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3・番外編 アリス視点



 一歳の誕生日、アリスは母から大きなユニコーンのぬいぐるみをもらった。


 それがマルガレーテ。


 そのときの記憶はないものの、そこから毎年、色違いのユニコーンのぬいぐるみをもらうようになった。


 母がひと針ひと針、心を込めて縫ってくれたユニコーンのぬいぐるみたちは、アリスにとってかけがえのない兄弟となり、友だちとなった。


 母とマルガレーテたちだけいればいい。


 ほかの人はいらない。


 幼い頃のアリスはいつもそう思っていた。




 アリスは伯爵家待望の後継として生を受けたが、あまりにも期待外れな息子だった。


 女の子のような顔で、女の子よりも小さな体、力も弱く、運動も苦手。話し出すタイミングも人よりかなり遅く、しゃべってもぽそぼそと自信なく俯き、同じ年頃の子供たちにいじめられては、すぐに母に泣きついた。


 父はそんなアリスを軟弱だと言っては怒鳴りつける。


 だから物心つく頃には、父親が世界で一番怖い人なのだと思うようになっていた。


 母が優しい声で呼んでくれるアリスという愛称は好き。だけど、父が罵声のように呼ぶ本名のアリスティードは、あまり好きにはなれなかった。


 アリスはかわいいものが好きだ。


 色だって父の好む黒や青よりピンクが好きだし、食事だって肉や魚よりもあまいお菓子が好き。剣の真似事をして木の枝を振り回すよりもレースを編んだり刺繍したりする方が好きだし、庭で駆けっこするよりも部屋でマルガレーテたちとおままごとをする方がずっと楽しかった。


 なにより、女の子たちが着ているフリルのついたふわふわのドレス。


 あれが着られたらどれだけ幸せだろう。


 だが父がいる限りそんなものは着せてもらえるはずもなく、襟に控えめにフリルのついたシャツを着るので精一杯だった。


 それですら父はいい顔をしなかったが、アリスは頑なにフリルやレースや刺繍のついたシャツを選び続けた。


 この頃のアリスの楽しみは、母が小さな子供の頃に着ていた服をこっそりと自室で着ることだった。


 母はアリスの唯一の理解者であり、新しいものは仕立ててあげられないけれどと言いながら、実家から服を取り寄せてくれていた。


 父の目を盗んでこっそりと集めたかわいい小物を並べた部屋で、お下がりではあるがかわいいドレスを着て、マルガレーテたちと過ごす。それがアリスが自分であれる唯一の時間だった。


 だけど一歩外に出てしまうと、世界はアリスにとことん厳しい。男の子たちには女の子みたいだと揶揄われていじめられ、女の子たちには気持ち悪いと言われ、またいじめられる。


 外は怖い。


 そう言って泣くアリスを、マルガレーテたちがよく慰めてくれた。

 

 あまり部屋から出なくなったアリスのことを、父は失敗作だと言って蔑んだ。次はもっと健康でまともな子を産めと、母のことを詰ることも忘れない。アリスができたのも結婚から数年経ってのことで、次の子はあまり期待しない方がいいと医者にも言われていた母は、詰られる度、ひとり泣いていた。


 だからアリスは、家の中でもできる勉強だけは必死にこなした。幸い、学ぶことは嫌いではなかった。


 そこだけは最低限父が認める基準に達していたのか、次第に母が八つ当たりされることは少なくなっていった。


 父にとっての母は、人ではなく、美術品。金で手に入れた所有物のひとつに過ぎなかった。


 だからアリスに手をあげることはあっても、母に手をあげることだけは決してなかった。


 手に入れた大事な美術品を自らの手で傷つける愚か者などいない。


 母がクッキーを焼いたときのことだ。父は烈火のごとく母を叱りつけた。指を火傷したらどうするのだと、散々喚き立てた。母を思っての言葉ならよかった。だけどそうではない。自分の所有物を傷つけるのは、その本人でも許せなかったのだ。


