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鳴らない鐘  作者: 迎ラミン
第五章:赤羽の公務員 ~二〇〇〇年~
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赤羽の公務員 ~二〇〇〇年~ 2

「で、どうなの、お仕事の方は。ちゃんとやれてる?」

「やれてるよ。俺だってもう三十近いんだから、心配しないでってば」


 同じ日の晩、優は親戚の女性と食事をしていた。


「何言ってんの。三十なんてまだまだ小僧よ、小僧。まあもっと上の人からすれば、私たちだって小娘なんでしょうけど」


 砕けた口調とは裏腹に、彼女の手は優雅な所作でカルパッチョを口に運んでいる。よく見ると、ピンクベージュのマニキュアで爪も上品に彩ってある。


「優美凪さんが小娘って、まるでイメージに合わないんだけど」


 苦笑しつつ、優も自分のメインディッシュ『鶏肉のカチャトーラ』を、遠慮なく食べ進めていく。どうせ今夜も「あんたに奢ってもらうほど貧乏してないわよ」と、さっさと支払を済まされてしまうだろうし、本当に彼女の方が稼いでいることもよく知っている。

 十三も年上の従姉、朴優美凪は優にとって実の姉みたいな存在だ。彼女の名字からもわかるが、兄妹である優美凪の父、そして優の母は在日韓国人二世であり、血筋的には自分たちも日韓のハーフになる。ただ少なくとも優は、自分のルーツが原因で何かを悩んだ覚えはほとんどないし、優美凪も「若い頃はちょっと意識もしたけど、最近はますますどうでもよくなってきた感じ」と以前言っていた。


「変に肩肘張るより、自然体で楽しく生きるのが一番よ」


 とも。その言葉を実践するかのように、彼女は大手出版社の編集者としてバリバリ仕事をこなしながらも有給休暇はきっちり消化し、ふらりと海外旅行に出かけたりしている。会社ではそれなりのポジションに就いていて、しかも独身というのもあるのだろうが、人生を謳歌するというフレーズがまさにぴったりの自立した女性なのである。ちなみに恋人がいたことも「なくはない」そうだが、優が高校に入学した頃から、文字通り肩肘を張らないでいい相手だからか、しょっちゅうこんなふうに呼び出して食事をご馳走してくれるようになった。


「あ、これも美味しい! ほら、優も食べなさい」


 新メニューだと喜んでいた『炙り鮭のカルパッチョ』をこちらにも勧めながら、優美凪は幸せそうに皿を空にしてゆく。二十代の頃からずっと同じスポーツクラブに通い続けているというこの従姉は、運動好きらしく健啖家でもある。だからだろうか、四十を超えた年齢にはとても見えず、二人して初めて入る店では、「カップル用の個室もご用意できますが」などと言われてしまうこともしばしばだった。


「ありがとう。ほんとだ、美味いねこれ。俺のも食べる?」


 逆に自分の鶏肉を勧めると、優美凪の方も遠慮せずに「ありがと。じゃあ一切れちょうだい」と即座にもらってくれた。通りがかった若いカメリエーレが、そんな様子を見て上品な微笑を浮かべる。今日は優美凪行きつけのイタリアンレストランなので、彼女は店に入った時点で、多くのスタッフと親しげに挨拶を交わしていた。


「でもまさか、優がスポーツ関係のお仕事に就くとはねえ。なんだかんだで、結局は自転車屋さんの息子ってわけか」

「だからスポーツ関係って言っても、現場じゃなくて準備室だって」


 定期的に会う関係だし、優美凪も優の仕事に関してはよく知っている。なんの因果か、国家規模とも呼べるプロジェクトに携わっている現状も、NASC設立準備室への出向が決まってすぐの時点で報告済みだ。

 ちなみに彼女の指摘通り、優の実家は昭和初期から続く『大取サイクル』という自転車ショップだったりする。自身はまったく詳しくないが、マニアの多いロードバイクなどに関しても初心者や女性、さらには外国人にも丁寧にレクチャーしてくれる優良店として、自転車好きの間ではかなり有名なのだとか。


 もらった鶏肉を美味しそうに飲み込んだ優美凪が、「現場じゃなくても、結果としてアスリートさんのサポートになるわけじゃない」と、どこか面白そうに眉を上げた。


「で、今はどんなことしてるの? あ、もちろん差し支えない範囲でいいからね」


 学生時代はバレーボール部、現在もジムで筋トレを欠かさないという優美凪はNASCにも興味津々なようで、最近はこれまで以上に仕事絡みの質問が飛んでくる。


「今は実際に現場で使う備品とかの選定作業中。けど名前を見ても、さっぱりなものも多くて――」


 そこまで言いかけたところで優は、「そうだ」と閃いた。アスリートではなく一般人だが、編集者という職業柄この従姉はいろいろな知識を持っているし、何か参考になる意見をくれるかもしれない。


