序章 いつもと変わらない朝
頬を撫でるヒンヤリとした風に薄く目を開けると眩しいばかりの日の光が網膜を焼く。
眠りからほんの少し覚醒した意識に届く物音、少し遅れて体を揺らす感触と聞き慣れた優しい声が耳朶を打つ。
「アイリス君、朝だよ。朝ご飯出来てるから一緒に食べて支度しないと学校に遅刻しちゃうよ?」
俺は目を擦りながら身体を起こす。季節は春先、とはいえまだ朝は肌寒く布団から出るのは少し億劫だ。
「…おはよう、アリア。」
起こしてくれた同居人、ブロンド色の艶やかな髪を右に流した燃えるようなルビー色の瞳が目を引く少女に朝の挨拶を向ける。
「おはよう、アイリス君。今日は一段と眠そうだね…。さては遅くまで課題をやってた?」
「まぁ、そんなところだ。」
俺は頷いてベッドから出る。
「着替えたらリビングに来てね、朝ご飯、支度出来てるから。」
「わかった、いつもありがとな。」
俺はそう礼を述べて、着替えにかかる。もう着替え慣れた学院の制服を見にまとい、壁に立て掛けてある長剣を腰に下げる。
一通りの準備を終えて、リビングに向かうとまず飛び込んできたのは鼻腔を擽る香ばしく甘い香り。シンプルな机の上に並べられた料理の器、その脇にフォークとナイフを並べている最中のアリアの姿だ。
亜麻色の生地で出来たシンプルなエプロンを掛けた姿に眩しく輝く笑顔。気怠い朝の時間を華やかにする最大の調味料だろう。
「ほら、今日は八百屋のロロさんに小麦粉をオマケしてもらったからパンケーキにしてみたんだ‼︎牛乳と卵も早く使わないと悪くなっちゃうしね…。」
「そういえば奮発してたもんな、港町だと如何しても魚ばっかりになりがちだし、たまにはこういうのもいいよな。」
エシュロンは港町だ、魔法の発達と技術の発達で冷蔵などの食材保存能力は向上したが輸送となればそうもいかない。乳牛や卵、生肉といった食品はやはり手に入りにくい。
「さ、食べよ食べよ‼︎せっかくのふかふかパンケーキが冷えてペタンってなっちゃったら台無しだし‼︎」
「時間に猶予はあるって言っても、遅刻はしたくないしな。…早速いただこう。」
俺はいつもと何も変わらない朝を実感しながらアリアと共にパンケーキにありつく。
…思えば、これが運命の歯車が動き出す予兆だとは全く考えることもなく、出来の良いパンケーキにただ舌鼓を打つのであった。