 子爵家に連なる爵位のない下級貴族出身の母は、伯爵である父が見そめて強引に結婚を迫るくらいに美しい人だった。


 家から出さず、来客に自慢し、時折り愛でて楽しむ。父にとって大事なのは母のその美しい容貌だけで、中身はなにひとつ必要なかった。


 だけど人間とは、歳を重ねて成熟する生き物だ。


 父にとっての母は、“賞味期限のある”美術品だった。


 母が二十代の終わりに差しかかった頃から、父は少しずつ母への態度を変えはじめた。


 母に対する執着や束縛が目減りし、アリスに対してもうるさく小言を言わなくなった。


 ほっとすると同時に漠然とした不安が胸を占め、嵐の前の静けさのような時間を、気づかないふりをしてやり過ごす。


 そうしてしばらくした頃、父は適当な理由をつけて、母とアリスを家から追い出した。まるで母とアリスが悪いかのような理由をつけて、一方的に。


 そのとき父は、すでに見つけていたのだろう。


 母の代わりとなる新しい美術品を。


 父は新たに見そめた若くて美しい娘を妻とするために母を捨て、その新しい妻に後継を産ませるからとアリスを捨てた。


 母は泣いたが、アリスは泣かなかった。


 だってアリスの世界ははじめから、母とマルガレーテたちだけで完結していたのだから。


 悲しくもなければ、寂しくもなかった。


 ただ漠然とした不安があるだけ。


 それでも、世界で一番怖い人の支配から逃れられたのだ。


 そこには確かな希望があった。


 そしてなにより、自由が。


 母と母の実家へと戻り、アリスはようやく自分を偽るのをやめることができた。




 母の実家は前の家ほど裕福ではなかったが、それでも、父という恐怖の対象がいないだけでもこちらの家の方がずっといいと思えた。


 だけど従兄弟たちは、狡猾にも大人の目がないところでアリスを馬鹿にしていじめる。彼らが遊びに来ている間は、アリスは部屋にこもりきりでマルガレーテたちと遊んだり、勉強したりしながらやり過ごした。鍵のついた部屋の中だけは、唯一安全な場所だった。


 そんな日々がずっと続くと思っていた矢先のこと。母が突然再婚すると言い出し、アリスはとても驚いた。


 せっかく父から離れられたのに。また同じようなことになるのではないかと不安になった。


 アリスは大人の男の人が苦手だ。どうしても父のことを思い出してしまい、向き合うと萎縮してしまうのだ。


 しかも母の再婚相手には、アリスよりもふたつ歳上の娘がいるらしい。


 同年代の子も好きではない。


 母の実家に来てから、自由を得たアリスは自分の好きなドレスを着て外を歩いたことがある。


 結果、伯爵家にいた頃よりも、従兄弟たちの悪口よりもずっと、暴力的にいじめられた。


 男なのにドレスなんて着て気持ち悪い、と。


 異物を排除するかのように、石を投げられ、枯れ枝で殴られ、ボロボロのドレスで泣きながら逃げ帰った。


 前は伯爵家の嫡男だったから暴力を振るわれることはなかったのだと、そのときになってはじめて知ったのだ。


 その件があってしばらく部屋から出なかったせいで、母の再婚話は寝耳に水で、だけど自分の感情をうまく伝えられないアリスは、なす術もなく養父となる人とその娘と引き合わされることになった。


 どちらにしてもアリスの意思など関係ない。


 ごねて嫌がったところで、母の再婚は決定事項だ。


 アリスは男の子用の服を、全部伯爵家に置いてきた。それを言い訳に、淡い水色の外出用のドレスを着たアリスに、母はなにも言わなかった。それがまた少し不安でもあった。


 マルガレーテたちは、迷ってから、部屋に置いていくことにした。伯爵家にいた頃、マルガレーテをいじわるな子たちに池に落とされそうになったことがあるのだ。


 だからマルガレーテたちを持って来ることが躊躇われ、だけどそのせいで心細く、養父になる人の顔も、義姉になる人の顔も見られずに、母の背に隠れるようにしてずっと俯いていた。


