前
金曜日の朝。空はどんよりと曇り、オフィスに差し込む光はない。
「おはようございますー。」
「およーっす。」
「うーす。」
ぞろぞろと社員が出勤してくる。
千夏はふう、と自分のデスクに鞄を置くと、給湯室に紅茶を淹れに行こうとカップを持った。
「みんな、聞いてくれ。知っての通り、うちは業績が悪い。」
はっきりと通る声で淡々と爆弾を落としたのは、無表情・キツイ・実はロボットなんじゃないかとウワサされている係長だ。
…そういうとこ、そういうとこだよ、係長。もう少しオブラートに包むとかさあ。
千夏は呆れながら係長を見る。
業績が悪いのは確かだ。決して社員が不真面目だとか、さぼっているとかいうわけではない。なんだか分からないがうまくいかないことがいろいろ重なった結果、今に至る。営業に行けば逆にクレームになって帰ってきて、お得意様との値下げ交渉にも負け、オフィスの暖房は壊れ、新しい備品も回ってこない。
そういえば、係長の椅子壊れてたんじゃ。交換申請を出してもなかなか通らないんだよね。
千夏が周りを見渡すと、みんな死んだ魚の目をしながら係長の方を向いている。
あれは聞いてるっていうか、音のしてる方を向いてるだけだよね。
千夏はこっそりとため息をつく。
「そこでだ。」
係長は持っていたエコバッグに手を突っ込んだ。
「節分をしようと思う。私が鬼だ。」
係長の手にあるのは、鬼の帽子だ。頭をすっぽりと覆う半円型で、プラスチック特有の光り方をしている真っ赤な帽子。闘牛のようなツノがニョキッと2本生えていて、黒と金色の縞模様だ。
「豆も買ってきた。みんなで豆まきをして、厄を払おう。」
…冗談、かな。え、係長ってこんなキャラだったっけ。無表情の人って何考えてるのかよくわかんないよね。
他の女性社員も、「やだー係長ったら。」と半笑いだ。笑うべきかどうなのか、判断がつかないのだ。
男性社員はピクリともしない。
係長はさらに続ける。
「さ、やるぞ。一人一袋持つように。」
とスーパーの袋に入った大量の炒り豆のパックを机の上に置く。
「あー…そ、そうですね。さ、みんなやりましょう。」
先陣を切ったのは気が利くみゆき先輩だ。炒り豆のパックをいくつか掴むと、女子社員に渡していく。
「そっそうですね。今日は節分ですもんね!わー楽しいな。」
上滑りながら会話を引き取ったのはゆるふわ女子の同期、花梨だ。
「鬼はーそと、福はーうち。」
女性社員は豆を数粒つかむと、申し訳程度に投げる。
千夏も豆を投げる。
実家の犬は豆まきのたびに餌がもらえると思って大興奮してたなあ。会いたくなってきた。うん、今週末は帰ろう。
「もっと景気良く投げなさい。私が鬼なのだから、私に向かって投げたまえ。」
係長が仁王立ちで女子の前にふんぞり返る。
「えぇー…でも…そうだ、男性陣も、ね。」
しんどくなってきたらしいみゆき先輩が、豆のパックを近くにいた男性に押し付ける。
反射的に受け取ってしまった男性は、「はあ。」と言いながら豆を見つめる。周りからの注目を集めていることに気づいた男性は、「おにはーそと。」と呟きながらやる気のない感じで豆を落とす。
「そんなことだからダメなのだ、うちは。やる気を出せ!」
係長が言い放つ。
それにむっとした男性は、
「おにはっ!そとっ!」
と言いながら係長の足元に豆を投げつける。
「いいぞ!もっとだ!よし来い!」
「鬼はっ!そ!と!」
先ほどより勢いをつけて、係長の足に豆をぶつける男性。それを見た他の男性社員は、俺も俺もと豆を掴む。
「鬼はー外!福はー内!」
ぱしーんと豆が係長のスーツにぶつかる。
