㉙起こる筈だったなにか。
月光に照らされたルシアは美しく、クライヴはもう目を逸らすことも、動くことも出来ずにいた。
半ば諦めながらも、いつか触れてみたいと思わずにはいられなくて、罪悪感と背徳感を抱きながら、想像してしまっていた彼女の肢体──なのに高まる胸の鼓動は、甘いものとは掛け離れた不穏な音を立て続け、激しさを増す。
服を割いた鉤針のようなナイフで、ルシアは親指から軽く引っ掻くように掌を割いた。
金縛りにあっていたように動けなくなっていたクライヴは、そこで弾かれたように彼女と距離を詰めた。
「やめろ!」
もとよりルシアは、止められなくとも無意味に自傷などする気はない。だがクライヴの動揺を見て、仄暗い欲望が満たされていくのを感じた。
切っていない方の手で、詰められた距離をまた離し、後ろに下がる。
全てを見てもらう為に。
「──クライヴ、ちゃんと見て。 これが私よ」
顕になった肌に掌を押し付け、ずらしていく──白く柔らかな身体を自らの血で汚すように。
そして、高らかに笑った。
「!?」
薄い彼女の腹に血が塗りたくられた瞬間、浮き上がってくる図案──それは、契機となる術式。あの時シュナイダーが描いたもの。そして、神殿の魔法陣が光る。
「なにをしたんだ……」
ルシアは笑いながら、魔法陣の外側へと走った。
「なにもしてないわ! ただ血で汚れただけよ!!」
──あの日の再現は、これを以て完成に近付く。
ルシアが最も恐怖した瞬間であり、
最もベンジャミンの愛を感じた瞬間。
そして、シュナイダーの一言に、絶望した瞬間。
あの日のシュナイダーの説明こそ理解できなかったルシアだが、彼がなにをしたかったのかは最終的に理解できた。
あれで、自分はなにか特別な力を手にする筈だったのだろう。だが──
なにも起こらなかった。
『やはり女では無理だったというのか』
捕縛されるシュナイダーの漏らした一言にルシアの目の前は暗転し、そのまま意識を失った。
ルシアの望んでいない彼の行動だったが、唆されたのだとしても乗ってしまったのには、一致している望みがあったから。
ルシアは力が欲しかったし、シュナイダーは、ルシアに力を与えたかった。
だからあの日、ルシアは穢れてしまった。
なにもできずにただ、血で汚れてしまっただけだったから。
誰の希望も叶えることのできない、無力で無意味な身体。なのにそれでも、しがみついていたかった。
「クライヴ……さあ、剣を抜いて。 私を愛しているのでしょう?」
笑うのをやめ、淡々とそう放つルシアの言葉の意味は、クライヴにはすぐにわかった──前線で嗅ぎなれた、魔獣の臭い。
本来、神殿の魔法陣は魔獣を誘き寄せ、『公爵領神殿魔法陣への』転移を行うもの。だが、それは既に書き換えられている。何処から来るかは知らないが、あの日の再現だ。魔獣はここにやってくる。
ルシアの身体に描かれたモノが何かは、ルシア自身わからない。だが、魔獣がルシアを襲ってくるのだけは、身を以て知っていた。
クライヴが自分を守れなければ、『あの日の再現』は失敗──ルシアはただ死ぬ。ふたつめの願いは叶わない。
(あのひと、随分意地悪だわ)
男がわざわざふたつを紐つけたことに、ルシアは今更ながらくすりと笑った。
だがルシアは、クライヴを信じている。
それは愛故の信頼などという単純な言葉で表せるものではなく、もっと崇高な彼自身の培ったものと、それを見守った日々と、どうしようもない彼への嫉妬や羨望といったドロドロした諸々が入り混じったもの。
──グォォオオォォォ……ッ!!
咆哮を響かせながら、現れた魔獣。
焔のような鬣に捻れた大きな角。
巨大な獅子のような魔獣は、案の定ルシア目掛けて飛び掛ってきた。
「ルシア!!」
クライヴは斜めから飛び掛かり、それを力任せにぶった斬る。
魔獣の大きさに核までは届かず、足止め程度の一撃と理解しながらも、この状況に舌打ちしつつ、身体は素早く態勢を整えていた。
再生をしながらも魔獣が向かうのは、攻撃するクライヴではなくルシア。
その再生途中のグロテスクな姿と、降りかかる大量の血液とその臭いに、あの日のルシアは恐怖しか感じなかった。
なのにどうだろう。
今魔獣の血液を浴びているルシアは、恍惚とし、うっとりしながらそれらを味わっていた。
あまりにも自分に相応しい状況と、反して注がれている過分な愛情、そして過分な献身。
それは滑稽で、まるで喜劇のようだ。そう思った。
『悲劇のヒロインぶってて狡いです!』
こんな時なのに、思い出すローズメリアの言葉にルシアは笑った。
(ええ、そうね。 その通りだったわ)
あの時に終わらせていれば良かったのに、引き摺ってしまったのはきっと、『ヒロインぶりたかった』──愛されて、気にかけられるべき存在でありたかった。
彼等に責任の全てを押し付けて、そうでないのにそうされることを、正当化したかっただけ。
(でももう、解放してあげるわ)
自分もなにか出来るはずだと思いたくて虚勢を張り続け、思い知るのが怖くて拒絶し続けた、無意味な日々。それによってただただ享受し続けていたものから。
幕引きの挨拶すら思い浮かばないけれど、最期になにを言うべきかを考えながら、クライヴの姿を血溜まりの中で、目に焼き付けている。
クライヴの一閃が、魔獣の核を砕いたその時、ルシアの身体に変化が起こった。
とうとう最期の時が来たのだ──そう思ったルシアだったが、
「……ッ?!」
ルシアは腹部に手を当て、前のめりに倒れていく。熱い掌よりも、もっと熱い腹部、そしてマグマのようなその内側。体内に蠢くなにか。
倒れていく、という感覚ではなく、ルシアが感じていたのは魔道具屋を出て、男とすれ違った時のような感覚。スローモーション。
(──嘘)
どうして、今更。