 アリスの視界にあるのは義理の姉となる人の靴のつま先。踵が高くてアリスには履けない靴だ。きっとこの靴が似合う大人びた雰囲気の女の子なのだろう。


 それに比べて、自分は……。


 二歳しか違わないのに、母の背中に半分隠れていることがとてつもなく子供っぽい気がして、恥ずかしくなった。


 それでも後ひとつ勇気が出ず、どうしても顔を上げることができない。


 義父となる人は、実父とは違い、静かに語りかけるように話しかけてくる。だからだろう。顔を見なくても不思議と怖いという感情は湧いてこなかった。


 少しほっとして、気を緩めたときだ。凛とした女の子の声がアリスの頭上へと落とされた。


「しっかり顔を上げなさい」


 義姉となる人の声だと瞬時に理解し、アリスはびくりと肩を震わせた。


 みっともないからしっかりと顔を上げろと、何度も、繰り返し、父に怒鳴られたことを思い出す。きっとそういう意味なのだろう。アリスは萎縮してしまい、動けなくなった。


 だけど。


 続けられた言葉は、アリスの予想外のものだった。


「せっかくかわいい服を着ているのに、そんな風に俯いていたら台なしでしょう?」


「……え?」


 驚いて、思わず顔を上げていた。思った通り、義姉は大人びた雰囲気を持つ、綺麗な顔立ちをした女の子だった。


 呆然とする情けないアリスの姿が映るその菫色の瞳には、好奇心や侮蔑の色はひとつもない。


 ただまっすぐ、アリスという人間を見つめていた。


 ひどい言葉を投げつけてくる子たちとは全然違う雰囲気に戸惑う。少し目線を斜め上にずらすと、義父となる人も同じ目をしていることに気がついた。顔立ちや雰囲気も含めて、とてもよく似た親子に見えた。


 アリスはこういう人と会ったことがない。どう反応していいのかわからずに、口をもごもごとさせていると、彼女が言った。


「わたしのことは、お義姉様でいいわよ」


 アリスが彼女のことをどう呼べばいいのか躊躇っていたように見えたのだろう。瞬いたアリスは、促されるまま、ただ繰り返した。


「……お、お義姉、様……?」


「そうよ。あなたの義姉の、ヴィオラよ。よろしくね」


 そう言って微笑んだ義姉はこれまで目にしてきたなによりも綺麗で、きらきらと輝いて見えて、胸の奥がぎゅっと掴まれたアリスは、そこからの記憶がほとんどない。


 その日は食事も喉を通らず、義姉のことを思い出しては、その度に頬に熱が集ってマルガレーテを抱きしめながらベッドの上で何度もそわそわと寝返りを打ったりした。


 きちんと自分の名前を言えたかもわからない。


 義姉は呆れただろうか。


 もう話しかけてはくれないだろうか。


 だけど自分から話しかける勇気は出ない。


 アリスはあまり人と話してこなかったせいか、思ったことをうまく口に出して伝えられない。どうしても言葉につっかえてしまうのだ。


(お義姉様に、嫌われたらどうしよう……)


 いじめられたらどうしようと思っていたはずなのに、今はそれが新しい家へと越して来たアリスの一番の悩みとなった。


 平和的な悩みではあったが、アリスにとっては一大事だった。




 新しい暮らしがはじまってみると、母と義父が愛し合って再婚をしたわけではないというのがすぐに見えてきた。


 アリスを連れて実家に戻った母だが、やはり肩身の狭い思いをしていたのだろう。アリスを抱え、先行きが不安だったのも理由かもしれない。


 娘ひとりしかいなかった義父は、周りからしつこく再婚を勧められてうんざりとしていたらしく、母の身の上を聞くとちょうどよかったと言って手を差し伸べてくれたらしい。


 お互いの利害が一致した結果の再婚だったが、ふたりの仲はアリスから見ても良好と言えた。もしかすると以前からの友人だったのかもしれない。会話の端々にそう感じさせる響きがあった。


