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「なぁ、近々ブレイクが期待されるアイドル特集だってよ」
「どれどれ……ワナビープロの『ピエドプール』ねぇ」
ボーカルレッスンの前に英語の参考書を買いに立ち寄った書店で、香月琴乃は見知らぬ男子学生たちの会話に聞き耳を立ててしまう。
彼らの会話に出てきたユニット名は、まさに彼女が所属するアイドルデュオのものだったからだ。
「ふ~ん、全然タイプが違う二人組なんだな」
「黒ロンの娘と癖っ毛のボブの娘、お前はどっちが好み?」
「オレはボブの娘かなぁ、明るくて話しやすそうじゃん。そういうお前は?」
「俺もボブの娘。黒ロンの方はお高く止まってファンサ悪そうだし」
「あ~分かる。こっちの黒ロンは握手会の時でも仏頂面してそうだもんなぁ」
「例え営業スマイルでもさ、やっぱ会場まで足を運んでくれた俺らに満面の笑みで応えてほしいよなぁ」
やはり見る目のない素人の言葉になど耳を傾けるのではなかったと、琴乃は屈辱感に唇を噛み締めながら足早にその場を立ち去っていく。
自分の顔がそんなに高飛車に見えるのかと、事務所に向かう途中、琴乃は通りに面したビルのガラス窓に映った自分の姿に目を馳せる。
毎晩念入りに手入れしている自慢の長い黒髪は一筋の乱れもない。
アイドルである以前に女子の嗜みとして、当然スキンケアにも注意してるからニキビは顔のどこにもない。
高校生になってノーメイクはさすがに恥ずかしいが、極力肌に負担をかけないよう最小限に留めているメイクだって問題ない。
目鼻立ちの通った造作の顔付きは男に媚びたものではないから、さっきの男子学生たちのように琴乃を敬遠する連中もある程度は存在するのは仕方ないだろう。
けれど己の姿を再確認したことで、香月琴乃は人前に出ても恥ずかしくない存在だと胸を張って言い切れる自信を彼女は取り戻す。
今のままでアイドルとして成功を掴んでみせるんだと、琴乃はレッスンに向けて己を奮い立たせた。
* *
自分がアイドルとして直面している深刻な問題は環境に恵まれないことだと、琴乃は常々不満を抱えている。
精力ばかり不必要に滾らせるだけでまともに仕事を回せない新米が担当マネージャーであること以上に、パートナーに恵まれないことが大きな問題だ。
「日生さん、また音程外してますよ。声の大きさは充分だから、もっと丁寧に歌いなさい」
要領の悪い琴乃のパートナーはボーカルトレーナーから繰り返し同じ指摘を受けている。
「すみませ~ん。でもここってサビの部分じゃないですかぁ、だからつい気持ちが籠っちゃって……」
恐らく櫛も当てていないぼさぼさの癖っ毛を照れ隠しで掻いている日生いぶきと琴乃は『ピエドプール』というアイドルデュオとして活動している。
時折頬やこめかみにニキビを作っては、それを隠すのにメイクさんを苦労させているズボラないぶきが同い年とは琴乃はとても思えなかった。
仕事以外では一切メイクをせず、私服もパーカーやジーパンなどのラフでいまいち垢抜けず、万事に関してガサツないぶきとアイドル活動をしていることが琴乃の悩みの種だ。
「確かに日生さんの言うようにサビの部分ではあるけれど、ただ単に大きな声を出せばいいって訳じゃないですよ」
「けど、このサビの部分ってメロディが変調するじゃないですか。その切り替えが難しいんですよねぇ」
「難しいポイントが分かっているなら、尚更声量で力任せに押し切ろうとしてはいけませんよ」
意外に問題を把握しているいぶきの泣き言を聞いて、ボーカルトレーナーは苦笑する。
「香月さん、お手本をお願いしていいかしら?」
「……分かりました」
ちょっとやそっと手本を示したところでいぶきの声量にものを言わせた雑な歌が改善されるとは思えないが、トレーナーに頼まれたので琴乃はその申し出を引き受ける。
基本的には淡々としたメロディで仄かな恋心を紡ぐこのラブソングの中で、サビの部分だけは強い感情を露にする構成だ。
一番の盛り上げ場であるサビで、いぶきが歌詞とメロディに合わせようと高ぶる感情任せに声量を上げたい気持ちは、琴乃にも分からなくはない。
けれどサビの後はすぐに元の淡々とした曲調に戻るのだから、ここで極端にトーンを上げてしまうと曲全体を通した時にサビだけ悪目立ちしてしまう。
