小石川の留学生 ~一九三三年~ 3
メイが若山についてふたたび思いだしたのは、下宿先の近所にある『大取自転車』でだった。
「こんにちは」
「おお、メイちゃん。いらっしゃい」
いつも乗っている自転車を押しながら入っていくと、すっかり顔馴染みになった店主の男性が、にこにこと挨拶してくる。
「今日は愛車も一緒かい」
「はい。パンクしてしまったみたいなので、修理をお願いできますか?」
「もちろん」
大取自転車の主人、大取啓介が黒縁眼鏡の奥でさらに目を細めて頷いてくれる。油汚れの染みついた軍手とつなぎ、真っ黒い額縁の眼鏡がよく似合う大取は、自転車屋のおやじというよりは「知的な工員」という風体で、メイ自身も初対面の時点で「ジャパニーズ・メカニックマン!」と妙な感動を覚えたものだ。
当時のメイはまだ日本語が片言だったが、彼は一見客の外国人女性が語るたどたどしい説明にも笑顔で耳を傾け、メイがサドル位置を調節したいのだとわかると即座に対応してくれた。そればかりか、逆にアメリカの自転車事情などを興味津々で訊いてきて、「また遊びに来て、いろいろ教えてください」とまで言ってくれたのである。
以来、メイはここにふらりと立ち寄って母国の話をするようになり、代わりに日本語や日本の風習を教えてもらうという、ちょっと変わった常連と化しているのだった。
「ああ、たしかに前がパンクしちゃってるね。すぐに直せるから、いつも通り適当に座って待ってて」
今では敬語も消えた大取が、さっそくメイの愛車から前輪を取り外し、タイヤ部分をスムーズに分離させていく。手早く、かつ無駄のない動作は、まるで腕のいい料理人が魚を捌いているかのようだ。
自身は特に手先が器用というわけではないが、メイはこうした職人の技術を見るのが好きだった。機械工だった今は亡き祖父が、古びたラジオや腕時計を嬉々としていじる姿をうっすらと覚えているので、その影響かもしれない。
加えてもう一つ、この気さくな自転車屋さんに足を運びたくなる大きな理由があった。
「メイちゃんみたいな子が、もっと増えればいいのになあ。そうすりゃ、うちの店も儲かるのに」
タイヤチューブを水に浸けて穴を探りながら、大取が冗談めかして笑う。台詞の後半はさておき自分のような娘、つまりは自転車に乗る女性がもっと増えて欲しいという彼の言葉の裏には、みずからが扱う便利な乗り物が決して男性だけのものではないのだという、プロとしてのポリシーがある。
嘉納先生ではないが、こうしたオープンな考え方の人だからこそ、メイも話していて居心地の良さを感じるのだ。
出会って間もない頃から、大取はいつも言っていた。
「女の人だって、外で立派に働いてる人はいるでしょう。そういう人が自転車で格好良く仕事に出かけたり、散歩や運動がてら気持ちよく乗り回してくれる方が、僕たち自転車屋としては何より嬉しいんだ」
当時――一九三十年代はまだ、女性が自転車に跨がることを「はしたない」、「健康に良くない」とするような誤解も残っていた時代だった。《自転車に乗って始終局部を刺激する結果は、子宮の位置を変へ、骨盤を充血させ、卵巣の働きを悪くする、ひいては月経異常やこしけを起し、或は分娩率を低め、流産の原因にもなります》などという、偏見に満ちた医師のコメントが、新聞に堂々と掲載されるほどだったのである。
子どもの頃から自転車が好きだったメイは、かような暴論にはもちろん惑わされなかった。アメリカ時代と同じく日本に来てからも、下宿先のおかみさんが貸してくれた実用車を足代わりに、大学へ颯爽と自転車通学する毎日だ。大取もそんなメイの姿が本当に嬉しいらしく、「いいのいいの。休憩は大事だから」などと言いながら、店に顔を出すとすぐに仕事を中断して、待ってましたとばかりに相手をしてくれる。
「店長さんも、私の先生ですね」
「え?」
「だっていつも、日本語とか私の知らないカルチャーを教えてくれるじゃないですか」
「それを言うなら、メイちゃんだって僕の先生だよ。アメリカの文化について実際にアメリカの人から聞くことができるなんて、前は思ってもみなかったからね。死ぬまでに一度でいいから、ニューヨークとかに行ってみたいなあ」
などというやり取りを、つい先日もしたばかりだ。