「優美凪さん、筋トレも詳しいんだよね?」

「詳しいってほどじゃないけど、一応高校のときから二十年以上続けてるわよ」


 それはじゅうぶん詳しいと言えるんじゃないか、とつっこみたいのを堪えて、質問を重ねる。


「バーベルのメーカーで、ハヤサカって知ってる?」


 すると、驚くべきことに即答された。


「当たり前でしょ」

「え」


 馬鹿みたいに口を開けて、優は固まってしまった。まさか編集者という職業は、バーベルメーカーを知っているのが「当たり前」なのだろうか。

 こちらの困惑をよそに、優美凪の方はなぜか活き活きした口調になっている。


「ウエイトリフティングとか筋トレとかの世界で、ぶっちぎりでナンバーワンの評価を受けてる日本のメーカーよ。本当に凄いんだから」

「はあ」


 うんうんと頷いた彼女は、グラスのロゼワインを一口飲んでから、誇らしげにその名を口にした。


「早坂鉄工所。世界のハヤサカ」




 優美凪の説明によればハヤサカ社は、完璧に近い重量精度と耐久性、そして何より使用者のことを考えての細かなこだわりが詰まったバーベルやダンベルによって、冗談でもなんでもなしに「世界のハヤサカ」と呼ばれる、業界におけるトップカンパニーなのだとか。


「トレーニング業界におけるソニーとかトヨタみたいな扱いなの。トレーナーさんやスポーツ科学の研究者さんなら、むしろ知らない方がモグリなくらいの」


 まるで自分の勤務先であるかのように胸を張りながら、嬉々として優美凪は語り続ける。


「もともと学校の体育用品とかも取り扱ってらしたんだけど、先代――あ、今は先々代か――の方が、知り合いのために作ったバーベルが評判になって、東京オリンピックのとき、正式にウエイトリフティング用バーベルを依頼されたのが最初だそうよ」

「へえ」

「以来、オリンピックとか世界選手権の公式バーベルはもちろん、国内ではプロ野球とかJリーグ、いろんな大学、海外でも沢山のスポーツチームとかスポーツクラブに、バーベルとかダンベルを納めてるんですって」

「……ふーん」

「でね、その最初のバーベルを作る際にモデルにしたのが、柔道の嘉納治五郎さんが輸入した日本初の本格的なバーベルで――」

「あ、あのさ、優美凪さん」

「何?」


 申し訳ないと思いつつもいったんストップをかけると、優美凪は形の良い眉をハの字にしてきょとんとなっている。宝塚の女優めいた凜々しい美人なのだが、こういう顔は意外と無邪気な感じで親しみやすくもある。

 表情に甘えるわけではないが、ずばりと優は訊いてみた。


「めちゃくちゃ詳しいけど、ひょっとして知り合いとかなの? そのハヤサカさんて会社」

「ああ、ごめんごめん。そうなの。先代の社長さんと奥さんに、ずーっと可愛がっていただいてるのよ。で、あとを継いだ息子さんご夫婦とも知り合いってわけ」

「マジで!? ソニーとかトヨタみたいな会社の社長さんと?」

「うん。といっても、今でも普通の町工場だけどね。儲けたお金も新しい機械を買ったり、少しでもいい材料を探して世界中を旅するのに使っちゃうんですって。先代も先々代もそうだったけど、はなから大企業にするつもりがないみたい」

「へえ」


 そんな民間企業もあるのか、と優は少々不思議な気分だった。営利を求める以上、会社を大きく育てたいと思うのが普通のはずだ。ということは、ハヤサカ社の人たちは職人気質というか、モノづくりが本当に好きなのだろう。


 いや、それにしたって……。


 今の職場もだが、本格的にスポーツと関わる人々の考えが、やはり優にはいまいち理解できなかった。勝手な偏見で申し訳ないが、自己犠牲とか利他主義とかにもとづく言動が、どうにも多すぎるように感じてしまうのだ。

 団体競技のアスリートが厳しいトレーニングを耐え、自分を二の次にしてチームのために尽くす姿。同様にトレーナーやコーチが、みずからのことは後回しで選手第一に行動する光景。