だから声のトーンはこれまでよりもそれほど強くせず、変調したメロディに沿って丁寧に歌うことが正解だ。
デュオを組んでいる琴乃に手本を示されているのに、いぶきから彼女に向けられる視線には羨望の色が浮かんでいた。
「流石香月さん、譜面に忠実な歌い方ね。さあ日生さん、香月さんのお手本をイメージして歌ってみて」
「琴乃ちゃんみたいに……分かりました」
ボーカルトレーナーに促されると、いぶきは居ずまいを正してレッスンを再開する。
琴乃が手本を示したおかげか、先ほどよりはメロディに沿った歌い方になる。
しかし声量は圧倒的に抑えられているのに、譜面に従って歌ういぶきがとても息苦しそうに琴乃には見えてならない。
いぶきはアイドルになるまで受けた音楽教育は学校の授業の範囲だけで、ピアノもバイオリンも習った事がなかった。
中学時代は毎年合唱コンクールに向けて練習していたといぶきは得意気に話してはいたが、学校行事のための付け焼き刃しかない。
だが琴乃は同じ事務所でアイドルになるよりも前、中3の合唱コンクールに参加した時からいぶきの存在を意識していた。
そのコンクールで琴乃の中学は金賞を受賞し、全国大会でも入賞を果たす成果を残した。
一方、いぶきの学校は県のコンクールでも入賞すら果たせなかった。
公立校の寄せ集めの拙い歌唱力では当然の結果だが、加えて突出した声量の持ち主がいたせいで全体のバランスすら欠いていた。
伴奏のメロディなんて気にしない、むしろ掻き消すような勢いで高歌放吟したその圧倒的な声量の持ち主こそ、琴乃がデュオを組むいぶきだった。
いぶきはソロコンクールに出場した訳ではないし、仮にソロでも調子の外れた歌が評価されるはずもない。
けれどコンクールの会場に厚い雲のような立ち込めた緊張感を吹き飛ばして、晴れやかな青空が広がるようなのびのびとしたいぶきの歌声に琴乃は引き込まれていた。
金賞を収めてもどこかやるせない想いを抱えたまま合唱コンクールを終えた琴乃は、奇しくもその歌声の主と芸能事務所で再会を果たす。
だが自身が聞き入った歌声の持ち主は正真正銘のド素人であると判明し、琴乃は密かに大きな落胆をしていた。
* *
次の週末、足柄颯介がマネージャーとして担当しているアイドルデュオ『ピエドプール』はライブを控えている。
ライブと言ってもアリーナを借りきって数万人の観客を動員する大がかりなものではなく、地域のお祭りにゲスト出演するだけの本当に小さなものだ。
おまけに出演時間も限られており、ステージでのパフォーマンスは辛うじて1曲分を確保するので手一杯の状況だ。
それでも観客を前にライブが出来ると聞いて、彼が担当するアイドルたちはイベントに向けてモチベーションを高めている、はずだった。
「……お先に失礼します、お疲れ様でした」
癖っ毛のボブカットがトレードマークで、普段は元気いっぱいで笑顔を絶やさない日生いぶきが、意気消沈した様子で退社していく。
「どうしたんだいぶき、もしかして体調が悪いのか?」
「体調は問題ありません。ただ今のままだと週末のライブで琴乃ちゃんの足手まといになっちゃいそうなのが情けなくて……」
いぶきと彼女のパートナーは週末のライブに向けてボーカルレッスンを受けていたが、どうやらトレーナーにみっちりと絞られてしまったらしい。
「いつも言っているけどお前と琴乃の2人揃って『ピエドプール』なんだ。ちょっとくらい歌やダンスをミスったって気にせずに堂々としてればいいんだ」
「……琴乃ちゃんは歌もダンスも完璧なんです。だからわたしがヘマをしたら、みんなにバレバレじゃないですか」
パートナーがライブに向けて十全に準備を整えているのに対し、自分が大幅に遅れてしまっていることにいぶきは強い焦りを抱いているようだ。
「けどライブまでまだ時間はありますし、本番では琴乃ちゃんの足を引っ張らないように頑張りますっ」
「おい、いぶき……」
いぶきはぎこちなく作り笑いを浮かべると、ぴょこんと頭を下げて逃げるように事務所から出ていく。
いぶきが空元気を振り撒いているのは明らかなのに、マネージャーのくせに彼女に励ましの言葉1つかけてやれなかったと彼は忸怩たる思いを抱く。
「お疲れ様でした、マネージャーさん」
「すまない琴乃、ちょっとだけ話をさせてもらってもいいか?」
