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数日後、婚約者から手紙が届き、次のデートの日取りが決定した。
朝からめかし込んだつもりのヴィオラだったが、普段の三割増しでフリルとレースのついたドレス姿のアリスを見て、自分のめかし込み具合の弱さに、一瞬言葉をなくした。
ヘッドドレスまで装着したアリスは髪を高い位置でツインテールに結い、マルゲリータを抱いて完全武装だ。
ヴィオラは全体的に地味な色合いで無難にまとめているが、流行遅れでもなく、全体的に調和も取れている。そう思ってどうにか気持ちを持ち直した。
それに今日はひとりではないのだ。この完全武装のアリスは敵ではなく味方であり、それだけでいつもよりほんのちょっとだけ心強い。
マルゲリータを抱えていない方の手を繋ぐと、アリスはわかりやすく動揺した。母親以外の人と手を繋いだことがないのかもしれない。わからなくはないが、もう少し余裕を持って、いっそ婚約者の妹のようにあざとくあまえてきてほしくはある。無理だろうとわかってはいるが。
義母はアリスがヴィオラと会話しているだけでも嬉しそうなのだが、一緒に街に連れて行くと言うと涙ぐんでしまった。
引きこもりだった我が子が家から出るとなれば、そうなるだろう。理解できる。
ここ最近は買い物にすら出ず塞ぎ込んでいたので、感動もひとしおだろう。
待ち合わせ場所まで向かう馬車の中で、やはりアリスは外への恐怖心からか、ずっと不安そうにマルゲリータを抱きしめていた。
ヴィオラはものすごい罪悪感に苛まれつつ、せめて少しでも不安がやわらぐようにと話しかける。
「いい? あなたはわたしの婚約者の妹の真似をすればいいの。簡単でしょう?」
「か、簡単かどうかは……見てみないことには」
「確かにそうね。百聞は一見にしかず。その目でよく見ておきなさい。とりあえず……」
ヴィオラが腕を差し出すと、アリスはきょとんとしてから首を傾げた。
「わたしの腕に、こう、抱きつく感じで引っついてみなさい」
「えっ、え?」
「いいから、ほら」
さらにずいっと腕を出すと、狼狽するアリスは頰を染めながら、そっとヴィオラの腕へと両手を触れさせた。
「もっと抱きつく感じで」
「えぇと……し、失礼します」
思い切った様子できゅっと抱きついてきたアリスは、まるで小動物のようだ。
「じゃあ、今日一日その体勢で」
「えっ!?」
ぱっとこちらを見上げたアリスと、思いがけずに間近で目が合った。小さく息を呑んだアリスの頰が、みるみる赤く色づいていく。もはや薔薇色だ。肌が白いので余計に赤が映える。
じっと見入るように見つめてくるアリスに、ヴィオラは軽く小首を傾げた。
「? わたしの顔になにかついている?」
「あっ、違っ……あの、いつもと同じで、その…………お美しい、です」
「あら。ありがとう」
アリスにでも褒められると嬉しい。
そして婚約者が一度としてヴィオラを褒めたことがないことを思い出してしまい、心の中で渋面を浮かべた。
歯の浮くようなあまい台詞を求めているわけではないが、少しくらい、褒めてくれてもバチは当たらないだろうに。
そんなことを考えていると、目をうろうろとさせていたアリスが、ヴィオラの耳で目を止めて言った。
「それ……お義姉様の紫水晶のイヤリング。蝶々の意匠で、かわいいですね」
ゆらゆらと揺れるイヤリングに触れながら、ヴィオラは素直に礼を言った。
「ありがとう。わたしも気に入っているのよ」
「お義姉様のセンス、すごくいいと思います」
「そう?」
服装や小物にこだわりのあるアリスに太鼓判を押され、荒みかけていた自尊心が満たされた。
「マルガレーテもそう言っています」
「あら、マルゲリータも見る目があるわね」
ぬいぐるみでさえ褒めてくれるというのに、と、小さくため息をついたところで、待ち合わせ場所へと到着した。