 アリスの知る母は、いつも家に閉じ込められていて、会う人は完全に実父によって管理されていた。だからアリスは、母は自分と同じで友人がいない人なのだと思っていたほどだ。母に対しての認識を改めざるを得なかった。


 義父は母がクッキーを焼いても怒らない。火傷したとしても、次は気をつけなさいと言いながら薬を差し出す人だ。実父とは違い、母の行動を制限しようとはしない。


 なにより義父は、母の焼くクッキーが好きらしい。


 あまい匂いが漂って来ると、その度にアリスは幸せな心地になる。


 そういう些細なことの積み重ねで、義父はアリスにとっての、数少ない怖くない男の人となった。


 義父はアリスが気後れしないよう、「ヴィオラがもし家を継がない場合、養子を取らないといけなかったから、きみが来てくれてよかったよ」と言ってくれた。


 もちろん気遣いからの言葉だろうとわかってはいたが、実父にはそんな言葉すらかけてもらったことはない。


 義父も義姉も、アリスを腫物に触るように扱ったりはしなかった。


 普通の家族のようにあいさつをして、普通の家族のように一緒に食事して、そして普通の家族のように間違っていることは叱る。


 どれほど安心したことか。


 そういう普通の暮らしを、どれだけ心の中で望んでいたか。


 ふたりともよく、庭でもいいからたまには外に出なさいと言った。


 こもりがちでは健康によくない。日の光を浴びないと、人は気分が滅入るものらしい。


 世間体のためだけの言葉ではなく、アリスを思っての言葉だ。


 叱る言葉には、アリスのため、という思いが必ず込められている。


 実父のように、自分の思い通りにならないからと怒鳴りつけることを、叱るとは言わないのだと、ここに来てはじめて知った。


 この家で暮らすことにも慣れて、それでも、臆病なアリスはよほどの用がない限り、自分からヴィオラに話しかけるということができなかった。


 なにを話せばいいのかわからない。話したことで嫌われてしまうのが怖い。


 それになにより、義姉を見ているとなんとなくわかってしまうのだ。


 アリスにとっては義姉が特別な存在であっても、彼女にとって、自分が特別な存在なわけではないということが。


 だけど義姉にとって義弟はアリスだけ。


 それを喜ぶ自分と、不思議とそうでない自分がいる。


 相反するこの感情が、アリスにはまだよくわからなかった。





「あら、難しい本を読んでいるのね」


 前の家を出てからも、アリスは勉強は続けていた。


 知らないことを知ることはやっぱり楽しい。


 外に行かなくても、本を開けばアリスの知らない世界で溢れている。ページをめくればどこへだって行けるのだ。


 そばに義姉がいたことにも気づかず本に集中していたアリスは、声をかけられたことに驚いて、椅子から転げ落ちそうになった。


 半分くらいずり落ちていたが、慌てて立ち上がって義姉と向き合った。


 彼女は踵の高い靴を履いていることが多いので、アリスはいつもちょっとだけ見上げる形となる。


「大丈夫?」


「だっ、大丈夫、です……」


 アリスの大丈夫という言葉を汲んでくれたのか、義姉はこの件に関してはそれ以上追及してこなかった。代わりにアリスが机に積んでいた本のいくつかを手にして言った。


「経済学の本に、経営学の本?」


「それは、その……ちょっとでも、お義父様のお手伝いができればと……」


「そう……」


「あっ……余計なことだったら、やめます!」


 義姉を押し退けて家を継ごうと企んでいるように思われたかもしれない。


 慌てながら本を片づけていると、頭にふわりとなにか乗せられた。それが義姉の手だとわかると、ぶわっと一気に頬に熱が集まり、よしよしとされると、もう指一本ですら動けなくなった。


