⑥なにかをしようとする人、なにもできない人。
「さあルシア様、こちらをお召しになって。 生憎侍女は連れて来なかったので、私が髪を結わせて頂きますね」
ホテルに着くと、レミリアはルームサービスで軽食を頼み、その間に庶民が着るような服を用意させていた。
王都育ちのレミリアは父と共に王宮にもよく出入りする一方で、下町にもよく遊びに行っていた。勿論、護衛はそれなりに付いているが平民の知り合いも多く、もう慣れたものである。
一方、公爵家のお姫様であるルシアは、もとより一人では気軽に外など出られぬ身。
本邸に戻った後は、聞き分けを良くしなければならないと思っていたルシアである。皆が忙しく働いている中「出掛けたい」なんて我儘は言えなかったし、その後にあった事件以降は、誰との関わりにも一線を引くようになってしまった。
王宮ではなにより体面が大事だった。
スヴェンだけでなく、断れる誘いは全てやんわりと固辞した。
不出来な令嬢を演じているのは、王子妃教育の時だけ──公爵家の恥となるような真似はしたくなかった。後付けで、「そうしないと王宮から追い出されてしまうかもしれないから」と理由を付けているが、ルシアの心の奥底のどうしても捨てられないものが、そうさせていた。
だが今は、もう飾る必要がない。ましてレミリアは関わった人間の中でも、ルシアにとっては一番構えて見せる必要性に欠ける人物。
ルシアは不承不承、というのを装いながらも、ワクワクしてしまっていた。
本来のルシアは好奇心旺盛で、お転婆な娘だった──状況や立ち位置もあるだろうが、なによりレミリアの明るさと強引さは、本人すら忘れていた彼女を少しずつ引き出していた。
「……貴女、髪なんて結えるの?」
「あら。 私上手なんですよ?」
「未来の王子妃殿下に畏れ多いわね」
「あらいやだわ。 もう私達お友達でしょう? あ、レミリアとお呼びくださいね♡」
「……」
「あらあら……まさか市井で家名や爵位付けで呼ぶなんてことなさらないでしょうね?」
「──ッ…………レミリア様! ……もう! これで満足?!」
躊躇う様子を見せたあと、自分の名を投げやりに呼ぶルシアの顔は真っ赤で、レミリアはあまりの微笑ましさについ噴き出してしまった。
「駄目ですよ~『様』付けなんて! 私もルシア『ちゃん』って呼びますから!」
スヴェンとレミリアは、ルシアとの婚約が決まってからこれまで、沢山話し合った。
最初はただ単純に、立場の違いに絶望し、それでもそれに従った。『それが王侯貴族というものだ』と正しく諦めて。
だがルシアに言われたことで、それは思考停止しているだけだと気付かされたから。
ふたりはなにかを変えたわけではない。ただ、次代を担う彼等が真剣に動くことは、同世代を巻き込み、それは波紋のように緩やかにだが周囲に変化を起こした。
そして周囲の変化は、ふたりに大きな影響を与え、変化をもたらした。
なにが正しいかを決めるのはいつだって自分で、その正しさを証明することが出来るのも、自分だけだ。
それをわからせてくれたルシアが、自分ではそれを諦めているのがふたりには許せない。
彼女が許せないのではなく、そうさせているなにかがあるなら。
スヴェンと話し合った沢山のこと。
その中にルシアのことがあるのはふたりにとっては至極当然のことで、その為に動くようになったのもごく自然な流れだった。
なにかしなければ、なにも変わらない。
かつてのルシアと違い、彼等は無力な子供ではなかった。青い押し付けの正しさなんて、と言われるのは承知。納得をしていると言うなら、それが嘘じゃないと見せて欲しい。
だがもしそれも、できないのなら。
「さあ行きましょ、ルシアちゃん!」
レミリアはルシアの手を取り外へと連れ出した。
──自分はまだ信用されてはいない。
それでも彼女は公爵家に戻らない選択をした。それは一時凌ぎかもしれないけれど、不安でないわけがない。
だからレミリアは、庶民の格好をしてルシアを引っ張り回すことにしたのだ。
──今日は疲れるまで楽しんで、なにも考えずに眠ってしまえばいい。
★★★
自身が当主になってからのベンジャミンは、苦難の連続だった。