すでに婚約者はそこにいて、当然のように妹も一緒だ。
いつもならばこのまま回れ右をして帰ろうかと思うところだが、今日は違う。
ヴィオラは腕にアリスをくっつけたまま、ふたりの前に堂々とその身を晒した。
「お待たせしたかしら?」
「いや、今来たところで……えっと? そちらは?」
婚約者の視線がヴィオラから横へと移ると、アリスは警戒心の強い小動物のようにさっと後ろへと隠れてしまう。
「前に家族の話をしたことがあったでしょう? この子がアリスよ。これから家族になるわけだし、今から親交を深めておくのも悪くはない、でしょう?」
ヴィオラはあえて、はじめに婚約者が言ったのと同じ台詞を返した。
彼は気づいたのか気づいていないのか、曖昧にヴィオラとアリスを交互に見ているが、ちょっとだけ頰を引き攣らせている。ちょっと前の自分を見ているようで、ヴィオラの溜飲が少しだけ下がった。
そして婚約者の妹はと言うと、どこから見ても完璧な美少女を体現するアリスに敵愾心を抱いたのか、ヴィオラごと鋭く睨みつけてきた。
アリスは言いつけ通り、しっかりと真似して婚約者の妹をキッと睨み返している。凄みに欠けるが、ないよりはまし。
「そういうわけなので、この子も一緒に連れて行ってもいいかしら?」
「だけど……」
「友達がいなくて、家にこもりっぱなしなの。かわいそうでしょう? よろしく頼みますね」
ここまで言えばさすがに引き下がるしかないだろう。今アリスを追い返せば、自分の妹も追い返さなくてはならないと気づいている。
「今日だけなら……」
「今日だけとは言ってないけれど、仲良くしてあげてくださいね」
アリスはマルゲリータを口元まで掲げて、渋々という顔をしながら、マルゲリータがしゃべっているという体で口を開いた。
「……お願い、します」
マルゲリータがぺこりと頭を下げるよう動かすアリスに婚約者は完全に引いていたし、婚約者の妹は小声で「きもっ」と暴言を吐きながら兄の腕にくっついた。
思った以上に酷い反応に、自分の都合でアリスを連れて来てしまったことを後悔したが、当人はそんなヴィオラの背後から、ぽつりと似た言葉をこぼしていた。気持ち悪っ……と。
アリスはアリスで、目の前のふたりが兄妹の距離感ではないことを気味悪がっているようだった。それはよくわかる。
ヴィオラはそっとアリスへと問いかけた。
「……大丈夫?」
「別に。これくらい、あいさつみたいなものだから、平気です」
暴言があいさつ。俯き加減のアリスの顔を窺うように覗き込むと、本当に言葉通りの、聞き飽きたという表情をしているのが見えた。ヴィオラが思っていたよりもアリスは気丈だった。
うまく本心を隠しているだけかもしれないが、本人が大丈夫と言うのなら、それを信じよう。
「今日は観劇するのでしょう? 早く行きましょう?」
「あ、ああ……」
婚約者はいつものように妹を連れてヴィオラの前を歩く。しかし今日はひとりではない。
「……お義姉様をエスコートしないなんて」
不満げに漏らすアリスにヴィオラは緩く首を振った。
「いいのよ、いつものことだから」
「早く婚約白紙にしてください」
「できれば円満に婚約を解消したいのよね」
「……がんばります」
なぜかやる気を見せるアリスだが、大丈夫だろうか。
そんなことを思っていると、婚約者の妹が「あっ!」と急に黄色い声をあげ、前方の店を指した。
「わたし、あのお店見たい!」
思わずひくりと頰を引き攣らせてしまったヴィオラは悪くないはず。
観劇すると言っているのに、なぜここで寄り道をしようと思えるのか。時間が指定されているのだから、後からでもいいだろうに。
婚約者も驚いたように、自分の袖をぐいぐいと引く妹を見下ろしている。
「えっ、今?」
「ちょっとだから!」
うーん、と悩む婚約者が、引きずるように連れて行かれたが、そもそも、悩む余地などどこにあったのか。
