薔薇の咲く丘 2
プチデートの続きです
シャツはまだいいとして、ズボンは脱がないと絞れない事に気付いた。
私は彼に少しだけ待ってと告げた後脱ぎ捨てた靴を拾い、履きなおしてから斜面を登り馬車へと急ぎ足で向かう。
馬車の中に畳んで置いた敷布やランチやカトラリーを包んでいた布巾など、拭けそうなものを手にして彼の元へ戻った。
「気休めにしかならないけどこれをどうぞ。絞るにしても脱いでる間そのままじゃ……困るでしょ」
とりあえず敷布を腰に巻いて隠してと、持ってきたものを彼に渡す。再び彼に背を向けて斜面に咲く薔薇へ視線を向けた。
……何が困るってこのままだと私の心臓にいろいろ危機が訪れそうなのよ。
前の時も今現在だって男の人の裸なんてちゃんと見たこともないし。
辺境伯家の騎士たちだって、夏場の訓練時はずいぶんラフな恰好だったりしたけれど。
これは普通に武器とか危険なものがたくさんあるから、危ないって近づくことは出来なかったからなあ……。そういう免疫がないからカイルが本当に心臓に悪い。
広がる薔薇の斜面を眺めながら、時折彼のあらわになったお腹を思い出しては、顔に熱がこもるのを感じてめまいがする。
そのたび無心になろうと足を動かした。
小道には登らず斜面の裾を歩いては綺麗に咲く薔薇たちを愛でながら歩く。きっと初めて人の瞳に移りこんだだろう咲いたばかりの薔薇たちは恥ずかしそうに風にそよいで揺れている。
「落ち着くの。落ち着くのよエリザベス。カイルはただこの見事な景色を私に見せたかっただけなんだから」
彼と二人きりという事実を頭の中から追い出すように小さく呟いた。
お茶会のせいで煮詰まっていた私を気分転換に誘ってくれた。
彼の優しさを感謝して受け取って、いつものように振舞いながら帰らないと、侍女たちに勝手なロマンスを想像されかねない……なんて考えながら揺れる薔薇の花弁を指先で撫でてみた。
風に乗ってふわりと薔薇の香気が匂い立つ。その香りに呼び起こされるように考えがひとつ、脳裏に浮かんだ。
土地や街の名そして辺境伯家の家名。お茶会の会場になっているサロンに面した庭園にも、会に合わせてつぼみが開くように庭師たちが苦心してあれこれ調整してくれている。なので一番の見ごろを迎えながらお茶会が開けると思う。
でも薔薇を楽しむ方法は見るだけではないのよね……。その香りと美容効果から化粧品の材料にもなるうえ、食用にも使われるので女性には割と身近な存在。
招待している令嬢や夫人たちの住むどこのお庭にも当たり前に育てられているし、こだわりを持つ方も多いから女性にとってはとても話題に上げやすい。
こんなにも街の名前と合わせて連想しやすいものを、どうして思いつかなかったのだろう。
「……自分でも思っているより、随分と煮詰まりすぎていたという事ね」
初めて上った御者台からの景色や裸足の感触に、思うまま大きな口を開いて噛り付いたサンドイッチ。
そして誰も知らなかった秘密の薔薇の丘。
最後に起きたハプニングが私の頭の中を一番真っ白にした気がするような気もするけれど、どれもカイルが居たからこその話だわ。
「よし。せっかく思いついたのだから忘れないうちに戻れるかしら。料理長たちに相談してみなきゃ」
「何の相談だい?」
薔薇の花をよく見ようとしゃがみ込んでいた体を起こした、ちょうどそのタイミング。
離れている間にずぶ濡れからしっとりくらいまで改善されたカイルが、背後から私を覗き込むように屈みこもうとしていて……。
砂地に素足の彼の足音なんて全然わからなくて、立ち上がる勢いを止められるわけもない。
私の後頭部が彼のあごにゴツンと音を立ててぶつかった。
そして後頭部に受けた鈍い痛みと背後から「うぐっ」と漏れた彼の声に慌てて振り返る。
「きゃあっ! ご……ごめんなさいっ後ろにいたの気づかなくて」
「あはは……大丈夫だよ、君こそ怪我はない?」
顔の下半分を手で覆うように抑えながら彼が答える。
「私は平気、あなたこそほんとに大丈夫? 口の中を切ったりしてたら大変よ」
見せて、と告げながら彼に向かって足を前に踏み出した。
怪我をしても原因を作ったのが私なら、カイルは絶対我慢してしまう。
だから私がしっかり確かめないとという使命感めいた気持ちだけで体が動く。
彼は彼で私の行動に驚いたように彼が目を見開く。驚いたせいなのか顔を抑えていた手は、本当に添えていただけのようだった。
