キミが守りたいもの
しんとした室内からは人が動く気配を感じない。
恐る恐る部屋の奥を覗いてみると、開け放たれたドアの向こうのリビングで、力無く投げ出された子供の足が見えた。
その瞬間に血の気がざあっと引いて、額から冷たいものが一筋流れていくのを感じる。
「ごめんなさい、入ります!」
突っかけてきたサンダルを乱暴に脱ぎ捨ててリビングに押し入った。
「柊くん!!」
柊くんはひゅうひゅうと隙間風のような頼りない呼吸をしながら仰向けに倒れている。
柊くんは生まれつき喘息を患っていて、最近は病状が思わしくないため通学も疎らになっていると尾池さんがこぼしていた。
手元がおぼつかない中で何とか薬を取り出そうとしたのだろうか、柊くんの近くには黒いポーチが落ちていて中身が辺りに散らばっていた。
件の黒ウサギは嗚咽を漏らしながら小さな手で柊くんの頭を撫でている。
素人判断では今の柊くんにどんな処置が適切なのか分からない。保護者もいない。
こんな時どうすればいい?
ハルが発作を起こした時、俺はどうしたんだっけ。
ーーあの時…何にもできなかったな。
「…柊くん、騒がしくして申し訳ないけど救急車呼ぶね。お家の電話、貸してね」
手短にあったソファのクッションを手繰り寄せ、ぐったりとしている柊くんをもたれかけさせた。
顔色が悪い。早く何とかしないと。
リビングの入り口にある固定電話の受話器を持ち上げ、震える指を無理矢理動かしてボタンを押し込んだ。
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程なくしてやってきた救急隊員とほぼ同じタイミングで帰宅した尾池さんは、半ばパニックになりながら柊くんと一緒に救急車へ乗り込む。
黒ウサギは此方を見たり柊くんを見たりと居た堪れない様子だったので、小声で柊くんの側にいてあげるように伝えると、こくこくと頷いて扉が閉まる寸前の救急車に吸い込まれるように乗って病院へと向かっていった。
遠ざかる赤いライトとサイレンのドップラー効果を聞いて、それまで肺の中にパンパンに詰まっていた重い空気をようやく吐き出すことができた。
ものの20分にも満たない出来事だったが、体感では何時間にも、何十時間にも思えた。
まだ安心はできない。ただ、あの場で自分にできるかぎりの行動は起こせたんじゃないだろうか。
風に当たった首元がやけに涼しく感じてふと触ってみると、冷や汗で部屋着がびしょびしょに濡れていた。
不安や心配、新たな出会い、疲労感、少しの達成感。
複雑な感情を抱えたまま自宅に戻ると、クッキーの食べカスだらけのぴゆが走り寄ってきたので腰を屈めて抱き上げる。
「バタバタしていまちたけど、大丈夫でちたか?」
「うん、大丈夫。
でも、ちょっと休憩させて…」
バターをたっぷり使った甘い焼き菓子の匂いを全身からさせているぴゆのお腹に顔を埋めて思い切り深呼吸した。
出来立ての綿菓子の中に顔を突っ込んだらこんな感触だろうか。
きめ細やかで暖かく、微かにぴぃぴぃとぴゆの息遣いが聞こえて耳心地もいい。
生まれたてのひよこの羽毛のような柔らかさに包まれて、このまま眠ってしまいたい衝動に何とか耐えて顔を上げる。
重い瞼を開くと、不服そうに眉間に皺を寄せたぴゆが此方をじっとりと睨みつけていた。
「セクハラでちよ」
「ごめんなさい…」
予想外の言葉に反射的に謝ってしまい、俺はぴゆがクッキーを食べ尽くしたことを追求しそびれてしまったのだった。