…久保さん、この前企画蹴られてたからなあ。
「鬼はー外!福はー内!」
べしっと豆が係長の腕にニアミスする。
…小池さん、この前タバコ休憩が長いって怒られてたからなあ。
「鬼はー外!福はー内!」
すぱーんと豆がまっすぐ係長のお腹に当たる。
…石野さん、草野球チームに入ってるって言ってたからな。
すげー!俺こんど足狙う!僕は肩を攻めてみます!と男性社員は声を上げた。
「ほら、ここにも鬼がいるぞ!ここにもだ!」
係長は机の間をすり抜け、角に向かい、それから窓際を通って反対側に移動する。
だんだんとテンションが上がってきたらしい男性社員は、わらわらと係長を追いかける。
…なんなんだ、これは。みんなさっきまで死んだ魚の目をしていたのに。今じゃ目をキラキラさせて豆を係長に投げてる。
『男性はいつまでも少年の心を胸に秘めてる』って言うけど…少年野球チームのちびっ子みたいだな。いや、というより…
千夏は腕を組んで首を傾けるが、ポンと手を打った。
あ、わかった。夏休みに蝉取りしてる少年だ。
「わはははは」
「あっはっはっ」
「くっそー!外した!」
「豆もっと寄越せ!」
その光景をしばらく見ていた女性陣だが、
「誰がここ片付けると思ってんのよ。」
とみゆき先輩がチッと舌打ちをし、
「男どもにやらせるに決まってますよ。」
とゆるふわ女子の花梨が低い声で唸った。
…しまった。職場がカオスになる。
意を決して千夏は蝉取り少年団、もとい男性陣の元へ向かった。
「あのう、係長。係長が外に出ないと終わらないのでは。」
「うん?」
「係長は鬼ですから。鬼は外、です。」
「それもそうだな。」
係長は鷹揚に頷いて、宣言する。
「みんな、私はこれから外に出る。しっかりと追い出すように。」
「「「はい!」」」
男性社員の声が揃った。チームワークを発揮したのはこれが初めてではないだろうか。
背を向けてドアに向かった係長に向かって、
「鬼はあああああ!そとおおおお!」
と一際大きな声を出して豆を投げつけた男性社員がいる。
…鵜飼さん、次期係長だって言われてたのに、あっさり年下の他部署の人に係長の席を取られちゃったからなあ。
ちなみに前係長は胃潰瘍で入院中だ。一応個人情報だが、狭い会社のコミュニティ、もちろんみんな知っている。
最後にみんなで「鬼はー外!福はー内!」と盛大に鬼を追い出した。
「はっはっはっはっ」
自然と笑いが込み上げてくる男性社員。白けた顔をした女性社員とは対極的だ。
「係長!すげーよかったっす!」
「見直しました!かっこよかったです!」
「いや、君たちの頑張りのおかげだ。さ、気を取り直して掃除をするぞ。豆はビニール袋に集めて入れてくれ。知り合いがニワトリのエサにすると言っているからな。」
「さすが係長!エコですね。」
「モッタイナイの精神ですね!」
「MOTTAINAI!!」
係長はスーツをぱぱっと払うと、ドアから中に入ろうとした。
ガンッ
係長が後ろよろける。
「…?いや足がもつれたかな。」
はははっと言いながらまた入ろうとすると、ガンッと跳ね飛ばされた。
係長は入口に手をつく。
「入れない…?」
係長の手は入口より中に入らない。
「係長。パントマイムっすか。」
男性社員がツッコむ。
「いや、ほんとうにこれ以上進めないんだ。」
係長は力を込めて手を押すが、それ以上動かない。
「…えーそんなことないでしょう。おい、お前ちょっと外出てみろよ。」
男性社員が後輩に言う。
「はあ。別に出れるっすよ。」
「入ってみろ。」
「入れるっす。」
「……」
「……」
係長はおかしいな、と頭を掻こうとして、まだ帽子をかぶっていることに気がついた。
