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鳴らない鐘  作者: 迎ラミン
第一章:小石川の留学生 ~一九三三年~
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小石川の留学生 ~一九三三年~ 2

 先に記した通り、嘉納らの尽力によってウエイトトレーニングの存在と有用性自体は既に知られており、愛好家たちの間では鉄唖鈴を長くした形の、ホローショット・タイプのバーベルも使われてはいた。

 だがいずれにせよ、メイたちのように嬉々としてウエイトトレーニングに取り組む女子はこの時代、まだまだめずらしい。それでも彼女たちが偏見に晒されず済んだのは、名高い講道館という場所でトレーニングしていたことや、嘉納の薫陶を受けた開明的な考えの人々が周囲に多くいて、温かく見守ってくれたからだろう。

 かくして講道館では新型バーベルの到着を皮切りに、男女問わず部員全体でウエイトトレーニングの熱が高まっていく流れとなった。


 そうして二ヶ月ほどが経った、ある日。

 いつものようにウエイトトレーニングに励むメイたちのところへ、坊主頭のちびっ子柔道家が、興奮した顔で走り寄ってきた。


「め、メイコーチ! 道場破りが来ました!」


 間もなく正式に開設予定の講道館特設少年部、この頃はまだ『嘉納塾』という名の少年少女柔道教室の生徒で、大人たちにも可愛がられている少年だ。余談ながらディスクローディング・バーベルの使用経験があったメイは、部員仲間にエクササイズを教えるうちに、政子たち以外の人から「メイコーチ」と呼ばれるようになってしまっていた。


「ドージョーヤブリ?」


 バーベルを置いてきょとんと繰り返すメイだったが、一緒にいた政子、綾子、康子の先輩トリオは対照的に、「ええっ!?」とびっくりしている。


「メイちゃんの喋り方が、すっかりうつっちゃった」と最近よく言う綾子が、すぐに説明してくれる。

「他の道場に、チャレンジとかトライしに行くことよ。けど、出稽古とかと違って勝負しみたいなものだから、あんまりグッドとはされてないの」

「つまり、アンオフィシャルなチャレンジャーが来たっていうことですか!?」


 デゲイコという単語は知っていたので、メイも遅ればせながら青い目を見開く羽目になった。日本一の柔道場である講道館に、堂々と「ドージョーヤブリ」に訪れる者が存在するとは。よほど腕に覚えのある(これも最近覚えた日本語だ)柔道家か、それとも頭のおかしい人物なのか。


「今、(たか)(さき)先生が話をされてます!」


 兎にも角にも、という口調でまくしたてる少年に先導されて、メイたちも急いで道場内へと戻った。




 道場に入ると、たしかに「ドージョーヤブリ」と思しき見知らぬ男性がいた。けれどもメイたちが驚かされたのは、彼の見た目だった。

 正座している状態だが、立っても身長は大きくないだろう。むしろメイより低いくらいに見えるので、日本風に言うならば五尺と四、五寸といったところか。

 しかしながら、外見以上の圧倒的な存在感が男性にはあった。


「な、なんかどっちが前でどっちが横だか、わかんなくなりそう」

「道着が肌着みたいになってる……」


 綾子と康子が囁き合う通り、男性はすさまじく分厚い胸板と、丸太のように太い腕をしているのだった。身に着けた自前と思しき柔道着も、覆われた筋肉によって至る箇所がぱんぱんに張った状態だ。


「コンペティター、でしょうか」


 メイのつぶやきに、「何それ?」と反応したのは政子である。


「ヨーロッパやアメリカでは、鍛えた筋肉の大きさや美しさを競う試合が行われているそうです。私も詳しくは知りませんが」

「筋肉自慢の大会ってこと?」


 緊張した空気が漂う中、呑気な言い方をする政子にメイはつい笑ってしまった。はっとなって十メートルほど先の「ドージョーヤブリ」男を見たが、幸い耳には入らなかったようだ。講道館指導員にして六段の段位を保有する鷹崎(まさ)()と、おたがいに正座して向かい合ったままでいる。

 二人の話す内容が、メイたちにも聞こえてきた。


「では、この場で五段をいただくことはできないのですか?」

「ええ。我が講道館では、昇段試験を受けながら初段から順を追って、段位を上げていく形になっています」


 意外にも、やり取りする声はどちらも穏やかだった。鷹崎の温厚な人柄と、醸し出す落ち着いた雰囲気もあるのかもしれない。


「なんか、普通の話し合いっぽくない?」


 康子の感想に先ほどの少年部員も、「ですね」と少し緊張がほどけたようだった。その間にも、道場破り男と鷹崎の会話は続いていく。


「私が、四段のお弟子さんより強くても?」

「はい。立ち合いのご様子も拝見しました。(わか)(やま)さんはたしかにお強い。途方もないまでに鍛えられた、素晴らしい(りょ)(りょく)をお持ちです。ですが柔道の、少なくとも我々講道館の目指すところは、単純な肉体的強さだけではありません」


