②終わってしまえばいい。
いい子にしていないからなんでこんなこともできないのですかルシアは悪い子だ
──うるさい
ずっとひとりでそうしていなさい誰もわかってなんかくれないよ食事は抜きですからね
──うるさい
君は皆から嫌われているんだから困らせるんじゃないその呼び方はやめろ
──うるさい
誰もキミのことなんて信じないなんて我儘な
──うるさ
「──ッ!!」
身体中、汗まみれの不快さで目覚める深夜。
心臓がまるで、走った後みたいに強く速く脈打つ。どくどくとなるその音は、汗に塗れた肌と相成ってまるで血を流しているよう。気持ちが悪い。
ルシアは時折、あの頃の事を夢に見る。
悪意のあるなしに関わらず、かつてルシアを傷付けた数々の言葉は、時系列や状況などお構い無しに無造作に投げつけられる。それは、重なっているのにどれもハッキリと聞こえ、半ば強制的に悲しい、辛いことばかりを連鎖して思い出させられた。
ルシアは父に疎まれていると思っている。
だが、それは事実ではない。
ガヴェイン公爵であるルシアの父ベンジャミンは、隣国の末の姫だった妻ソニアをとても愛していた。
彼女はもともと身体が弱く、娘を産むと直ぐに儚くなってしまったが、ベンジャミンはルシアを疎んだことはない。最愛の妻が命を掛けて生んでくれた娘……愛しくないわけがなかった。
しかし、早くに両親を亡くし若くして公爵になったベンジャミンは、仕事の忙しさと愛する妻の死にルシアを顧みる余裕がなかったのだ。それでも古い家人は、寝入ったルシアの頬を愛おしげに撫でる主を知っている。
父、ベンジャミンの愛情をルシアはわかってはいない。だが父は忙しく、それはとても仕方の無いことだというのはもう、とっくの昔に理解していた。
(でも、)
──どうして助けてくれなかったの。
父を責めたことは無い。だが責める気持ちは今でも心の奥に燻っている。
★★★
ルシアがまだ物心ついて間もない5歳の頃。
「いや! おとうさまといっしょがいい!!」
「ルシア……」
古く広大な公爵邸は、補強と改装の工事を徐々に行っていた。それが本館のルシアの私室あたりになった為、まだ幼いルシアは危険なので別邸へと居住を移動させられた。
まともに会えなかったふたりだが、当時のベンジャミンはまだ、自分がきちんと娘へと愛情を注げている自信があり、ルシアも幼く我儘だった。それ故、躊躇なくルシアを抱き締めることができた。
「……お父様も寂しいんだ。 少しの間、我慢してくれないか」
「…………うん」
この時も、父は娘を抱き締めて宥めた。
我儘だったルシアが不承不承それに従ったのは、どうしようもないという理解だけでなく、不安なりに愛情を感じ取っていたからだろう。
綻びの始まりがいつだったかなんて、ルシアにはわからない。記憶している自身のきっかけは、悪意ある侍女の一言。
「旦那様はお嬢様と会いたくないのでしょう」
当時、仕える家人の多くは男性で年老いており、本邸へと残されていたので新しく侍女を雇い入れていた。
ソニアが隣国の末姫であることと、ベンジャミンの両親が他界していたことも良くなかった。──ルシアの養育について、いいアドバイスやフォローができるような人間がいなかったのである。別邸の警備は万全なものの、侍女の選定は甘かった。
滅多に父には会うことが叶わなかったが、慣れ親しんだ執事や乳母が祖父母のように甘やかしてくれていた環境から突然引き離されたルシアは、度々癇癪を起こした。
それが若い侍女には疎ましかったのだろう。
「いい子にしていれば」から始まった幼子を宥める言葉は、『娘を生んで死んだ公爵の愛妻』という事実から発生した歪んだ噂と共にゆっくりと悪いかたちへと変化していった。
そしてそれは、教育の開始される時期でもあった。
分家の勧めによって付けられた家庭教師とルシアとの相性は非常に悪かった。
四角四面で融通の利かない教師は、ルシアの生来の性格に合わせて授業を行うことができず、集中力が続かないことを詰られながら授業は延々行われた。
ベンジャミンへの報告書にはルシアが『非常に不真面目である』との旨で、『甘やかしていたことが原因だ』と謗られ、後妻を勧められたり古参の家人の解雇を迫られたりし……結果、その対応という仕事が更に増えてしまった。
ルシアの身に起こっている、本当のことを──そして、これから彼女の身に起こる酷い出来事も知らずに。
本邸の工事が一部終わり、ルシアは7歳になっていた。
「お父様、ただいま戻りました」
その頃にはすっかり娘らしくなり、滑舌も良く喋るようになっていたルシアを、ベンジャミンは抱き締めることができなかった。
淑女にはみだりに触れたりしないもの……父娘であれ、異性ということを気にせず抱き締められる程、ふたりは近い距離感にない。ましてや2年の間にさして変わらぬベンジャミンと違い、子供の成長は著しい。
半年程会えずにいたうちに、ルシアの身長は急激に伸びていた。
別邸で付いた家庭教師は厳しく、侍女の態度も悪かったので、時に食事を抜かれたりすることもあったが、栄養価は高かった。公爵家の任については後に詳しく語るが、ガヴェイン公爵家軍の備蓄の為の場所が別邸であり、最も警備の厳しい場所である。だからこそルシアはここに送られたのだ。
ルシアは身の丈に合わない量の勉強を、必死でこなした。
『いい子になれば父に愛される』──そう思って。
「……疲れただろう、部屋は用意できている。 今日はゆっくり休みなさい」
彼はもともと不器用で寡黙な男だ。ルシアの期待とは裏腹に、態度も見た目も大人びた娘をベンジャミンは相応の態度で迎えてしまった。
ルシアの見た目や所作は大人びていても、中身は子供……父の言葉や表情のみに気遣いと愛情を感じることはできなかった。
期待していたことも大きく、努力した諸々はこの時崩れてしまった。代わりに浮かんでくるのは、悪意ある言葉の正しさ。
ルシアのその悲しみや絶望が、ベンジャミンに伝わることはない。
『感情を表に出してはならない』と厳しく言われていたから。
──ただ、ここは本邸である。
「旦那様はお嬢様が戻られるのをそれはもう、楽しみにしておられました」
「ご立派に成長されて、私達も嬉しいです」
そんな家人の言葉に、『大丈夫』『愛されている』とこの時はまだ思い直せた。
だがこのちょっとしたすれ違いが、徐々に大きな誤解と溝を生む。──いや、そう仕組まれたのだ。
★★★
ルシアはこんな夜、ベッドの中で膝を抱え、子供のように縮こまり、自分の体温と鼓動に集中する。
頭まで布団を被って。
世界にただ一人のような気分。
全身を包む温もりの緩やかな安心感と共に、ようやく再び眠りにつくことができるのだ。
──全てが夢でないなら、このまま終わってしまえばいいのに。