「いい子ね。お父様や、この家のことを考えてくれるのはありがたいけれど、恩を感じてとか、そういう理由でなら、考え直した方がいいわよ。あなたの人生なのだから」


「そ、そういうわけでは……」


「あなたのしたいことをすればいいわ。それを咎める権利は誰にもないでしょう?」


 その言葉に、アリスはなぜか実父のことを思い出した。


 あの人はアリスのことをなにひとつ理解してくれず、出来損ないだと咎め続けた。


 実の父だから、アリスのことを咎める権利があるのだと、心のどこかでそう思っていた。


 だけど、違ったのだろうか。


 あのとき、反論しても、よかったのだろうか。


 今さらな話ではあるが。


「義務感とかではなく、本心からお父様のことを手伝いたいと思ってくれているのなら、言ってあげたら喜ぶわよ」


 髪をするりと滑り降りて離れていったその手を、指先を、名残惜しく目で追いかける。


 義姉が去った後も、アリスはひとり、頰を染めたまま俯いていた。


 そうしないと、今起きたことが儚い夢となってすべて消えてしまいそうで。


(ああ、だけど……)


 もしこれが夢なら、一生醒めないでほしい。


 心から、そう思った。





 もしかすると自分は、なにかの病気なのかもしれない。


 アリスは真剣に悩んでいた。


 日に日に強くなるこの胸の痛みはなんなのか。


「胸が苦しい……」


 義姉を目にすると心臓がおかしいくらいにどきどきするし、声をかけてもらえるだけで飛び跳ねたくなるほど嬉しくなる。そばにいなくても思い出すだけで苦しくなって、触れてもらえた日には、もう……。


 ベッドで胸を押さえながら丸くなっていると、こい、と、子供のような声が聞こえた気がして、アリスは身を起こした。


 室内をぐるりと見渡してから、マルガレーテで目を留めた。


 マルガレーテはたまにしゃべる。


 一番はじめにもらったぬいぐるみなので、ともに暮らした年月も一番長い。大事にしていれば、ぬいぐるみだってしゃべり出すようになる。アリスの常識ではそうだ。


 とりあえず、来い、と呼ばれたので言われるがままにそばまで行くも、マルガレーテは沈黙したまま、うんともすんとも言わなかった。


 もしかすると空耳だったのだろうか。それとも、聞き間違いか。


 しかしそれはそれで怖い。アリスはぬいぐるみがしゃべる分には平気だが、幽霊などの類はとんとだめな質だった。


 それならぬいぐるみがしゃべったと思う方が心に優しい。


 アリスは自分の心の安寧を死守するため、マルガレーテへと話しかけた。


「来い、じゃないのなら……濃い?」


 しかしよく考えてみると、一体なにが濃いと言うのだろうか。濃淡で言えば、アリスは淡い方が好きだ。


「違う……? それなら、恋とか?」


 さらっと自分の口から出て来た言葉に驚き、アリスは口元を手で覆った。


「えっ!? こ、恋……?」


 気づいてしまえば、すとんと腑に落ちた。


 呆然としながら、そのままその場に座り込む。


 そうだ。これは病。誰でも罹りうる病。治し方もわからない、不治の病。恋の病。


(お義姉様に、恋……)


 どうしよう。


 アリスは真っ赤になった頰を両手で包み込む。

 

 恋をしてしまった。


 義理ではあるが、姉となった人に。


 そして気づいた瞬間に打ちのめされた。


 だって、叶うはずがない。


 彼女はアリスのことを義弟としか見ていないのだから。


 それ以前に、自分が選んでもらえるはずがない。


 恋を自覚した直後に失恋した。


 泣きたい。




 アリスは自分が恋をしているのだと気づいてから、ますますヴィオラに話しかけるということができなくなった。


 いつも以上に挙動不審なアリスにも、義姉は普段通りに接してくれる。変な目を向けられたことは一度もない。しっかりしなさいと叱られるとしゅんとするが、こうして気にかけてもらえていることが嬉しくもあった。


 気持ちを伝えたところで嫌悪感を示すような人ではないが、それでもふられてしまった後のことを考えると躊躇してなにも言えないまま、自分の情けなさに部屋に戻ってから落胆する日々。