 道場破り男の名は「若山」というらしい。と同時に、メイは鷹崎がさらに口にするであろう言葉もまた、瞬時に理解した。


(せい)(りょく)(ぜん)(よう)()()(きょう)(えい)


 今度の声は二人にも届いてしまったようだ。若山は「おや?」という表情で、メイたちの存在に気づいていた様子の鷹崎は、「ご名答」という笑みで、揃ってこちらに顔を向けてくる。


「失礼しました」


 慌てて下げた頭をメイが戻すのを待って、鷹崎が話を続ける。


「彼女が言った通りです。精力善用、すなわち善を目的として精力を最有効に働かせることが、柔道の目的の一つだと我々は考えています。では、善とは何か。これは団体生活や社会生活の存続発展を助ける行いです。ですから若山さんが、素晴らしいお力をまさに善のために使われるかどうか。そこを見極めないことには、段位の授与などできません」

「なるほど」


 若山なる男は、ふむふむと何度も頷いている。意外に素直な性格なのかもしれない。


「そしてもう一つ。自他共栄。みずからと他者が共に栄えると書きますが、こちらも字のごとしです。今お伝えした団体生活や社会生活を営むうえで、各自がたがいに融和協調して共に生き栄えられるよう努力する。精力善用とも相通じますが、まさにこれこそが、柔道を通じて我々が広く目指すところです」

「利己的ではなく利他的であれ、ということですね」

「はい、仰る通りです」


 察するに、若山は自慢の膂力を道場で披露して「四段の弟子に勝ったのだから、五段をくれないか」と言い出したのだろう。だが鷹崎は、彼の短絡的な申し出を穏やかに拒否し、こうして段位認定の方法やその裏側にある講道館の、引いては嘉納師範の理念を説いているというのが今の状況のようだ。

 そして若山も、すんなりと彼の話に聞き入っている。いや、若山だけでなくメイたちをはじめとした、周囲を取り囲む部員たち全員が、自然と「鷹崎先生」の講義を拝聴する形になっていた。


「なるほど」


 一通りの説明を聞き終えたところで、若山がもう一度繰り返した。


「講道館のお考え、よくわかりました。いきなりの不躾な願いにて大変失礼致しました。仰ること、大いに共感できますし、私も肉体だけでなく精神も鍛え上げるよう一層精進いたします。貴重なご講義、ありがとうございました。嘉納治五郎先生にもよろしくお伝えください」


 感じ入った調子で言うなり、筋骨隆々の上半身を深く折り曲げてから、すっくと立ち上がって道場を出ていく。去り際に出入り口で再度礼をした姿から見ても、やはり思ったほどおかしな人物ではなさそうだ。


「でも四段の人に勝つって、かなりよね。やっぱり筋肉は大事ってことかあ」


 またもや呑気な口調で政子が感想を述べたところで、メイたちも我に返った。周囲の部員たちとともに、「鷹崎先生!」と彼の方へ駆け寄っていく。丸く収まったとはいえ、ことの経緯を詳しく知りたいのは皆同じなのだろう。


「なんだい、みんなして。大丈夫だよ。見ていた通り、悪い人ではなかったし」


 変わらず穏やかに微笑んだ鷹崎は、笑顔のまま、若山という男についてあらためて教えてくれた。


「彼は若山(まつ)(しげ)という人で、昔、嘉納先生が翻訳されたサンドウの本を読んで、身体を鍛える運動の虜になったそうだ。私も人伝に噂だけは聞いたことがあったんだけど、(ちから)(わざ)()の間ではかなりの有名人らしいよ」

「へえ」 


 嘉納先生の教えは柔道家以外にも広く伝わっているのだ、とメイは嬉しくなった。他の部員たちも、同様に誇らしげな顔である。

 そんな後輩たちを見て、鷹崎が笑みをいたずらっぽいものに変えた。


「あの身体からもわかるだろうけど、相当な力持ちでね。なんでも寝差しで八十貫近くを上げられるんだとか。僕が立ち合ったとしても、負けちゃってたかもしれないなあ」

「八十貫!?」

「凄い!」


 目を丸くする先輩たちの隣で、メイも素早く頭の中で計算する。一貫がたしか八ポンドちょっと。ということは――。


「ええっ!?」


 弾き出された数値は六百四十ポンド。メートル法に換算すれば、二百九十キロを超える重量である。鷹崎が語る「寝差し」とは、仰向けの状態でバーベルを上げ下げする、現代で言うベンチプレスのようなエクササイズだが、いずれにせよあり得ないほどの怪力だ。


(ほん)(ごう)の生まれだっていうから、このあたりにも馴染みがあるんだろうね。講道館にも以前から興味を持ってくれていたそうだよ」

「へえ」


 政子たちと顔を見合わせながら、メイはもう一度、若山の姿を思い返した。短く刈った頭髪と意志の強そうな太い眉。分厚い胸板に丸太じみた太さの腕。なんというか、頑丈な岩とか巨石みたいな印象だった。


「コーキシンオーセーなうえに、積極的なんですね」


 感心してつぶやくと、「メイちゃんがそれを言うの?」と綾子に笑われてしまった。

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