置いて行かれたヴィオラは口から出かけた言葉をぐっと呑み込んで、少し遅れて彼らの向かった方へと足を踏み出すと、アリスが理解不能というように尋ねてきた。
「あの人、実は五歳とかですか……?」
「残念ながら、あなたと同じ十五歳よ」
精神年齢はもしかするとそれくらいなのかもしれないが、単に、自分こそが正しく、自分こそが世界の中心だと思い込んでいるだけな気もしなくはない。
そういう、思春期特有の病なのだ。突然左手が疼き出したり、片目になにか宿ったりしないだけ軽症な方だ。
それでもうんざりした気分は拭えず、ため息をついて散らす。アリスはいろいろ察したのか、それ以上追及してくることはなかった。
わざわざ店の中にまで入る気にもなれずに外で待っていると、アリスがいそいそと日傘を取り出して翳してくれた。
「ありがとう」
そうお礼を言ったものの、どこから出したのかわからない。アリスの日傘らしくフリルとレースたっぷりで、今着ている衣装に溶け込み過ぎるほど溶け込んでしまっていたせいか、持っていたことすら気づかなかった。
「準備していたの?」
「はい。……傘があると、自然な感じで顔を隠せるので」
それは傘の本来の使い方ではない気もするが、対人恐怖症のアリスらしい万全の対策だった。
「自分の方に差さなくて大丈夫?」
「はい。それより今は、お義姉様が日焼けしないように、と思って……」
ヴィオラが外で待つことにしたので気を遣ってくれたのだろう。優しい子だ。
「……貸してくれる?」
手を差し出すと日傘の柄がヴィオラの手へと移る。
まっすぐ立てて、ふたりで入れるようにした。片腕でぬいぐるみを抱いているアリスより、ヴィオラが持った方がバランスがいい。
窓から店内を窺うと、婚約者が妹に強請られて、大きなリボンの髪飾りを買ってあげていた。遠目から見ても、子供っぽい彼女によく似合っている。
ふとこちらの視線に気付いた彼が、小首を傾げながら手招きしたが、ヴィオラは首を横に振っておいた。行ったところで時間を気にしてじりじりすることに変わりなく、そこにさらにイライラが上乗せされるだけで損だ。
髪飾りを買ってもらった小娘がこちらをちらっと見て、勝ち誇ったように笑う。そういうところが子供なのだ。もちろんイラッとはするが、今は呆れの割合が大きい。
(アクセサリーは贈り物でもらったことがあるけれど……)
それは当たり障りのない、誰がつけてもそれなりに似合うようなデザインのネックレスだった。ヴィオラを思って選んだものではなく、決して安価ではないが、単なる礼儀として贈ってくれたものだとわかる品物だった。
なんとなく俯きながら髪に触れていると、急にアリスがそわそわし出して、目についた道端からスミレの花をぷつんと摘み取ると、ヴィオラの髪にすっと添えた。
瞬きながら見たアリスは頰を赤くしながら目を伏せて、言い訳のようにぽそぽそしゃべり出す。
「その……お義姉様のお名前が、ヴィオラだから…………余計なことをして、ごめんなさい」
「なんで謝るの? 嬉しいわよ。ありがとう」
アリスはぱっと花が咲いたように笑う。ヴィオラよりもよほど花が似合う気がする。
スミレの花は道端に咲いているようなありふれた草花のひとつではあるが、ヴィオラの名前の由来だ。ほかより贔屓してしまうに決まっている。
上機嫌で退店して来た婚約者の妹が、ヴィオラの髪に飾ったスミレの花に目敏く気づき、失笑されたときはさすがに淑女らしくない言葉が口から溢れ出そうになったが、黙って堪えた。
田舎にいた彼女にとって、花など見飽きたものなのだろう。もしかすると雑草と一緒くたにしているのかもしれない。
そう思うことでどうにか理解して乱れかけた心の波をそっと鎮めたとき、婚約者がヴィオラへと、贈り物用のリボンのついた箱を差し出してきた。
「これ、きみにプレゼント」
「え?」