 義姉と一緒にしたいことが山ほどあるのに、それを実行するにはアリスは意気地なしだった。


 手を繋いで、一緒にお出かけしてみたい。


 普通の人たちのようにカフェでお茶をしたり、お互いの注文したケーキを食べさせ合ったり、恋人同士みたいなことを。


 さすがに叶うはずのない夢ではあるが、誘えばお茶くらいはつき合ってくれるかもしれない。


 まずは小さなことからひとつずつ。


 今よりも仲良くなれるように、アリスは長い時間をかけて自分を奮い立たせ、ヴィオラをお茶に誘う決意をして部屋を出た。


 どきどきする胸を手で押さえながら義姉を探すと、すぐにリビングのソファに座る後姿を見つけた。なにやら集中している様子で、背後からそっと手元を覗き込む。めずらしいことに針を持ち、ハンカチへと丁寧に刺繍を入れていた。


 あまり裁縫をする姿を見たことがなかっただけに不思議に思っていると、アリスに気づいたらしく、顔を上げた彼女が短い糸の端を摘んで言った。


「これと同じ色の刺繍糸を持っていない?」


 なにごともそつなくこなす人なので、途中であっても刺繍のできは上々だ。これが中途半端になるのはアリスとしても不本意だった。


 アリスは慌てて自室へと戻って、同じ色の糸を持って来るとはにかみながら差し出した。義姉の力になれるのならなんだって嬉しい。


「ありがとう。これで間に合いそう」


「贈り物か、なにかですか?」


「そう。婚約者に」


「……え」


 一瞬、なにを言われたかわからなかった。


「婚約、者……? え? え?」


 困惑するアリスに、義姉がふっと眉根を寄せて小首を傾げた。


「あら、聞いていなかったの? お父様、たまに抜けているから言い忘れていたのね。わたし、結婚するのよ」


「え……」


「裕福な伯爵家のご子息らしいけれど、ずっと病弱な妹さんを気にして結婚相手を探していなかったらしくて。ようやく妹さんが元気になったとかで、なぜかうちに話が来たの」


 義姉の声が遠くに聞こえる。


「しばらくお付き合いしてみて、お互いよければすぐに結婚になりそうよ」


 血の気が引くとはこういうことなのかと、アリスはそんなことを思いながら立ち尽くしていた。


「今度顔合わせがあるから、なにか贈り物を用意しないといけないでしょう? ハンカチだけでもいいとは思うけれど、せっかくだから刺繍でもしておこうかとね」


 第一印象が肝心だから、と微笑みながら言うヴィオラは、蒼白となっているアリスには気づくことなく、手元のハンカチへと真剣に刺繍を刺している。


 アリスはふらふらした足取りで部屋へと戻ると、そのまま前のめりにベッドに沈み込んだ。もう指一本だって動かせる気がしない。


(婚約者……)


 なぜだろう、家族である限り、ずっと一緒にいられると思っていた。


 この家を継いだ彼女を、アリスはそばで支えていくのだと信じて疑いもしなかった。


 よく考えれば義姉が結婚しないはずがなかった。


 なぜそんな簡単なことを忘れていられたのか。


 アリスの世界は一瞬で真っ暗になった。


 これほどの絶望感を味わったことはない。


 実家を追い出されたときですら、未来への希望があった。


 当然の帰結ではあるが、アリスは部屋に引きこもった。


 嫌なことがあると内側にこもるタイプなのだから仕方ない。


 今顔を合わせたら、きっと余計なことを言ってしまう。


 義姉の幸せを邪魔するほど、アリスは愚かではなかった。


 それでもじわりと涙が溢れるのはどうしようもなくて、枕に顔を押しつけて声を殺して泣いた。


 もっと早く、想いだけでも伝えていればよかった。そうしたら、ふられていたとしても、きっとここまでの後悔はしなかっただろう。


 言わずに後悔するよりも、言って後悔した方がいい。先人たちの言葉は真実だった。


 うじうじしてなにもしなかったから、現状で満足してしまっていたから、動く前に失ってしまった。


 もう今さら、言えるはずがない。


 言えるわけがない。


 言ってしまえば義姉を困らせてしまうことはわかりきっていた。自己満足のために婚約者との間に、波風など立てられない。


(婚約者……どんな人だろう)


