⑦クライヴは、その時。
初めてクライヴがルシアに出会ったのは、彼女が別邸に移る少し前のこと。ルシアの居住環境の確認も含め、ベンジャミンとルシアは別邸のある城壁都市を訪れた。
ここには戦場の右腕であるホーエンハイムの邸宅もあり、既にルシアの婿として目星を付けていたクライヴと会わせるつもりでもあった。
クライヴはルシアの3つ上……この時齢8。
少し不器用で寡黙なところはあるが、実直で素直で、健康な男児である。
父や兄達を尊敬しており、幼いながらも下の兄に習っていっぱしに剣を振るうようになっているのはなんとも頼もしく、微笑ましい。なにより不器用で寡黙なところがベンジャミンは気にいった。自分に似た気質なら、ルシアと相性がいいのでは、と考えて。
「おとうさま! アレはなに?!」
「どれかな、ルシア。 ああ、あんまり身を乗り出してはいけないよ、危ない」
久しぶりの父とのふれあい、しかも知らない場所とあって、ルシアははしゃいでいた。
別邸に行くより先に、ホーエンハイムの邸宅に招かれたふたりはそこで共に昼食を摂り、一旦ルシアはそのまま預けられた。
ベンジャミンにはこの地の周辺を守る部隊の演習指導や、備蓄の報告確認、領地経営と別邸管理を任せている分家との会合などの仕事があった。
そして魔獣は毎日のようにどこかで出没する。領地内だけではなく、他にも。領主の私兵でなんとかするか、神殿へとおびき寄せ、魔法陣を使用し公爵領の神殿へと送られるのが通常の処理方法。ガヴェイン公爵家が王家から切り離された理由は、この方法の有効さにあった。
ごく稀にだが他領に出た魔獣の規模の大きさや数の多さにより、王家から出陣要請が出される時もある。
ホーエンハイム邸に残したルシアは、ハウスメイドと夫人が面倒を見ていたが、街の学校からクライヴが帰ってきたら任せるように言われていた。
クライヴもそのことは聞いていたが、なにぶん8歳の男児である。しかもホーエンハイム家には女児はおらず、彼は末っ子。兄に早く追い付きたいクライヴは、そんなことより鍛錬に勤しみたいというのが本音。
5歳の女の子の面倒なんて……と憂鬱な気持ちで帰路に就いた。
「ただ今帰りま……──!」
「……?」
クライヴに気付き、不思議そうな顔でこちらを眺めるルシアに、彼は言葉を失った。
「クライヴ、挨拶なさい」
「あっ……初めまして、お姫様。 クライヴ……クライヴ・ホーエンハイムです」
教わっていた挨拶の口上はすっかり飛んでいた。
貴族のお嬢様は、分家の娘を何度か見たことがあるが、ルシアはまさに『お姫様』だった。隣国の姫君の血を引いているルシアの肌はとても白く、腰まで伸びた艶やかな黒髪と硝子玉のような碧い瞳は、まるで精巧なビスクドールのようだ。
子供の面倒をみる、と思っていたクライヴはその相手が単なる子供ではなく、名実ともに『お姫様』であることに気が付く──途端にせり上がった緊張。
「こんにちは、クライヴおにいさま。 わたしはルシアです!」
ルシアの教育の開始は遅かった。『甘やかしていた』というのもそれなりの事実である。
だが、そう言ってたどたどしいカーテシーを披露するルシアは愛らしく、見た目の気品とのギャップに皆を虜にした。クライヴも、また。
もともとはしゃいでいたルシアは、年齢の近い『クライヴおにいさま』の登場にあどけない好意を向けた。任されたクライヴは当初とは違う意味で扱いに困ってしまったが、ルシアは見た目と違い、お転婆だった。
「ああっ……ルシア様! 駄目ですそっちは」
「ひゃあ?!」