箱の隅に、この店のロゴが入っている。たった今ヴィオラのために買ってくれたのだと思うと少しだけ気持ちが浮上して、頰を緩めながらそっと箱を開け、そして中身を目にした瞬間――ヴィオラの顔からすべての感情がごっそりと抜け落ちた。
横にいたアリスが、びくっと肩を震わせるくらいに、一瞬で無の表情となった。
まさか婚約者の妹とお揃いの髪飾りが現れるとは思っていなかったのだから、取り繕えなかったヴィオラは悪くないはず。
「……」
「きみにも似合うと思って」
これ以上ないほどに絶句しているヴィオラは、信じられない思いで婚約者の目を見た。そこに悪意があるのなら、まだ理解できた。しかし恐ろしいことに、彼は本心からそう言っている。ヴィオラにも似合うのだと、本心で。
もしかしてこの人は、目に重篤な病でも抱えているのだろうか。今から向かうべきはむしろ病院なのではないか。
婚約者の妹やアリスならまだしも、こんな手のひらサイズの大きなリボン、ヴィオラに似合うはずがないだろう。
だがそこはヴィオラ、ぎこちなくなりつつも、どうにか微笑んでありがとうと礼を言えるくらいには大人だった。
きっとこの場でつけるのが礼儀だろう。しかしいくらヴィオラとてさすがにそれはいろんな意味できつい。それっぽい適当な理由をつけてハンドバックの奥底へとしまい込んだが、彼はそれを特に気にした様子もなかった。
道草のせいで、時間ギリギリでなんとか間に合った劇場へと駆け込むように入ると、当たり前のように婚約者の隣に彼の妹がさっと座る。いつものことだと諦めてその隣にヴィオラは腰を下ろそうとしたが、その前にアリスが座席へとマルゲリータを置いてしまった。
「……さすがにマルゲリータの席は、ないと思うのだけれど」
そんな……! という目を向けられると悪いことをしている気になる。
マルゲリータはそこそこ大きいので、堂々とした佇まいで座席に収まってはいるが、ぬいぐるみにひと席使うわけにはいかない。指定席なのだ。自由席であったとしても、そこまでの自由度はないと思う。
「マルゲリータは膝の上でいいのではない?」
今からもうひと席確保するのは難しい。アリスは仕方なさそうに、マルゲリータを一旦持ち上げてそこに座り、膝の上へと置いた。
「ぬいぐるみなんて持って来るのがおかしいんじゃないの?」
アリスがキッと婚約者の妹を睨む。完全に敵認定したらしい。
婚約者はわたしとの間がふた席分離れていることを、さすがになにか言って来るかと思いきや、なにもない。
(結局その程度なのよね……)
さっきの髪飾りの件といい、席順といい、彼はヴィオラのことを、婚約者という肩書の友人かなにかだと思っていそうなのだ。
愛されるなんて贅沢なことは望んでいなかったが、ヴィオラとて若い娘。それなりに恋愛に憧れもあった。
ふた席分向こうに座る他人。その関係性をお互い超えられなかったということだ。
観劇に集中できずに嘆息を漏らすと、肘掛けに前脚をかけたマルゲリータがこちらを覗き込んできた。
もちろん動かしているのはアリスではあるが、マルゲリータは慰めるようにヴィオラの腕に角を擦りつけてくる。
(慰め上手ね、マルゲリータ)
アリスが落ち込んでいたらマルゲリータが慰めてくれたと言っていたが、きっとこういうことなのだろう。
寄り添ってくれるマルゲリータの優しさに心を癒しながら、ヴィオラは改めて、目の前の劇へと意識を集中させた。
「わたし、ケーキが食べたいー!」
幕が降りた直後、余韻もなにもなく婚約者の妹がそう宣言した。
この子はきちんと演目を観ていなかったのだろうか。切ない恋の物語だったのに、よくケーキなんて重たいものが入るものだ。ヴィオラはもう胸がいっぱいでなにも入る余地などないのだが。
「そうだな。なにか食べに行こうか」
婚約者も同意見らしく、呆れながら、やたらと静かなアリスを見ると、こっちはこっちでマルゲリータを抱きしめてはらはらと涙を流していた。