 せめていい人であったら。アリスもいつかこの淡い初恋を手放すことができるのかもしれない。


(好き……って、言いたかったなぁ……)


 二度と伝える機会など訪れないだろうが、そう思わずにはいられなかった。


 もし、もう一度チャンスがもらえるのなら。


 恥ずかしがらずに今度こそ言うのに。


 好きです、と。


 わたしと結婚してください、と。


 そんな自分に都合のいい夢を見ながら、マルガレーテを抱き込んで、涙を払うようにぎゅっと目を閉じた。





 アリスは這々の体で廊下を駆けていた。


 義父の元に到着したときには、汗と息切れで大変なことになっていたが、緊張しながらも、「お義姉様と結婚したいです……!」と告げると、彼はアリスを見つめたままじっくり三十秒固まった。


 驚くのも無理はない。アリスもそこはわかっていた。そわそわしながら待っていると、義父はぽつりと、「そういえば……そうか。そうだった」と、よくわからない納得をしてから、やはり義姉と同じことを口にした。


「ヴィオラと、結婚したいのか?」


「は、はいっ……!」


 真剣さを伝えなければ、きっとうなずいてはくれない。アリスがほかの人より優っていることなど、義姉を慕う気持ち以外ないのだから。


「ずっと、お義姉様のことが、す、好きで……!」


「……そうか。……いや、アリスがヴィオラのことを好きなことは知ってはいたが……」


「えっ!?」


(し、知っていた……? え、い、いつから……?)


 恥ずかしくて身悶えしそうになった。ちらっと母を窺う。こちらも曖昧な微笑みで誤魔化してはいるが否定しなかった。母親にも知られていたという事実に、のたうち回りたくなった。


「だが、その……いわゆる、憧憬のようなものかと」


 もちろん憧れはあるが、ヴィオラ自身になりたいとはあまり思わない。アリスにはなれないとわかっている。あの元婚約者とその妹に、しばらくつき合えていたのが異常なことだとアリスでも理解できる。


 そもそも普通は、婚約者が妹を連れて来るから自分もそれを真似しよう、とは、ならない。


 なんならアリスは義妹でもないから、厳密には完全な真似にはなっていないのだ。


 だがそれを指摘してしまえば、提案を引き下げたかもしれない。


 こんな千載一遇の機会は二度と巡って来ないとわかっていた。


 伝えられずに後悔したから、ふられてもいいから、気持ちだけは伝えたかった。


 だけどまさか、受け入れてもらえるとは思っていなかった。


 義父がうなずけば義姉と結婚できると言うのなら、みっともなく泣き落としをしてでも、必死に縋りつこうと思っている。


「まぁ、うん……。ヴィオラがいいと言ったのなら、特に反対はしないが」


「本当ですか!?」


 言質を取ったアリスは、何度も礼を告げてから、ヴィオラの元へとまた走る。


 お父様がいいのなら、と言うヴィオラと、ヴィオラがいいのなら、と言う義父の伝言係をひたすら続け、アリスはその行程を五往復ほど繰り返した。


 途中何度か廊下で行き倒れかけたが、努力が実ったのか、アリスの粘り勝ちで、どうにか暫定婚約者の座を勝ち取ったのだった。




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― 新着の感想 ―
義父と義姉、似たもの親子ですね 義父もアリスのことを、そういえば 男の子だったな…とか思ったのかも
かわいい…微笑ましい…。 マルガレーテの『こい』がひらがななのがまた! アリスがんばって告白できて良かった…。 お幸せに! だけど肉も魚も野菜も食べても少し体力つけて:笑) 男子中学生が屋敷内五往復…
すごく微笑ましかっです。 アリス君、初恋実ってよかったね。 時々しゃべるユニコーン先輩のおかげかな(笑)
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