㉚匂い。
何故かはわからないけれど、ルシアにはハッキリとわかった。
なにが蠢いているのか──おそらくは、魔素。
魔獣の核が砕かれたことによって、発生した膨大な量のそれは、魔法陣だけでなくルシアの身体に吸い込まれていく。
そこまではあの時と同じだった。
あの時は取り込まれ、一瞬で消えてしまった筈の体内の魔素。なのに同じ様に取り込まれた今、それは彼女の身体の中でまるで血液のように力強く循環していくのを感じる。
(嫌よ嫌よ嫌よ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌……ッ)
──おそらく、成功してしまったのだ。
あの日、シュナイダーがやろうとしていたことが、今になって。
その成功は、ルシアの計画の失敗を意味していた。なにも起こらないことまでが、『あの時の再現』として次の魔法の発動に紐付けられていたのだから。
「ルシア!!」
魔獣を倒したクライヴは、腹を押さえて蹲るルシアに駆け寄った。
大量の魔獣の血液を浴びながら、その再生中のグロテスクな姿にも動じていなかったルシアの変貌ぶり──クライヴにはそんなことなど関係なく、ただ彼女の身を案じているだけではある。なんにせよ、今のルシアが身を縮こまらせて震えていることには変わりない。
「こないで!!」
ルシアの制止を無視し、クライヴはローブを包むように抱き締めた。
「いやぁっ」
「ルシア、手を……! ──!?」
自ら切った筈のルシアの掌の傷が、再生していく。抱き締めた彼女の身体は熱く、人間の体温のもつ高さではない。その熱に弾かれそうになりながらも、クライヴは暴れるルシアを組み伏すようにして無理矢理抱え込んだ。
「これは……?!」
贄として使われた魔獣の身体の、殆どは消失していた。部分的に残ったものも、魔法陣が放っていた光と同様に消えていっている。
そして時は、クライヴになにが起こったのかを考える余裕など与えてはくれなかった。暴れることをやめたものの、ルシアの身体の熱はどんどんと増していた。
「……!」
「──今更だわ。 全部、今更」
「ルシアッ……!! なにが──」
そう、今更だ。
突然与えられただけの力。それにもし、望む結末を迎えさせるだけのなにかがあったとしても、シュナイダーもあの店の男もいない。ルシアはそれの使い方がわからないのだ。
嫌悪していた自分自身。
ようやく手放せると思った愛情への執着。
向けるべきでない数々の憤りにまた──以前にも増して呑まれていくのを感じた。身体の熱……持て余した魔素にそれが、融けて混ざりゆくのを。
「──?!」
魔法陣の光が全て消えたとき、クライヴは王宮で感じたのと同じ気配にようやく気が付いた。術の発動のせいで、神殿の内外が遮断されていたのか、既に数人に囲まれている。
「くっ……」
ほぼ伏せたままの状態で、クライヴは床に突いた膝を起こし、ルシアの身体を引き寄せた。抱えて逃げるつもりで。──しかし、
「ガウェイン公爵代理クライヴ卿! 勅命である! 彼女から離れよ!!」
そう言ったのは、白いローブを纏った男。それは宮廷魔術師──大切な儀式や有事の際に動く神官達。
「なにを……!」
「我等は陛下の命により、ガウェイン公爵令嬢を保護しにきた!」
「……!?」
全く状況を理解できないクライヴに、男は勅命の紙を見せた。紋章に陛下の血判の押された特殊な印が光る。
しかし今のクライヴは、相手が王だろうが神だろうが、それに従う気などない。熱でビリビリと痺れる腕で、ルシアを庇うように抱きかかえたまま立ち上がった。
「保護というなら私がこのまま!!」
「──嫌い」
一言。
その一言は呟きと言っていいぐらいの小さなものだったのにも関わらず、一気に空気が変わった。ざわついた空間を静寂で切り裂くような、音のない世界。嵐の直前の。
ゴクリ、と誰かの喉が鳴る。
言いようのない重い空気の中で、魔術師の一人が手を上げ、他が頷いた。
それはまるで、攻撃の準備指示。
「なにを……!」
「クライヴ卿、もう一度言う! ガウェイン公爵令嬢から……」
「──嫌い」
──ぶわっ。
重い空気はそのまま重い風となり、雷を纏っているかのようにチリチリと肌を刺す。
「嫌いよ!」
ルシアが顔を上げ、強く言い放つと一際強い風が吹き、宮廷魔術師の小柄な女性が態勢を崩した。
「きゃあ!」
「ユーレカ!」
「……っ、投擲準備! クライヴ卿!! 邪魔だ退けぇッ!」
「皆大嫌い!! 嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き!!」
暴風が吹き荒れる中、魔術師達は腕に装着した魔道具とおぼしきスリングショットを構える。
「離してッ! 離しなさいクライヴ!!」
力と憤りに呑まれながら、ルシアは叫び、暴れた。ただクライヴを拒絶する為だけに。
周囲がどうなっているかなんて今の彼女には認識の外だが、きっと正しく判断できていたら、余計にそうしていたに違いない──終われる、そう思って。
だがクライヴは、ルシアを離すことはない。全身の皮膚に擦り傷を負ったような痛みと骨の軋む音を感じながらも、ルシアを更に強く抱き締める。
それに魔術師はやむを得ず、いよいよこれ以上は無理、という判断を下した。
「……放てッ!!」
「ルシア!! 」
「……ッ!」
スリングショットから放たれた矢尻のようなものは暴風をものともせず、ルシアを庇うように身体を覆ったクライヴに、尽く突き刺さった。その衝撃に身体を激しく揺らしたあと、クライヴは少し緩まってしまった腕に、もう一度力を込めた。
「──……」
クライヴのローブで包まれた隙間から、ルシアの肌に伝う、生温かい液体。
魔獣のとは違う、匂い。
「……クラ、イヴ?」
それは気付けの香水でも嗅いだように、ルシアをようやく解放してくれた。空間が歪み、足元すら覚束無い世界から。
落ちてくるものを確かめるように、身体をそっと押す。
クライヴは幸せな気分だった。
こんなのとても愚かしくて、吐き気がする程の自己欺瞞である筈なのに、それでも。
──ああ、なんて我儘なんだろうか。
そう思って、笑った。
「今度こそ……本当に、でき」
近付きすぎて表情が見えない。
見たいのに視界が霞んでいく。
噎せ返るような自身の血と、魔獣の血の中で、柔らかなルシアの肌と髪の匂い。こんなときでもそれは、酷く鮮やかで──クライヴは瞼を閉じた。