相方とは対照的に香月琴乃がいつも通りの澄ました態度で退社しようとするのを、慌てて彼は呼び止める。
「家に帰ってから学校の課題をしなければならないんです。用件があるなら手短にお願いします」
「帰り際に話した時にいぶきが相当ヘコんでいたけど、あいつの仕上がりはそんなに酷いのか?」
いぶきの半分、いやその半分でもいいから愛想をよくしてくれないものかと琴乃のつれない態度に辟易しつつ、彼は単刀直入に用件を切り出す。
「歌詞は飛ぶし、歌の音程もたびたび外す、ダンスも振り付けを覚えきれていない。週末にライブを控えているのに、そんなザマでは擁護のしようがないでしょう?」
歯に衣切れぬ物言いで琴乃はいぶきの現状にダメ出しをする。
「確かにそれは誉められたものではな……けど、そういう時こそパートナーの琴乃がフォローしてやらないと……」
「私はライブに向けてしっかりと備えてきました。デュオを組んでいる以上、日生さんにも私と同じレベルのパフォーマンスをしてもらう必要があります」
自分は要求された通りの水準までパフォーマンスを高めてきたのだから、パートナーであるいぶきも同レベルを求めるという琴乃の言い分は正論だろう。
「……少し論点をずらすけど、仮にライブまでの残り時間でいぶきがお前と同じレベルのパフォーマンスが出来るようになると思うか?」
「出来る出来ないではなく、やってもらわないと困ります。私たちはプロなんですから、お客さんに半端なパフォーマンスを見せる訳にはいきません」
「それはそうなんだが……」
琴乃はプロのアイドルとして正論を言っているのは確かだが、どうしてもマネージャーは彼女の言動に納得出来ない。
「だったら琴乃も爬虫類との触れ合いイベントだとか、ビラ配りとかももっと積極的に取り組まないとな。ああいう仕事だって事務所として依頼されて代価をもらっているれっきとしたアイドルの仕事なんだからな」
「あんな雑用とライブは別の話ですっ」
アイドルとして依頼された仕事なのに、四の五の不平ばかり垂れて及び腰になっていた案件を持ち出すと、琴乃は決まりの悪そうな顔を浮かべる。
「いいや、お前の嫌がる雑用もウチの事務所が頼まれた大切な仕事だ。ならそういうのにも完璧に対応してくれないとな」
「ああいう仕事は日生さんがしっかりと対応してくれるから、別に私がやらやくても……っ!」
「わかったろ。琴乃が歌やダンスが完璧に覚えられるように、いぶきにも得意なことはたくさんある」
会話を通して琴乃は自分がいぶきにフォローされていた場面がいくつもあることに思い至る。
「もちろんいぶきにも歌やダンスを上達してもらわないといけないが、それが一朝一夕で身に付くものじゃないのは琴乃がよく分かってるだろ?」
担当マネージャーとしての贔屓目もあるが、幼少期から声楽やピアノに打ち込んできた琴乃の歌唱力やリズム感はアイドルとしてかなりの高水準だと彼は評価している。
琴乃が誇る音楽的なセンスは弛みない努力の積み重ねであることは、他でもない彼女自身が誰よりも理解しているだろう。
「……そうですね」
珍しく琴乃は彼に同意する。
「だからさ、週末のライブは少しでもいぶきの良さが見せられるようにフォローしてやってくれよ。頼む、この通りだ」
マネージャーは椅子から立ち上がると、姿勢を正して年下の少女に深々と頭を下げる。
「仮にも成人男性が女子高生にそんな風に頭を下げてお願いするなんて、恥ずかしくないんですか?」
「琴乃のライブに掛ける意気込みに負けないくらい、俺だって本気だ。ライブをいいものに出来るのならこんなの全然恥ずかしくないっ」
小馬鹿にするどころか、憐れむような口調で投げ掛けられた琴乃の問いに、俺は微塵も恥じることなく即答する。
「……分かりました。次のライブはどうにか日生さんの良さが出せるようにフォローしてあげますよ」
琴乃は小さく溜め息を吐くと、マネージャーからの申し出を聞き入れる意思を示す。
「ありがとう、琴乃っ」
感極まったマネージャーは上体を起こすと、その勢いで要望に応じてくれた琴乃の両手を握ってしまう。
「……譜面に忠実でもそれが完璧な演奏とは限りませんからね、アドリブのアレンジを試す機会だと割り切ってあげます」
突然マネージャーに手を握られて目を丸くしたものの、意外にも琴乃は手を振りほどこうとはせずに視線を横に反らしただけだった。