私はその手を横に押しのけ、彼の口元をしっかり見ようと踵を上げ背伸びをして顔を近づける。
「リ、リズ……ちょっ……」
「いいから見せなさい! ほら、口開けて」
彼の頬に両手を添え、口を開けと迫る。彼が顔を真っ赤にしながら薄く唇が開いたのを見て、逃げられないようにと無意識に頬へ添えた両手に力がこもる。そして口の中を覗き込もうとして爪先立ちになるほど踵を上げた。
ここが絨毯の上だったらそのままの姿勢を保ち、目的を遂げられたかもしれないけれど、ここは不安定な砂の上。
爪先だけで立ったままの姿勢なんていつまでも保てる訳もない。
そのままバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ私と、私の勢いに腰が引け気味だったのに、目の前に迫った私の体がふらついたものだから……。
それを見て反射的に支えようと、カイルが反射的に腕を差し出してくれたけれど。
体勢が悪かったせいか彼もまたバランスを崩して、後ろ向きによろよろと歩いたあと私を抱え込むようにして尻もちをついて転んでしまった。
急な落下の動きに驚いて思わず目を瞑ってしまう。――そして倒れ込み重なり合ったまま、ほんの一瞬だけ唇に触れた柔らかな何か。
恐る恐る瞳を開くと、これ以上ないほど間近にありすぎてぼやけて映る真っ赤に頬を染めたカイルの顔。
もしかしなくても……私、カイルの上に乗っちゃってる? 唇に触れたのって……カイルの……まさか、違うわよね……?
状況を理解した瞬間はじける様に上体を起こし、両手で顔を覆い隠しながら天を仰いだ。
さっきまで彼の頬に触れていたから当たり前なのだけど。
手のひらからカイルのぬくもりが残っているものだから、なんて大胆な恥ずかしい真似をしていたのと自覚すればするほど、湯気が出ているのではないかと思うくらい頬が火照りだす。
……顔を覆っているこの手を一生外せないかも。
「……あー、驚いたけど僕が下になってよかったよ。怪我はない?」
こくんと頷きで返事をする。
「僕も怪我はしてないから、安心して」
さっきまでの私の心配を取り除いてくれるように、柔らかな声が耳に届く。
もう一度頷くけれど恥ずかしくて彼の顔が見ることなんて出来ないから、手は顔を覆ったままだったけど、カイルの手が顔を隠したままの私の手の甲にそっと添えられた。
「……ちゃんと顔を見せて?」
手の甲に触れていた彼の手が動いて私の手首を軽く掴む。
そして彼の手の動きに従うように私の手は顔から離れてしまえば、耳の先まで真っ赤になっている顔が彼の瞳に映し出されているはずで……。
恥ずかしすぎて彼の顔をまともに見られず目を逸らしたままだけれど、私の顔へあたるカイルの視線を感じて耐えられずに目を閉じてしまう。
そして彼の顔が近づいてくる気配を暗闇の中で察して緊張で体がこわばった。
待って、待ってカイル……このままじゃ……。
かぷり。
息をのんだ瞬間、鼻先に何かが触れた。
「さっきかじられたお返し」
聞きなれた彼の揶揄い声が耳へ届く。
――じゃあ倒れた時唇に触れたのは、彼の鼻先だったのね?
彼の言葉を聞いてカイルの唇を奪ったわけじゃないと知れば、ほっとして身体の力が抜けていく。
「さあ、そろそろ帰ろうか。濡れただけなら乾くのを待てばよかったのだけど、背中側半面砂まみれなんだ。流石にこのままじゃちょっとね。戻って着替えさせて?」
彼の上に乗ったままで居た私を軽く抱き起こし、立ち上がってから彼も腰を上げる。
彼の言葉通り、濡れたシャツやズボンもすっかり砂と仲良しになっているようで、これは叩いた程度では落ちそうにない。
私も戻りたいと彼に言うつもりだったから、素直に彼の申し出を受け入れた。
「ロゼウェルに戻るときは、御者台に日差しが正面から当たるんだ。日当たり良すぎる場所になるから帰りはキャビンの中で過ごしてくれる?」
「う、うんっ 疲れたからそうさせてもらうわね」
馬車に戻り馬たちの調子を見ながらだったので、私に背を向けたままカイルが私に声を掛けてきたから見えてるわけもない。
でも私は彼の背中へ向かって何度も大きく頷き返しながら返事をしてキャビンに飛び込んだ。
私ちゃんと喋れていた? 心臓が煩すぎて自分の言葉もよく聞こえない。
一人になって落ち着かないと、火照りすぎてバターになっちゃいそう……。
互いにポンコツ気味になる恋愛回。次回はカイルの母君も来訪します