アリスの方がまだヴィオラとの感性が合っている。
泣くほどではないにしても。
「アリス。移動できる?」
アリスの代わりにマルゲリータがこくりとうなずき、また婚約者の妹が、「きもっ」とつぶやく。
婚約者も妹を窘めてはいるが、本音では彼女と似たようなことを思っているのが言葉や表情の端々から伝わってくる。
なんとなくお互いに、少しずつ、だけど着実に、距離が開いていっているのを感じていた。
(このまま円満解消になりそうね……)
もちろんヴィオラも婚約者も、お互いに貴族の結婚というものをよく理解しているので、表面上だけの家族を演じ続けることは可能だろう。
だが彼の妹がいる限り、どうしてもヴィオラの負担が大きい。
対等でなければ、そこから必ず綻びが生まれる。
そしていつか、表面を取り繕えないほどに破綻するはずだ。
ヴィオラは、はじめから壊れるとわかっているものを大事にはできない。
場所を変えて、婚約者の妹の選んだカフェのテラス席。日差しに顔を顰めたヴィオラは、周囲にテラス席を選んだ客があまりいないことに納得する。隣のアリスの上にはちょうど歩道から伸びた木の影が落ちており、席を代わってくれようとしたが首を振って断った。婚約者の隣は彼の妹の指定席だが、さすがに正面には座らないと、今、なにをしにここにいるのか、本当にわからなくなりそうだ。
ヴィオラは紅茶を飲みながら、ケーキをおいしそうに頬張る婚約者の妹を観察する。
言いたいことは山ほどあるが、ひとつだけ言わせてもらえるのなら。
ダイエットは一体どこにいった。
そんな疑問も湧かないらしい婚約者は、妹がここまで元気になったことを本当に嬉しそうな眼差しで見つめている。
彼が悪いわけではない。
そしてヴィオラが悪いわけでもない。
単純に価値観の問題だ。
これはそう簡単には埋められないだろう。
嘆息すると、アリスが心配そうにこちらを見ていることに気づいた。あまり食が進まないのか、頼んだケーキもひと口分しか食べていない。
向かいの席では、婚約者と妹が当たり前のようににケーキをシェアしており、いつもはそれをドン引きしながら眺めていたヴィオラだが、今日は違う。
「アリス。それ、ひと口ちょうだい?」
「え? えっ!?」
「あーん」
口を開けて待っていると、狼狽するアリスがマルゲリータに助けを求めるように、どうしようっ、と話しかけるが、当然マルゲリータが返事をするはずもなく。
「お、お義姉様に、あーんって……」
「嫌ならいいけれど」
「嫌とかじゃなく!」
引き下がりかけたところを食い気味に止められる。アリスはフォークでケーキを掬うと、ヴィオラがあーんをする口へとそっと入れた。
人に食べさせてもらうことでなにか味に変化があるかと思ったが、ケーキはケーキだった。
しかしアリスは違ったらしく、染まった頰を両手で挟み込みながら、感慨深そうにつぶやいている。
「どうしよう、ひとつ夢が叶った……」
なんて小さな夢なのか。
あまりの小ささに泣いてしまいそうだ。
無謀でもいいから、もっと大きな夢を持ってほしい。
「うわ、きもっ」
婚約者の妹に、アリスがむっとして言い返す。
「あなたの真似をしただけですが?」
完全同意。
なぜ自分はよくて人はだめなのか。
「わたしたちは兄妹だもの。だからいいの」
だからおかしいのだが、婚約者は妹と同意見らしい。意味がわからない。
「確かに、きみたちとは違うよね。血の繋がりはないし、それにきみは――」
彼がアリスへとなにか言いかけたとき。
「――あぶないっ!」
小さな子供のような声がどこからか聞こえて、ヴィオラはふと空を仰いだ。
(あれ……? なにか、影が……)
くっと目を細めて空を凝視していたヴィオラは、次の瞬間、かっと目を見開いた。風雨にさらされ脆くなっていた煉瓦のいくつかが、建物から剥がれ落ち、このテラス席へと真っ逆さまに落ちて来ている。
(嘘っ……!)
