⑳ふたりの『おにいさま』。
シュナイダーはルシアに新しい家庭教師として紹介された後、少しだけ勉強を見て初対面を終えた。
報告の為にベンジャミンの前に訪れた彼はこう言った。
「お嬢様はとても優秀であらせられます。 懸命な努力は勿論あったのでしょうが、詰め込まれた高度な教育にも関わらず、きちんとついてこられた御様子。 ですがきっとお嬢様は、別邸での生活にお疲れのことでしょう。 それに、家庭教師への不信もあるかと存じます」
──と。そしてシュナイダーはこう主張する。
『だから教育の前に、彼女との信頼関係をゆっくり構築したい。』
『ガウェイン公爵家のこと以外は、十二分に学んだのだから、焦ることはない。』
それは正しく、ルシアを慮っているように思われた。
「シュナイダー先生……」
シュナイダーは膝を曲げ、幼い子供にするようにルシアと目線を合わせた。
「お嬢様、クライヴ卿はどうしていいかわからないでおられるのですよ」
「……そうなのですか?」
「ええ」
その声は温かく、泣きそうなルシアを元気づけるように、ゆっくりとした口調で。
シュナイダーが家庭教師として任に着いてから、この時はまだ僅かだが、いつも彼はルシアに優しかった。周囲がそう思うだけでなく、ルシアが誰よりもそう感じていた。
少しだけ勉強をしては、ルシアの優秀さや勤勉さを褒め、今までの努力を肯定してくれた。そして、散歩やお茶などの時間をたっぷりと取ってくれる。話してくれることは多岐に渡り、時折冗談も織り交ぜて、退屈させない。
家庭教師と身構えていたルシアも、少しずつだが確実に、彼に心を開いていた。
「こんな可愛い妹ができたら、誰でも戸惑ってしまいますよ」
だからルシアも、彼の言葉を疑いもしなかった。
「──ああ、羨ましい。 僕も『おにいさま』と呼ばれたいなぁ」
「まあ」
冗談めかして言うシュナイダーに、ルシアはまだ幼い瞳を丸くさせた。きっと、慰めてくれているのだろう、そう思って。
だからルシアは冗談に乗ることにして、笑顔で返した。
「『先生』でなくてもいいのですか?」
「『先生』も素敵ですが、『おにいさま』はもっと素敵ですね」
「あら、じゃあこれからは『おにいさま』と」
『おにいさま』と呼ぶのに、躊躇いは特になかった。彼も『分家のおにいさま』であることに変わりはないのだから。
「非常に嬉しいのですが、流石に怒られてしまいます」
困った顔を向けるシュナイダーだが、クライヴとは違いそもそも冗談と思っていたルシアだ。特に傷付くことも無く、話はそれで終わると思っていた。だが──
「……もしお嬢様さえよければ、ふたりの時だけの、内緒の呼び方にして頂けますか?」
彼は唇に人差し指を添えて微笑み、こう続けた。
ルシアはクライヴに、なにかよくわからない特別な気持ちを抱いていて……それはシュナイダーに対する単純な好感とは質も重さもまるで違うけれど……
彼の提案は、純粋に、嬉しかった。
「うふふ、内緒の『おにいさま』、ですね?」
「ええ。『おにいさま』なのだから、僕に敬語は要りませんよ」
「じゃあ私も、『ルシア』と」
「それは光栄だ! じゃあ……ふたりの時だけ」
その後シュナイダーは、事ある毎に『おにいさま』を出してきたが、それは常に優しさに溢れ、ルシアを気遣うものばかりに思えた。
「『おにいさま』に話してごらんなさい、ルシア」
親しみを込めて互いを呼ぶ行為、くだけた会話、そして──秘密の共有。
こうしてふたりは距離を縮めていった。
本当の兄妹のように。
★★★
クライヴとルシアが仲睦まじい様子で帰ってきたことに、レミリアは驚いた。
ちなみにローズメリアも驚いてはいたが、レミリアとは全く違う。事情を知らず、パニックになっていたルシアを颯爽と運んだ人、程度にクライヴを認識している彼女は、驚きながらも「気持ちが通じ合ったのね……」くらいにしか思ってはいない。
しかもローズメリアにとって、ルシアはツンデレお嬢様だ。すれ違っていたとしても、それは彼女の中でそこまで不思議なことではなかった。
「何があったのですかね~」
レミリアとスヴェンとはまた違うタイプの、ロマンスの似合う麗しい見目のふたり。友人同士の恋愛話の、おこぼれに預かりたい侍女は、ソワソワしながらレミリアの顔色を窺った。
「ふふ、駄目よ。 ローズメリアはちゃんとお仕事をしないと」
そうローズメリアを窘めるレミリアも、驚きはしたが嬉しかった。
複雑な事情の殆どはわからないが、クライヴの想いの深さは感じていた。ふたりになって話し合うことができれば、もしかしたら……という期待もなくはなかったから。
ふたりが寄り添い、笑っている。
レミリアはそれに安堵し喜んだが、ふたりを眺めていると、ほんの少し……違和感。
それを気にし出すと、『今まで拗れに拗れていた関係が、そんなに簡単に解れるものなのか』と疑問に思えてくる。初めから拒絶の色を見せているルシアは勿論、クライヴも『滅多に会うことが叶わなかった』と語っていた。
なのに、ふたりの距離感は不自然に近過ぎる。
それにクライヴの方は、とても甘い表情をしているのに、ルシアは笑顔でいるものの、それは夜会でスヴェンにエスコートされていた時のような、貼り付けた笑顔に見えた。
(ルシアちゃん……?)
ルシアはレミリアにも笑顔を向けたが、戻るとすぐ「少しまだ調子が悪いみたい」と早々に部屋に行ってしまい、食事も要らないという。
本当に具合がいまひとつなのかもしれないし、ふたりが上手くいったとしても、あれだけ拗れていた様子だったのだ。割り切れない部分もあるのかもしれない。
(だとしたら、違和感もおかしくないわ……でも……)
レミリアは少し様子を見てから、聞けるタイミングで、恋愛話を聞くような感じで聞いてみることにした。
部屋に戻り、早々に寝間着に着替えたルシアは、『お目覚めになった時に』と用意してくれた軽食と飲み物への礼を言い、すぐにローズメリアを下がらせた。
完全に一人になったルシアは、隠れるようにベッドに潜り込み、声を殺して慟哭した。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
相反する気持ちに心が悲鳴をあげていた。
こんなことしたくないのに、衝動が抑えられない。
クライヴが優しい度、向けるべきではない苛立ちと、憎悪が湧き上がる。
もしも、レミリアに話せていたならまた違ったかもしれないが、彼女には話せなかった。
心の内を吐露するのに、時間が足りなかったわけではない。短い時間だが、ルシアはレミリアに十二分に信頼と情を寄せていた。クライヴにもベンジャミンにも抱いていた気持ちを、捨てられなかったものを、もうレミリアにも抱いている。
だからこそ、言いたくなかった。
──『嫌われたくない』
だからクライヴ達と一緒にいれなかったように、レミリアへルシアが心の内を話すことはない。子供が、いや時に大人でも、保身の為に嘘を吐き続けるように。
そしてルシアのクライヴへのそんな気持ちも、拒むという矛盾した行動を以て留まっていた筈だった。
だが彼の気持ちを知ったことで、蓄積された負の感情の澱は、受け皿を見つけて一気に流れてしまった。
──性急過ぎたのだ。
クライヴが思っているよりも、それはずっと重く、ルシアの心を蝕んでいた。