 ……なんか、浮世離れしてるんだよなあ。


 インドア派で、しかも十代の時分から「安定している」という理由で公務員を目指していた人間としては、つい捻くれた印象を抱きたくなる。


「ちょっとあんた、またヒネたこと考えてんでしょ。自転車屋の息子のくせして」


 十代どころか赤ちゃんの頃から自分を知っている優美凪には、さすがにお見通しだったらしい。呆れた表情とともに、行儀悪くフォークの先を向けられてしまった。


「そ、そうじゃないってば!」


 反射的に首を振ったものの、飛んでくる疑わしい視線は変わらない。というか、自転車屋の息子であることと捻くれていないことは、あまり関係ないのではないか。

 ともあれ「本当かなあ」とまだ疑わしそうにしながらも、優美凪はフォークを引っ込めてくれた。直後に、くるりと表情を明るく変えて言う。


「良かったら紹介してあげるわよ、ハヤサカさん。本所だから見学したくなってもすぐ行けるでしょうし。私も最初は友長さん――あ、通ってるスポーツクラブのマネージャーだった方ね、その人から紹介してもらったの」

「え!?」

「何よ、迷惑?」

「いや、全然ありがたいです。そこじゃなくてですね」


 ふたたびじろりと睨まれたので、思わず敬語になってしまいながら、優は驚いたわけを説明した。


「友長さんて、国立競技場のトレーナーをやってる友長賢一さん?」

「あら、知ってるの?」


 今度は優美凪が目を丸くする番だった。そうして優が、詳細は明かせないものの(といってもすぐに察したようだが)、友長にも仕事で協力してもらっている事実を話すと、彼女はまたしても重ねて頷いた。


「そっか。たしかに友長さんなら、いろいろと安心ね。さすがは国で一番のスポーツ施設じゃない」


 言いながら「ちょっとごめんね」と、隣の椅子に置いてあるバッグから携帯電話を取り出し、素早くボタンを押し始めている。誰にメールを送っているのか優もすぐに理解したが、返信もまた早かったようだ。ものの三十秒も経たないうちに、「おっ」とつぶやく優美凪の手から、端末の震える音が聞こえてきた。


「友長さんもびっくりしてるみたい。世の中狭いですね、って笑ってくれてるよ」


 世間ではまだ少ない、自慢のカラー液晶をこちらに向けてくる。言葉通り画面には、


《そうだったんですね! 驚きました。またすぐにミーティングさせていただく予定ですが、お会いできるのをますます楽しみしておりますと、よろしくお伝えください》


 という友長からの返信が、五十一歳にしては童顔の彼らしく(?)、笑顔の絵文字とともに明るく表示されていた。


「ちなみに友長さん、奥さんもトレーナーさんよ」

「へえ」

「私も最初は奥さんと仲良くなったの。まあ、二人とも同じクラブのスタッフさんだったから、ほぼ同時みたいなもんだけど」

「ああ、そういう繋がりだったんだ」


 世間は狭い、と優の方も思いながら、友長の姿をあらためて思い浮かべる。元ウエイトリフターだそうで上半身も下半身もがっしりとしてはいるが、つぶらな目としわの少ない童顔は、失礼ながら柴犬や小型の雑種犬を勝手に連想してしまう。つまりはそれだけ、外見も親しみやすい人なのだった。


「優からもなんかある? メールしといてあげるわよ」

「いや、いいよ。どうせ明後日会うし」


 笑って首を振ると意外にも優美凪は、「どこで会うの?」とさらに詳しく知りたがった。


「え? 国立競技場に俺が行く予定だけど」

「てことは、トレ室に伺うのね?」

「うん」


 どうでもいい話だが、「トレ室」という略語がすんなり出てくる一般女性は少ないのではないだろうか。けれどもそんな感想には気づかないまま、優美凪からの質問は続く。


「今までにも行ったことある?」

「ううん、今度が初めて。いつも友長さんが、こっちに来てくれてたから」


 国立競技場のトレーニングルームは一般人も利用できるので、アスリートのトレーニングはもちろん、主婦のダイエットから子どもの運動教室まで、トレーナー陣の指導業務は多彩かつ多忙らしい。友長は打ち合わせなどがあるたび、その忙しい合間を縫ってわざわざNASC設立準備室に足を運んでくれている。

 けれども今回は「いつも来ていただいてばかりで、申し訳ないですし」と、優の方が出向くことにしたのだった。ついでに外の空気を吸って、お茶でも飲んでこようという思惑も抱いてはいるのだが。


「まあそうでしょうね。でも、いい機会かも」

「優美凪さん?」


 勝手に何かを納得した様子で、またもや優美凪はワイングラスを手にうんうんと頷いている。しかも整った顔にはなぜか、楽しげな微笑があった。


「何? なんの話?」


 眉間にしわを寄せながらも、優が最後の鶏肉を忘れず頬張ったとき。

 姉のような従姉は、軽やかに告げてきた。


「きっと友長さん、素敵なバーベルも見せてくれるはずよ」

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