婚約者は間髪をいれず、妹を庇うように自分の胸へと引き寄せた。
その一瞬、確かに彼と目が合った。
合ったが……それだけだった。
「お義姉様っ……!」
動けずにいたヴィオラの体は、アリスによって床へと押し倒される。ヴィオラを庇うようにアリスが覆い被さった直後、落下した煉瓦がテーブルに直撃して砕けた。
近くのテーブルからの悲鳴が轟き、辺りが騒然とする。
テーブルの上に飛び散る煉瓦の残骸やティーセットの破片を見て、ようやく、ヴィオラは事態を理解して青ざめると、遅まきながら体が小刻みに震えはじめて止まらなくなった。
当たっていたら間違いなく怪我をしていた。下手をすると死んでいたかもしれない。
砕け散った煉瓦の向こうで、へたり込んでいる婚約者とその妹。
驚愕に満ちた婚約者と、つかの間、見つめ合った。
人は咄嗟の行動にこそ、本心が出る。
この瞬間、彼とは完全に縁が切れたのを感じた。
「お義姉様! 大丈夫ですかっ!? 怪我は!」
肩を揺すられて、はっと我に返り、真っ青な顔をしてこちらを覗き込んでいるアリスへと顔を向けた。遅まきながらアリスに怪我がないかの確認をする。目立った外傷はなさそうだが、スカートが、裾から引き裂かれるように破れてしまっていた。大事なマルゲリータもそばで転がってしまっている。
「……わたしは、大丈夫。あなたこそドレスが破けて――」
「ドレスなんて、どうっっでもいい! お義姉様の方が大事でしょう!?」
はじめて聞いたその大きな声に驚いて、真剣なアリスの瞳を見ていたら、それ以上なにも言えなくなってしまった。
婚約者の妹は泣き出してしまい、彼は必死に腕の中の彼女の頭を撫でながら、大丈夫だと言い聞かせている。
もし今日、アリスがおらず、ヴィオラがひとりだったら――。
想像すると恐ろしい。
「大丈夫ですよ、お義姉様。大丈夫、大丈夫……」
(真似をするのは妹の方だって言ってあったのに……)
ヴィオラは震えが収まるまで、不器用によしよしと背中を撫でるアリスの胸に、額を押しつけていた。
「……じゃあ」
「ええ」
婚約者は、「また」とは、言わなかった。
ヴィオラも言わなかった。
これでよかったのだと思う。
彼は妹のことも大事にしてくれる相手を探した方がいい。
そしてヴィオラも。
今度こそ、自分のことを大事にしてくれる人を探したいと思った。
後日、父から予想通りの話を聞かされたヴィオラは、すぐにアリスの部屋へと赴いた。
「今日はなにをしていたの?」
「あの……ジェラルドと、おしゃべりを」
「ジェラート? ひんやりあまそうでいい名前ね」
「……あの……えぇと。ありがとう、ございます」
「そうそう。婚約の話ね、白紙になったわ」
「ほ、本当ですか!」
「ええ。やっぱりお互いに合わないとわかったから、仕方ないわね」
友人としてなら別だが、夫婦は無理だ。
道のりは険しそうだが、妹のことを大事にしてくれるいい結婚相手と巡り合ってくれたらと思うくらいには吹っ切れている。
「それで、今度はアリスのお願いを聞いてあげないとと思って来たのよ。アリスのお願いはなに?」
アリスはスカートをいじりながらもじもじしていたが、意を決して、潤んだ瞳と赤い頬で、ヴィオラに挑むように向き合った。
「あのっ、わたし、お義姉様と……」
「わたしと?」
「結婚、したいです……!」
(……うん?)
