プロローグ
一本のバーベルが多くの人を繋いでゆく、歴史群像劇です。
©Lamine Mukae
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白い指がシャフトを握った瞬間、私の手にも、ひんやりした感触が伝わってきたように感じた。
滑り止めの炭酸マグネシウムを、彼女は少ししかつけない。
「できるだけ、バーベルと直に触れ合いたくて。単に気分的なものですけど」
出会って間もない頃、二歳年上の私に、まだ敬語を使いながら言っていたっけ。
さり気なく見つめる先で、見慣れたウォームアップのルーティーンが行われていく。
オーバーヘッドスクワット、フロントスクワット、デッドリフト、グッドモーニング、プッシュプレスからプッシュジャーク、最後にハイプル。
動作を見ただけで、私にはマニアックなエクササイズ名がわかってしまう。父にウエイトトレーニングを教わり始めた、高校時代からのことだ。といっても英才教育というわけではないし、そもそも我が家はアスリートの家系でもなんでもない。
ただ、いつもそばにあった。
銀色に輝いていたり、錆びついていたりする鉄の塊たちが。バーベルが。シャフトが。プレートが。
「門前の小僧じゃなくて、バーベル工場の娘だもんね」
気の置けない友人となってからは、彼女はそんな台詞もよく口にする。羨ましいなあ、という言葉を続けながら。
しゃがみ込んでファーストプルの体勢を取ったその目が、ちらりと動いた。一瞬だけ私の向こう側を見やってから、あらためてこちらに視線を合わせてくる。
生気溢れる大きな目が笑っている。今はウォームアップエリアだけど、本番のプラットフォーム上からでも、彼女はたまにこういうことをする。天真爛漫にして純真無垢。しかもキュートなルックス。
輝く瞳が何を見たのか、何を伝えたいのかわかって、私も笑みを返した直後。
小柄な身体がすっと立ち上がった。しなやかで美しい肉体が、プレートをつけたシャフトもろとも一瞬だけ伸び上がる。ウエイトリフターは腕の力をほとんど使わず、脚力で上げるのだということも私は知っている。彼女みたいな重量は扱えないけれど、よく知っている。
ほんの一秒ほどの後、私たちはもう一度笑い合っていた。
白い手が高々と掲げるバーベルとともに。
私の背後にある、それとよく似た、鳴らない鐘とともに。