ワシントンD.C.に隣接し、マンハッタン島にもほど近いメリーランド州出身のメイは、父母に連れられてニューヨークを観光したことがあった。世界一の高さを争った、クライスラー・ビルディングとエンパイヤー・ステート・ビルディングの天をも貫く威容。華やかな劇場やホテルが建ち並ぶタイムズ・スクウェア。男女問わずお洒落で格好いいニューヨーカーの人々。メイが日本に留学する直前あたりから、世界的な恐慌の影響で治安が悪くなったとも聞くが、それでも世界有数の大都会であることには変わりないし、大取のように憧れを抱いてくれる外国人も多いと聞く。
少女の頃とはいえ、あそこを歩いた経験があるというのはメイ自身も誇らしく、聞かれるがままに、記憶に鮮やかな街の様子を彼に何度も語ってきた。そして大取も、まるで子どものように目を輝かせ、夢中で話を聞いてくれるのである。
「二箇所も穴が空いてたから、チューブごと替えちゃうね。代金はチューブ代だけでいいから」
「いいんですか? ありがとうございます!」
大取の言葉にメイは大きく頭を下げた。良心的なメンテナンス代に加えて、話をするだけのときも、彼は必ずお茶やお菓子をサービスしてくれる。「いつもすみません」と恐縮するのだが、その度に「なあに、じつは先行投資でもあるんだよ。これでメイちゃんが〝大取自転車はいい店だ〟って広めてくれれば、君みたいな自転車好きの女の子だって増えるかもしれないしね」と笑って流されてしまう。
今日も大取は新しいチューブとともに、煎餅の入った木皿をどこからか持ち出してきてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。センコートーシですね」
「イグザクトリー」
たがいに教え合った単語を使って笑いながら、ささやかなおやつとお喋りの時間が始まる。これもまた『自他共栄』の一つの形なのかもしれないな、とメイは穏やかな気持ちに包まれた。
おや、と思ったのは、煎餅をかじり終えた大取が「あ、こいつは取っとかないと」と、穴の空いたチューブを綺麗に拭き上げるのを見たからだった。
「捨てないのですか?」
「うん。欲しいっていう人がいてね。ある程度まとまったら、あげてるんだ」
言葉通り彼がチューブを入れた木箱には、同じようにもう使わないであろう仲間たちが何本もまとめられていた。
「これを引っ張って、身体を鍛えるんだって。凄いこと考えるよね」
「へえ」
たしかにゴム製のタイヤチューブを引っ張れば、いい筋力トレーニングにはなるだろう。だがチューブの弾力は、かなりのもののはずだ。何せ空気を沢山詰めて、人間と自転車の重さを支えながら転がり続ける部品なのだから。
「あ」
そこまで思い返して、メイの脳裏にある人物の姿が甦った。
筋骨隆々で、身体を鍛えることに熱心な男性。好奇心旺盛な力持ち。
「ひょっとしてチューブをもらってる方って、若山さんていうお名前じゃありませんか?」
「あれ? メイちゃん、知り合いなの?」
大取の反応から、自分の想像が当たりだとわかった。ここで古いタイヤチューブをもらっているのは、先日講道館に現れたあの若山松茂だ。
「一度、講道館にいらしたんです。道場破りというか力試しというか、そんな感じで」
「あはは、若山君らしいなあ。変な例えだけど、彼は強さとかたくましさを求める修行僧みたいな人だから」
修行僧、という日本語もメイはもう知っている。自分を厳しく律する敬虔でストイックなプリーストのことだ。なるほどな、と思う。あの日、ほんの十分程度見かけただけだが、ただひたすらに己を鍛えたいという意志が伝わってくる彼の言動は、まさに修行僧そのもののように見えた。
あるいは――。
「武士道、でしたっけ」
サムライが尊ぶ規範をそう呼ぶのだと、こちらは大学で教わった。メイの専攻は日本の文化史なのである。
「ほんと、メイちゃんはすっかり日本人だねえ」
嬉しそうに言ってから大取は、「たしかに若山君は、身体を鍛える方面から武士道を極めようとしてるのかもね」と繰り返し頷いた。
噂をすれば、ではないが本人が現れたのは直後のことだ。
「ごめんください」
「あっ!」
振り向いたメイは思わず目を見開いた。さすがと言うべきか、若山の方は特に動じた様子もなく、うん? という表情になっただけである。けれどもすぐに、目の前の外国人女性の顔を思い出したらしい。
「ああ。あなたは講道館にいらした――」
「は、はい。講道館女子部のメアリー・シレアです。こんにちは」
「こんにちは。先日は突然の訪問にて失礼しました。若山松茂です。こちらの近所に住んでいます」
道場で見たときと同様に実直かつ堂々と頭を下げられ、メイも慌てて会釈する。やはり自分の方が長身だが、圧倒されるような存在感だ。
「シレアさんも、大取さんとお知り合いで?」
