃない」


 綾子と康子がおかしそうに笑う。だが二人の瞳にも、寂しそうな色が浮かんでいるのがわかる。

 あえてメイは明るく言った。


「政子さんらしいですね」


 先ほどの台詞を返しながら、足下のバーベルシャフトに視線を落とす。トレーニングを再開するふりに見えればいい。自分の青い目も、皆と同じような光を浮かべてしまっているはずだから。

 でも、いつかきっと。ずっと。

 嘉納の言葉を、胸の内で繰り返す。

 将来、いつかきっと素晴らしい友人たちに再会したい。ずっとこの人たちを、この国を愛していたい。

 柔道着を見るたびに、自転車に乗るたびに、バーベルや鉄唖鈴を見るたびに、自分は日本のことを思い出すだろう。講道館や大取自転車での日々を思い出すだろう。何よりも素敵で、かけがえのない記憶を。

 残り半年。そのかけがえのない記憶がもっともっと増えるよう、学問も運動も頑張ろうと、あらたな決意が湧き上がってくる。


「私も絶対、また日本に帰ってきます!」


 はっきりと宣言して、メイは銀色に輝くシャフトを握った。

 ひんやりした感触が、発した言葉を保証してくれたように思えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