両親が突然の事故で早くに亡くなったことによる引き継ぎの不足と、彼をよく知らない下士官からの歳若き当主への不信……それらを払拭する為に、彼は常に現場に出なければならなかった。
その働きにより、現在は以前より現場に出ることは格段に少なくなっているものの、ルシアの婿には自らの轍を踏ませたくなかった。それ故、クライヴには早くに実力を付けさせ、広く前線に出す必要があるとベンジャミンは考え、また彼も、それを受け入れた。
ベンジャミンやクライヴの見た目は軍人にしては華奢と言えるが、魔獣相手では素早さと、魔獣が魔獣たる所以である核を的確に貫く一閃が必要である。力任せに切り刻んでも、再生してしまうのだ。
その見た目で侮っていた者も、いざ戦場でベンジャミンを実際に目にすると黙る。戦いを見た者は当然だが、指揮官としてだけでも、十二分に。
ふたりは強いが、火の神の加護の与える強さは直接的な武力に非ず。戦場で軍に力を与える力であり、彼の一声で士気は莫大に上がる。
一騎当千と言われているのは、これまでの当主の鍛錬が地としてあった上で、与えられた気迫がそうさせるのである……そう当主を継ぐ者は教わり、鍛錬に勤しむ。
ただし──これは元の教義とは違う。
歴代の当主は男性しかおらず、神への忠誠心が高いからこそ「そうあるべき」と思い鍛錬に勤しんだ結果、当主は次代にそう教えるようになったという経緯がある。
「──閣下、自分に暫しの休暇を」
婚約が解消となりルシアが戻ると知ったクライヴは、その手紙を握り潰しそう残すと、ベンジャミンの執務室を出ようとした。
「クライヴ」
「勝手を言って申し訳ありませんが」
「いや、私からも頼む」
「!」
ベンジャミンはそう言うと、引き出しからペンダントを出し、クライヴに差し出した。
「休暇の他に『公爵代行』と名乗る許可を。 もしルシアが傷付いていたならすぐに戻ってこなくてもいい。 こちらの心配はいらない。 ただ……連絡を」
「閣下…………」
窘められるだろうと思っていたクライヴは少し瞠目した後で、受け取ったそれを強く握り締めて頷く。扉が閉まると同時に駆けていくクライヴの足音を聞きながら、ベンジャミンは崩れるように執務室の椅子へと座り、両肘をつけながら俯いた己の額を掌で覆った。
「……ふ」
──どうしてこうも上手くいかないのだろう。
いつも最善を尽くしているつもりでいる、あまりの自分の馬鹿さ加減に自嘲が漏れる。『健やかに過ごしている』という王家の報告を信じてしまった自分を悔やんで。
王家にとってこちらはあだや疎かにできない相手。大事な娘を預けるのには最適であると判断したが、また間違えてしまった。
婚約継続、または婚姻についてはルシアに一任することで話を通していたのも事実──しかし、3年も王宮にいながら、今更の『婚約解消』である。ベンジャミンが信じられずに悔やむのも無理のないことだった。
尚、最初の失態はあったものの、『健やかに過ごしている』という報告は紛れもない事実である。
ルシアは間違いなく『健やかに過ごして』いた。
自由もそれなりに与えられていて、スヴェンもある程度気を利かせ、彼女が退屈しないように観劇や展覧会などにも誘ったりした。もっともそれらをルシアは全て断り、自らもなにもしなかったけれど。
──思えば、悔やんでばかりだ。
ルシアが生まれソニアが死んだ時も、あの事件の時も、ベンジャミンは間に合わなかった。
そもそもが間違っていたのだろう……クライヴの想いも理解し、汲むことができなかった。
(だが、どうすれば良かったと?)
どうしようもない喪失感や悔恨に蓋をして、大切な娘の未来や責務の為に奮闘した彼は間違ってはいない。そこに向き合うことのできない弱さや、つまらない自尊心を優先したような側面があったとしても。
それを否定できる者がいるとしたら、それは酷く傲慢だ。間違っていないことが、正しいことではなくとも、それは結果の後付けに過ぎないのだから。
──だが、たとえ運が悪かっただけだとしても、起こったことは受け入れなければならない。
答えは常にすぐ傍にあるのに、ベンジャミンにはそれを見つけることができないでいる。