㉘あの時の再現を。
振り返ったルシアの表情は、今までクライヴが見たことのないものだった。
口許にうっすらと柔らかな微笑みを湛えながら、目の奥には、吸い込まれそうに光る闇。
それはクライヴがまだ理解していないものも含まれているが、それでもひとつ、ハッキリ理解したことがあった。
(どうして許されたなんて思っていたんだ……いや、違和感はずっとあったのに)
──許された、と思いたかったのだ。
しかし今はそれを『浅はかだった』と悔いるところではない。
許されなくても、想いは変わらない。
クライヴは、告げなければならなかった。
今できること、やるべきことはそれだけ。
「──愛している」
その一音一音を確かめるように、ハッキリと言ったあと、クライヴは跪いて剣を差し出し、声を張った。
「愛しているんだ! ルシア……!!」
騎士としての己こそ、クライヴという人間。
だが、剣を捧げるのは神にではない。
それすらルシアの傍にいる為なのだから。
「──そう」
跪いたクライヴを睥睨したあと、ルシアは少し俯いてドレスの胸元に両手を重ねた。
自然な仕草に見えたそれだったが、次の瞬間──
「──……ッ!?」
ルシアはフィンガーブレスレットに仕込んだ鉤針のようなナイフで、胸元から服を切り裂いた。
「なにを……」
「駄目よ!」
クライヴは素早く剣を置き、自分のローブを脱いで掛けようと立ち上がる。それをルシアは強い口調で非難し、制止した。
ルシアの声にビクリと身体を震わせ、その場でクライヴが身じろぐと、ルシアは再び微笑んで、す……と剣を指差す。
「……剣を置いては駄目。 台無しだわ、クライヴ」
「ルシア……一体なんの」
「剣を取りなさい、クライヴ」
「……」
有無を言わせないルシアの圧に、クライヴは黙って剣を取る。その間にルシアは「ドレスと一体になっていて良かった」などと笑いながら、コルセットのリボンも無理矢理引きちぎり、あっという間にへその下あたりまで、肌の中央が顕になった。
割かれたドレスの鋭角に、月の光が肌を白く浮かばせる。その艶めかしさに視線を外せないでいたクライヴは、ハッとなって顔を背けながら、剣を持たない方の腕で突きつけるように、脱いだローブを差し出した。
だが、ルシアがそれを受け取る気配はなく、優しく諭すような声だけが返ってきた。
「駄目よ、クライヴ。 愛しているのなら、見て」
「……誰かに見られる。 早くこれを」
「──来ないわ、誰も」
突如ルシアの声色が怒気の篭ったものに変わり、クライヴはおもわず顔を上げた。
「来ないわ。 そうでしょ? クライヴ」
視線は肌よりもまず、ルシアの瞳に釘付けになっていた。
ダンスのステップを踏むように軽やかに、ルシアはふわりと少し後ろに下がる。そして、唇が弧を描く顔から、全身とクライヴの瞳の映す彼女の範囲が広がるように、彼の胸の不穏な音も広がっていく。
「クライヴ」
声色は優しいものに戻っていたが、クライヴの肩は先程より強く震える。
「あの日、貴方はお父様になんて聞いて、あの日、レミリアになんて言ったの?」
あの日が指すのはそれぞれ別の日だが、意図は同じ。クライヴはその言葉に血色を失った。
「……まさか」
「答えて、クライヴ」
「──ルシアは、純潔だ、と」
「そう。 他には?」
「っ……君の、思っているようなことは、なかった、と……!!」
たとえそれが嘘でも、クライヴの気持ちは変わらない。いや、むしろもっとルシアを想うようになっただろう。
ただ、それが嘘ならば、彼女にもっと違った対応をした筈だ。やはり上手くいかないにしても。
今までとは違う、後悔と憤怒──だが、
「クライヴ、それはその通りよ」
「え……」
ルシアは意外にも、それを肯定した。
ただし、『言葉通りの意味ならば』。
「あの人が私にしたことは、そんなことじゃないの」
『処女』であれば、『純潔』と言うのなら……性的に身体を奪われることが『穢された』と言うのであれば、ルシアは穢されてなんかいない。
クライヴが、そしてレミリアが想像したようなことは、確かになかったのだから。
「ルシア……」
「──だからなんだというの?」
ルシアは割いたドレスに手を掛けた。
彼女の滑らかな上半身全てが顕になると、クライヴは咄嗟に俯いて見ないようにする。
「ちゃんと見て、クライヴ」
しかしルシアは、それを許さなかった。
「シュナイダーは見たわ、私の生まれたままの姿を」
「……!」
★★★
「やめて、おにいさま……!」
いつの間にか全裸にされ、術式を用いて縛られ、神殿に立たされていた11のルシアは、羞恥と恐怖に震えながらそう訴えた。身体を隠したいのに、動かすことができない。
シュナイダーに不安を煽られ、唆されたとはいえ、ふたりで出掛ける判断をしたのはルシア自身。それは、彼と紡いだそれなりの期間で培った信頼からだった。『愚かだった』と悔いるよりも『どうして』という疑問と、信じたくない気持ち。それを否定する現実に、涙が止まらない。
この時ルシアはまだ初潮を迎えていなかったが、もうあってもいい歳だ。当然男女の身体の違いや、そういうことも教わっている。その知識が恐怖として過ぎる中、無意識で『おにいさま』と強調していた。
普段剣を持たないシュナイダーの、滑らかな細く長い指が近付き、ルシアは震える身体を一際大きく揺らす。その手は予想に反し、ルシアの頭をそっと撫でるだけ──シュナイダーは苦笑しながら、優しく言った。
「怖がらせてごめんね、ルシア。 でも心配しなくていい、 今まで一度だって君をそういう目で見たことはなかっただろう? 僕は『おにいさま』だよ、これからもね」
だが、それで恐怖や羞恥がなくなる筈もない。湧き上がる違う類の恐怖に、背筋が凍る。
──ならば、これから一体、なにをされるのか。
シュナイダーは小さな刀を取り出すと、美しく装飾の施された鞘から抜く。ルシアは「ひっ」と小さく叫び声を漏らした。
「媒介にするのに僕の血じゃまずいんだ。 僕に囚われるのは、本意じゃないから。 少しだけ我慢して」
そう言って、ルシアの身体にメスを入れるように、表面にほんの僅かな傷を付ける。
その傷は浅く、範囲はナイフの切っ先ほど。
「ッ!」
ヒヤリ、とした感触だけで特に痛みを感じなかったのは、恐怖からか。
その血を掬い、小さな図案を描くシュナイダーの細い指先が、ルシアの腹をぬるぬると滑っていく。
「ルシア、これが成功すれば、君は次代の女王になる。 本来──」
シュナイダーはやや興奮気味に、ルシアになにかを説明したが、そもそも公爵家について何も知らない彼女の理解の範疇を超えていたし、恐怖と肌に触れる指の不快感で、殆どマトモに聞くことすらままならなかった。