ヴィオラは、およそ三十秒は固まった。
(結婚? わたしと、アリスが?)
女同士でいいのだろうかと思った瞬間、ヴィオラは己の過ちに気がついた。
(そういえばこの子、義妹じゃなくて、義弟だったわ……)
普段から女の子の服ばかり着ているせいですっかり妹扱いしていたが、アリスは正真正銘男だ。
恋愛対象も男性なのではと疑っていたのだが、この分だとどうやら違ったらしい。
「わたしと、結婚したいの?」
「……はい」
「わたしとしか話せないから?」
「ち、違います! あの、実は、お義姉様のことが、その……ずっと、好きで……」
なぜ。アリスの行動を否定せず受け入れてきたからだろうか。
まあ、慕われて、悪い気はしないのも事実だ。
血が繋がっていないので、結婚しようと思えばできるのである。
一度約束した以上、内容が気に入らないからと反故にするのはヴィオラの主義に反する。
アリスはきちんとした常識もあるし、こうして一緒に暮らせるくらいには価値観も近い。対人恐怖症なので浮気はしないだろう。腹が立つ小姑もついて来ない。
アリスには家でできる仕事をさせて、社交はヴィオラがする。役割分担はできそうだ。
じっくり考えてみた。
まあ、最良というわけではないが、悪くはない。
どうしたら子供ができるのかわかっていなさそうではあるが、最悪の場合、ヴィオラが押し倒してさくっと済ませてしまえばいい。身体的には問題ないのだから、回数をこなせばそのうちできるだろう。
「わたしのこと、愛しているの?」
「あ、あい、愛して、ますっ……!」
顔が真っ赤なので、それが嘘ではないことはよくわかった。
「いいわよ。お父様がいいと言ったら、結婚してあげる」
「えっ、ほ、本当に……!?」
「お父様がいいと言ったらね」
どの道、最終的には家長である父が決めることである。父に丸投げすると、アリスはジェラートを抱えたまま、慌ただしく部屋を飛び出して行った。
「お義父様っ! お義父様ぁぁーー!!」
淑女がはしたない。
いや、淑女ではなかったか。
「……あんなにはしゃぐことかしら?」
呆れ混じりのため息をついたとき、ふと、ソファに座っていたマルゲリータと目が合った。
「そういえば……あのとき、あぶない、って叫んだのって……」
口にしかけて、いや、そんなはずはないだろうとかぶりを振る。
ヴィオラはくすりと笑ってから、マルゲリータの角をちょんとつついた。
「あの子が戻ってきたら、もっとしっかりするように言っておいてちょうだい」
マルゲリータがこくりとうなずいた気がしたが、まあ、気のせいだろう。
【人物紹介】
ヴィオラ(ヴィオレッタ)
どんな相手でも、一度は理解しようと試みる難儀な性質
妹同伴の元婚約者よりは、女装癖のある義弟の方がいいと判断して即決したが、婚活市場に出ていたら普通に引く手数多な美人
アリス(アリスティード)
少女趣味と女装癖のせいで散々いじめられ、実父にも蔑まれて、母親とともに家を追い出された
唯一理解を示してくれたお義姉様に傾倒
しかし知らない間にお義姉様に婚約者ができていて、引きこもりが加速
恋愛対象は元から女性
マルゲリータ(マルガレーテ)
そこそこ大きいユニコーンのぬいぐるみ
パステルパープル
色違いの仲間があと十四匹いる(うち一匹はミントグリーンのジェラルド)
たまにしゃべる