「ぬっ抜けない…」
帽子はぴったりと係長の頭にはまっている。
…それは多分…
千夏はちらっとみゆき先輩の方を見る。
「それは係長が鬼だからですね。」
みゆき先輩がはっきりと告げる。
さすがみゆき先輩。気が利く上に言いにくいこともすぱっと言える。尊敬してます。
千夏は心の中でみゆき先輩に拍手をした。
「鬼だからか。」
「鬼は外だからな。」
皆の視線が係長の頭に集まる。
あー…という、なんとも気まずい空気が漂う。
ーーブルブルブルブル
「係長ー!ケータイ鳴ってますよ!」
「持ってきてくれ。」
女子社員が携帯を入口ぎりぎりのところで渡す。あまり外まで手を出したくないのはなんとなくだ。
「はい、いつもお世話になっております。その件でしたら…」
係長は肩と耳の間に携帯を挟み、手で四角を作ってカタカタとタイプする手振りをした。
「パソコンだ!係長にパソコンを!」
「はい!今すぐ!」
男性社員が小走りでラップトップを持ってくる。
ラップトップを受け取った係長は、どこに置こう、と迷って、結局地面にそのまま置いた。
前屈みでスクリーンを見ていた係長だが、だんだんと姿勢が崩れて、寝そべる形でデータをいじっている。
「はい、最新のデータは…資料が…」
係長は起きあがろうとして、ぐきっと腰を痛める。
…係長、寝転がって漫画、ゲーム、ケータイを見れるのは若者の特権です。そろそろ腰もきついお年頃でしょう。
千夏はそっと手を合わせた。
「つらそうね、係長。」
「そうですね、もういっそのことデスクごと出しちゃいましょうか。」
「そうね、男性陣!デスク出して!」
えええ、デスクっすか、と引き気味だった男性社員も、女性陣の圧に押されて数人でデスクを外に出す。
「うわっ床ホコリ溜まってるな。」
「せっかくなら大掃除しちゃいましょう。三輪くん、お掃除の人から掃除機借りてきて。」
途端に腰が重くなった男性社員だが、
「もう!男子も掃除手伝ってよね!」
とゆるふわ女子の花梨が頬を膨らませて学生ごっこをすると、へらっと笑って掃除をしだした。
「あっこれずっと探してたピアス!」
「この領収書ずっと探してたんだよ!」
「わーこの写真、みんな若いですね。これ鵜飼さんさんですか?」
「ああ、これは社員旅行の写真でね。今はなくなっちゃったけど昔はあったんだよ。温泉一泊。」
定年間近で万年平社員の鵜飼さんは懐かしそうに目を細める。
わいわいしながら掃除をする部下を廊下から眺めている係長は、ちょっと寂しげだ。
自分にもできることはないか、そのうち声がかかるんじゃないかとそわそわしている。
「掃除機持ってきました!お掃除のおばちゃんがゴム手もどうぞって!うわっ係長、ちょっとどいてください。」
業務用の掃除機を持ってきた若手社員に端に追いやられた係長は、しょんぼりしている。
「いやーこんなにゴミがあったんですね。」
「いらないものがなくなるとすっきりするわね。」
「新しい風が入ってくるっていうか、なんかやる気がでますね。」
『いらないもの』に係長は入っているのだろうか。千夏はちらっと係長を見る。係長は仕事に専念することにしたらしい。
他の人たちは仕事はいいのかって?いいんですよ、なんせ『うちは業績が悪い』のだから。1日くらい仕事をしなくても問題はない…はず。
掃除を終えると皆すっきりとした顔をしていた。厄が落ちたようだ。
「私、もう一回あの会社に営業に行ってきます!」
「俺は領収書見つかったから経理に精算に行ってくる!」
我も我もと出ていく同僚を見て、千夏は係長1人だとかわいそうだしな、と残ることにした。