第九話(早馬side)
「あら、珍しい。遅刻常習犯の貴方が、部長の私よりも早く職場に顔を出すなんて」
「えぇーまぁ…、たまには仕事に精を出しとかないとね、と思いまして」
「ちょっとぉ! “たまには”じゃなくて、“何時も”にしなさいよ!! ってか何? 君、仕事を何だと思ってんの?! 普通、貴方みたいな奴はサッサとクビになる処なのよ! でも……っ」
「はぁ…生まれ持っての天才って、ほんと罪ですよねぇ」
「あームカつく! 貴方みたいなの居ると、努力してる自分が馬鹿見てるみたいで傷付くわー!! 」
学生とかが憧れそうな大人の女性って感じがする人なのに、こーゆう子供みたいな反応をする処って、何だか可愛い。口は悪いけど、でも、其の言葉の裏には優しさが含まれていて、こんな俺みたいな奴でも受け入れてくれる御人好しで、こんな人と家庭を築けたらなぁ…って思う。
……あ…、だから俺、結婚してるんだった。形だけの。
――愛の無い……ふと、小娘の泣顔が、脳裏を過った。昨日の、情事中での出来事と一緒に。
「あー…胸糞悪ぃ…ッ」
「…其れは何? 新手の嫌味? 同じ空気でさえ吸うのが嫌って言いたいの? 言いたいんでしょ!? 」
「……やっ、違ぇますよ。部長の事を言ったんじゃなくて…」
「じゃあ何? まさかまた、夜遊びでもして……悪い女にでも沢山…」
「貢いでません!! 俺の収入幾らだと思ってんですか!! 女に貢げるほど持ってないし、其れ処か…貢がせますよ」
「どの口がそーゆう自意識過剰な台詞を言えるワケ? 」
部長は片手で俺の顎を掴み、両頬を指で挟み込む。其のせいで、俺の唇は蛸みたいに飛出る。
ってか、あれ? 部長の顔、近っ!!
睫毛、思ったよりも長いし、仕事に邪魔だからって言って短く切られてる髪の毛は、窓から入り込む陽射しでキラキラと輝いてる。
(あー…何か…ヤベェ……)
―――…
ハッと我に返った時、頬に走る激痛と、其れと…驚きやら怒りやら悲しみと何とも取れない表情をした、自分の口を左手の甲で拭う部長の姿が、視界いっぱいに映った。
「……あ…あのー、部長…? 」
「…別に、私が嫌いだって事は、最初っから、知っていたの……」
「…ッ!? ち……違っっ!!!! 」
「だからって…、こんな…、こんな嫌がらせしなくたっていいじゃないッ!! うわあぁぁぁぁん!! 」
床に膝をつき、顔を両手で隠し、声を上げて無く部長に、酷く、罪悪感を懐いた。そして、胸がキュウゥゥぅと締付けられ、自分は魚なんじゃないかと思ってしまう位、息が出来ない。
そして、何故か再び、あの小娘の泣顔が浮かんだ。
(其れが何を意味するかなんて、三十云年生きてきたクセしてガキな俺は、未だにソレに気付かない)
初出【2012年5月28日】