ホーエンハイム邸の敷地内で、危険なところでないなら自由にしていいとのことだったので、庭で遊ばせていたところ……カエルを追い掛けたルシアは水溜まりのところで豪快に転び、ドレスを泥だらけにした。
「ああ…… 」
「……ふふ、あはははは! 見て、おにいさま。 茶色になっちゃったわ。 地図みたいね!」
泣いてしまうかと思ったクライヴだったが、ルシアは泥だらけになったのが面白かったらしく盛大に笑う。
これは自分が怒られる、と思いながらもルシアを立たせるクライヴには、妙なくすぐったさと庇護欲が湧いていた。
可愛い妹のような存在。
末っ子だったクライヴは、『おにいさま』と言われて満更でもない気持ちでいた。
──このときは、まだ。
思えばルシアにとって、一番幸せだったのはこの頃だった。
★★★
さて、一人王宮に向かったクライヴだが。
「ガヴェイン公爵令嬢は、もうこちらにはいらっしゃいません」
当然肩透かしを食らうことになった。
「そんな馬鹿な……」
ルシアが戻るならば、王宮から公爵領の領門までは王家の馬車で送られる筈。だが、王家の馬車とはすれ違わなかった。
「もう一度調べ直せ」と詰め寄るクライヴの気迫に門番達は恐怖を抱いたものの、馬車は確かに彼女を乗せて出ている。だが、一人がそういえば馬車の戻りがやけに早かったことを思い出し、慌ててクライヴを宥めた。
「ホーエンハイム卿! 再度確認して参りますので、どうかもう少々お待ちを!!」
「──…………わかった、頼む」
「はっ!」
苛立ちを隠せないまま、それでも呼吸を整える。
(落ち着け。 彼等にぶつけてどうする)
彼はまだ、何者でもない。今回に限り公爵の代行ではあるがまだ本来の立場的には一介の騎士に過ぎず、公爵の顔に泥を塗るような真似はできない。
ルシアがもし、まだ王宮にいるなら尚更。
それはほんの5分程だが、クライヴにとって酷く長い時間を経て──ようやく門番が戻ってきた。横に王族付きと思しき美しい騎士服を着た、騎士を連れて。
「ホーエンハイム卿、馬と剣をそちらに」
「なに……?」
「失礼、私はフレデリック・シモンズ。 ……第二王子であらせられるスヴェン殿下が貴殿をお待ちです。 どうぞこちらへ」
「! ──……承知した」
思いもよらなかった男からの招請に、クライヴは奥歯を噛み締めながらも馬と剣を門番に預け、フレデリックに付き従った。
案内の元、クライヴは王宮の広く長い廊下を悠然と突き進む。
一介の騎士、のつもりの彼だが、既にクライヴに求められているのは前線での活躍ではなく、指揮官としてのそれ。軍総統であるベンジャミンの騎士服は一目でそれとわかる豪華なものだが、今やクライヴも相応に美しい騎士服を着用している。細身でありながらも逞しく凛々しい姿は、武人とは思えない気品に溢れ、王宮に馴染んでいた。
だが仮に服がみすぼらしかったとしても、王宮の空気などに、クライヴが怯むことはない。遷都したことでもわかるように、ガヴェイン公爵邸のそもそもは、元の王宮。クライヴが初めてルシアを見た時に『お姫様』と感じたのは見目ではなく正しい感覚だった。
9つの時に公爵家に呼ばれたクライヴは、この空気に既に慣れている。
「……お招き頂きありがとうございます。
クライヴ・ホーエンハイム、王国の太陽スヴェン第二王子殿下にご挨拶致します。 本日はガヴェイン公爵代理として──」
「クライヴ卿、そういうのは省きましょう」
自室のソファに座りクライヴを待っていたスヴェンは、彼の臣下の挨拶を遮り、向かいのソファに座るよう促す。軽く右手を上げフレデリックを下がらせて続けた。
「彼女はここにはいませんが、居場所は知っています。 まずは私と少し話をしませんか、公爵代理」