春嵐來たりて
できるだけ早く、でも騒がしくするほど冷静さは欠いていなかった。
ぴゆの安否は勿論心配だが、住民に悟られて騒ぎになるのは万が一にも避けたい。
いつも通り階段を昇り、柵を元の場所に戻して、静かに、でもいつもより力強くドアを開ける。
瞬間、一際強い風が吹き込んで反射的に目を瞑る。バチバチと弾丸のような雨粒が顔を叩いた。
急いでドアを閉め、真っ先に目についたのは丸めたちり紙のようにグシャグシャに変形したぴゆのテントだった。
骨組がテントのあちこちを突き破り、強風に煽られてしなっている。
辺りの床にはぴゆが大事にしていたケトルや寝袋が散らかって無惨に雨に晒されていた。
「ぴゆ!」
テントに駆け寄って中を確かめるも、家主はいない。
「ゆーたー!!たちけてくだちゃーーい!」
声がした方を振り返ると、反対側のサビついたフェンスに、薄汚れたぴゆが鯉のぼりのようにしがみついていた。
風向きは屋上の内側に向いているのでぴゆが力尽きて手を離したところで飛ばされやしないとは分かるものの、泣き叫ぶその様子に慌てて助けに向かった。
「大丈夫?!」
ずぶ濡れのぴゆの身体を掴んで抱きかかえると、肩口に顔を擦り寄せたぴゆがわんわんと泣きじゃくる。
「ぴゆのおうちが!!つぶれちゃった!!」
「分かったから、取り敢えずうちに行こう!」
雨風の音に負けないくらい大声で泣くぴゆの頭に手をかざして雨から守ってやりながら、駆け足で建物内に飛び込んだ。
ものの数分しか出ていないにも関わらず全身ずぶ濡れになってしまった。
ーー兎にも角にも証拠隠滅だ。
急いで階段を駆け降りて自宅に戻ると、一番大きなバスタオルでぴゆを包んで部屋に下ろした。
「今から屋上のテン…ぴゆのお家を取りに行ってくるから、ここで待ってて。すぐ戻るから」
「ぴっ…ぐすっ……うん」
生まれたばかりの赤ちゃんのようにタオルで包まれたぴゆが泣きながら静かに頷く。
騒いだり暴れたりする気配がないことを確認して、キッチンの棚から大きいビニール袋と雑巾を持ち出すと再び屋上へと急いだ。
少しバタバタとしたが、幸いにも近所の住民が様子を見に廊下に出てくることはなかった。強風が此方の物音をかき消してくれたのかもしれない。
屋上のドアを開き、見るに耐えない姿になったぴゆの家に近付く。
袋を開いて家を回収し、周りに散乱した家具も同じように拾い集めた。取れたマグカップの取っ手や、何の欠片かよく分からないものも全部拾った。
もしかしたらもう手の施しようはないかも知れないけど、最後の決断をするのは持ち主だ。
辺りを見まわし、拾い残しがないことを改めて確認して自宅に戻る。
玄関前に荷物を下ろし、持ってきていた雑巾で屋上に続く階段や踊り場の水滴を拭いて歩いた。
雨の中、外から帰ってくる人もいるはずなのでそんなに几帳面にならずともバレやしないとは思ったが念のため。
そそくさと掃除を終えて素知らぬ顔で部屋へ戻る。
「た、ただいまー…」
「おかえいなちゃい…」
ぴゆの様子を伺いながら玄関に入ると、小さなおばけがズルズルとタオルを引きずりながら出迎えてくれた。
何だか胸がいっぱいになって、そのままタオルごと抱き上げる。
そっとタオルをめくると、羽毛が濡れていつもよりほっそりしたぴゆが目をこすりながらしくしくと泣いていた。
「お家は厳しいけど…中には直せるものもあるかもしれないよ」
「うん…」
「お風呂沸かすからさ、一緒に入ろうよ」
ぴゆを一旦床に下ろして、湯船にお湯を張りに行く。
確か昔買った入浴剤が残ってたから入れよう。
アヒルのオモチャとかがあれば良かったな…。
大事なものをなくした今のぴゆに、俺がしてあげられることを何でもしてあげたい気分だった。
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屋上で転んだのだろうか。いつもより汚れたぴゆにぬるめのシャワーをかけて、ケガがないか確認する。
出血痕もなく痛がる素振りも見せないので、シャンプーと迷ったがボディソープで全身を洗ってあげることにした。
普段ならきゃあきゃあ言うであろうに、ぴゆは何も喋らず、人形のようにされるがままだ。
湯気のこもる狭い浴室に、シャワーの音とぴゆのすすり泣きが響く。
俺は気の利いた励ましの言葉も、的確な慰めの言葉も何一つ思いつかず、せめて優しく泡を流してあげた。
洗い桶に浴槽のお湯を掬って、そこにぴゆを座らせる。
「ちょっと待っててね」
無言のままぴゆがこくんと頷くのを見て、時々シャワーをかけてあげながら急いで自分も頭と身体を洗った。
「はい、お待たせ。抱っこするよ」
いつもの半分くらいの時間で洗い終えて、洗い桶で背中を丸めてぐずるぴゆを抱き上げ、ゆっくり足先から湯船に浸かる。
ぴゆが溺れないよう気を配りながら自分の足の上にぴゆが座れるよう体制を整えた。
「どう?熱くない?」
「だいじょぶでち…」
ぴゆは相変わらずしょんぼりと俯いている。
「ぴゆのおうち、なくなっちゃった」
黒いまん丸の瞳からぽたぽた落ちる涙が、青く透き通ったお湯に溶ける。
小さな手で涙を拭う仕草を見ると胸が締め付けられる思いだった。
「そ、それならさ」
ぴゆの気持ちが晴れるように努めて明るく切り出した。
「うちに来ればいいよ」