名字に「さん」づけの、日本風の呼び方をされるのは久しぶりだった。「はい」と緊張したまま頷くと、若山は「そうですか」といくぶん表情を和らげ、とんでもないことを言い出した。
「さすが外国の方ですね。私以外にもチューブ鍛錬法を実践している人が、それも女性でいらっしゃるとは」
「え? あ、いえ、ええっと……」
どうやら大いなる誤解をされているようだ。若山はメイのことを、自分と同じく大取自転車に古チューブをもらいに来る、トレーニング愛好家だと思い込んだらしい。講道館に通う女子柔道家で、しかも日本より進んだスポーツ科学を持つとされる欧米の人間だからかもしれない。
「あはは、違うよ若山君。メイちゃんはうちの常連さんで、僕の先生でもあるんだ。残念ながら古チューブ目当てってわけじゃないよ」
「先生?」
大取の言葉に、若山は太い眉を上げてきょとんとしている。いかつい雰囲気がさらに薄まったので、メイもようやく落ち着きを取り戻し、自分から話しかけることができた。
「はい、私は若山さんのように、タイヤチューブを使ってのエクササイズはしていないんです。道場ではバーベルを使ってみんなとやってますけど」
「僕とメイちゃんは日本語と英語、日米の文化の違いなんかをたがいに教え合ってる友達なのさ」
「ああ、それで。失礼しました、シレア先生」
あっさりとメイを「先生」と認めた若山が、あらためて頭を下げてくる。
「せ、先生なんかじゃありません! 私が勝手にお邪魔して、お喋りの相手をしてもらってるだけですから!」
「そうですか。ですが自転車に乗り、講道館に通い、しかもバーベルでの鍛錬も欠かさないというのは、本当に素晴らしいと思います。感服します」
あたふたと両手を振るメイに頷きつつも、若山は生真面目な表情に戻って賞賛してくる。褒められているはずなのになんだか恥ずかしくて、メイは「ど、どうも」と曖昧なお礼を返すことしかできなかった。
「でも、若山君だって凄いじゃないか。三百六十五日、欠かさず身体を鍛え続けてるんでしょう? 場合によっては十時間も続ける日だってあるとか」
「十時間!?」
おかしそうに口を挟んだ大取の言葉を、メイは反射的に繰り返してしまった。十時間ものトレーニングとは、異常なまでの体力と執念だ。というか、若山は普段どうやって生活しているのだろう。それだけ身体を鍛える時間が取れるということは、自宅でできる仕事なのだろうか。
けれども本人にとって、十時間の鍛錬というのは大した行いではないらしい。
「いえ。世界のどこかで、今この瞬間も己より鍛えてる人がいるかもしれないと思うと、なかなかやめられなくて。自分もいつかはサンドウ先生のようになりたいですし、そもそも好きなことをやっているだけですから」
盛り上がった筋肉のおかげで、脇がぴたりと閉じないのだろう。腕を若干広げた直立姿勢で、若山が首だけを左右に振ってみせる。
「私ごときが偉そうに言えたものではないですが、自分が好きだからやる、やりたいからやる、というのが結局は一番の動機になりますし、心身にとっても健全なのではないかと、日々鍛錬する中でつくづく思います」
「あ」
淡々と語られた台詞に、だがメイは、はっとさせられた。
「私を変人と呼ぶ人がいるのは知っています。ですが身体を鍛える行為で、誰かに迷惑をかけているわけではありません。大取さんにお願いして、いらないチューブを頂戴してはいますが」
「迷惑なもんか。どうせ捨てるものだし、チューブのお礼だって逆に力仕事をよく手伝ってくれるじゃないか。むしろこっちが世話になってるくらいだよ」
何言ってんの、という笑顔で大取が若山に答える。
ああ、とメイは思った。
「自他共栄ですね」
初めて若山を見たときと同じく、自然と言葉が口をついて出た。
各自がたがいに融和協調して、共に生き栄えることを目指す姿勢。講道館が、嘉納治五郎先生が尊ぶ大切な教え。柔道家ではないけれど若山も大取もまた、一人の社会人として立派に『自他共栄』を実践している。
「若山君こそ、先生みたいだね」
にこにこと続けた大取の視線が、そのままメイに注がれる。温かい色をたたえた瞳が、眼鏡の奥から穏やかにこちらを見つめてくる。
「彼と同じでいいんだ。メイちゃんも気にすることないんだよ」
「!!」
さっき以上に大きく、メイは青い目を見開いた。
「店長……。ご存知だったんですか?」
大取の言う通り、メイには密かに気にしていることがあった。
きゅっと口を引き結んでから、誰にも相談したことのないそれを口にする。
「私への偏見を」