おやちはぱんけーち
「ん〜〜〜、まあまあでちね」
そう言いつつもぴゆは次から次へと口にパンケーキを詰め込んで、ボロボロ食べかすを落としている。
口の周りはハチミツでベタベタになっており、それを拭った手を舐めてはカーペットに擦りつけて、またパンケーキを咀嚼するの繰り返し。
「ほら、落ちてるよ。あと手をカーペットで拭かない。ウェットティッシュ使う」
「むぐぐぐ……や、優しく拭いてくだちゃいよぉ!」
お世辞にも行儀が良いとは言えないが、手料理を無我夢中で食べられるのは悪い気分じゃない。
そうして、この騒がしい生き物は散々文句を言いながらもどこか嬉しそうに大量のパンケーキを食べ終えたのだった。
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いい天気だ。カーテンを開けて日差しを取り込んだのはいつぶりだろう。
皿を下げるついでにコーヒーを淹れようとキッチンへ向かう。
「ミルクと砂糖は?」
「ミルクたっぽり、お砂糖やっち!」
8つ……多すぎる気もするが、生態が分からない以上咎めることもできない。
激甘カフェオレを軽く吹き冷ましてまんまるの生き物に渡してやると、満足げにお腹を撫でていた生き物は小さな両手で受け取って静かに啜り始めた。
柔らかな陽の光に満ちた部屋に、パンケーキの甘い香りと淹れたてのコーヒーの香りが立ち込めている。
こんな穏やかな時間を過ごすのは本当に久し振りだ。
偶然にもぴゆのワガママを聞くことによって、俺は人間らしい時間を過ごせている。
薄々感じていた。コイツの纏う独特の空気感はハルのものと同じだ。
誰も入れないように作っていたバリアの中に、いつの間にか入り込んで好き勝手している。
時間の流れがゆっくりになる。
灰色の世界が色づいていく。
陽の光に目を細めていると、ぴゆはマグカップを持ち替えたり首を傾げたり何処か居心地が悪そうにしていた。
トイレにでも行きたいのか?いや、そもそもこの生き物はトイレを使うのか…?
便座に座ったら便器の中に落ちたりしないだろうか…。
「ぴゆ、今日からこのゆーた食堂に通うことにしまちた」
「……え?」
何を言い出すのかと思いきや。
突拍子もない発言に呆気に取られる此方を他所に、当の本人は頬の辺りをほんのり赤くして少し恥ずかしそうにしている。
「いやいや、そもそもここ食堂じゃないし…」
「面倒はかけまちぇんよ、ぴゆは自立していまちから」
えへんと胸を張っているが、その胸の辺りには払いきれてないパンケーキのクズがたくさんついている。
自立のじの字も書けなさそうなくせによく言えたもんだ。
「故郷のぴーゆんアイランドを出てからぴゆはるろうの身でちたが、そろそろゆっくいと羽を休めらりるような場所が欲しかったんでちよ…」
物憂げにふぅとため息をついているが、お尻に敷いているクッションの下から俺のるろうに剣心のコミックがはみ出していた。
パンケーキを焼いている間に読んでいたのだろう。
影響を受けやすいタイプらしい…。
「ハルのことを知ってるってことはハルの家にいたんじゃないのか?
おじさんもおばさんも心配するだろ」
ハルは実家暮らしだった。
園芸が趣味の穏やかなお母さんと、無口だが優しいお父さんの3人暮らしだったと記憶している。
あの家族ならこの謎の生き物と暮らしていても妙に納得できてしまう。
「ぴゆ〜……良いじゃないでちか、細かいことは!
もうぴゆはここでごあんを食べるって決めたんでち!
それとも、こんな可愛いぴゆを飢え死にさせるっていうんでちか?おに!あくま!」
「うーん……」
足をバタバタさせてぴゆぴゆ言いながらくるくる回っている様子は小さい子が駄々をこねている時と同じだ。
この話が通じない感じ、頑固なハル譲りだな。
昔ハルとこんなふうに押し問答をした気がする。
ハルはおっとりしているけれど自分で決めたことは曲げないような芯の強い子だった。
とは言え、ぴゆはきっと気まぐれでうちに遊びに来たに違いない。
何回かだけでも遊ばせておけば、飽きていつの間にか来なくなるだろう。
「鳴かない犬猫を飼うようなものか…」
うちのアパートは静かな生き物だったら飼っても大丈夫だったはず、などと引っ越してきたばかりの時のことを思い出しながら呟くと、生意気にも「ぴゆをケモノと一緒にしないてくだちゃい!」と抗議の声が上がった。
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「本当に1人で大丈夫?」
「ここまで来るのも1人でちよ、何を今更」
カフェオレを飲み終えた途端「そろそろおいとましまち」などと言いながらぴょんと飛び跳ねて部屋を出ていこうとするものだから、慌てて家まで送ると伝えたが拒否された。
フンと得意げに鼻を鳴らしながら、ペタペタと廊下を歩く後ろ姿はぬいぐるみのようでまるで説得力がない。
(まだパンケーキのクズついてるし)
「じゃあ…まあ、気を付けて帰りなよ。
猫とかカラスとか…この辺いるから」
玄関のドアを開けてやると、ぴゆは此方を振り返って丁寧にお辞儀をした。
「それ、どういう意味でちよ。
ま、それでわ、どーもごちそうさまでちた。
ぴちゅれい!」
小さな手を敬礼みたいにピッと動かすと、そのままぴゆはあっさり帰って行った。
そのままドアを半開きにしていて後ろ姿を見ていたものの、背中にパンケーキクズをつけたまま歩く姿に不安が拭いきれず、ぴゆにバレないようにこっそりとついていくことにした。
我が家は3階のため、下に降りるには廊下を曲がった先にある階段を使う必要がある。
ぴゆが曲がり角を曲がって階段を降りる音を確認してからいけば、まあ気付かれることはないだろう。
静かにドアを閉め、ゆっくり距離を取りながら後ろ姿を追っていく。
予想通り、ぴゆは素直に階段を使って下に降りるようで小さな姿は曲がり角の向こうに消え、ぺちぺちと足音が聞こえた。
未知の生物の追跡なんて探偵みたいだなんて思いながらも曲がり角を曲がって階段の下方を見ると
(いない…?)
確かに階段へ向かう姿を見て、足音も聞いた。
しかし辺りを見回すもぴゆはいなくなっていた。
(…まさか落ちたのか!?)
疑問は瞬時に嫌な予感に切り替わった。
あの小さな身体で人間用に作られた階段を安全に使えるわけがなかったんだ。
ダンダンダン!と半ば飛び降りるようにして階段を駆け降りる。
普段は足音を気にしてゆっくりと降りていたが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
床で転ぶのと階段から落ちるのは訳が違う。
ましてや小さな生き物が受けるダメージは、人間が負うものとは比べ物にならないだろう。
頭にぐったりとしたぴゆが思い浮かんで背筋が寒くなった。
しかし、そんな不安をよそに呆気なく1階まで辿り着いてしまったのだった。
(あれ?)
見落とすような広い場所ではない。
本当に、ぴゆはいなかった。
あのふわふわは、夢や幻覚だったのだろうか。
そんなことを思いながら今度は足音を立てないように静かに階段を登って部屋に戻る。
玄関のドアを開けると、つけっぱなしの電気に照らされた見慣れた廊下。
コーヒーとはちみつの匂いが残るリビングには、食べ散らかされたパンケーキのクズと、小さく丸いくぼみが残るビーズクッションがあった。