⑲公爵令嬢は許せない。
はにかんだあと、クライヴは照れくさそうに手を差し出した。もう人混みではなく、手を繋ぐ理由はない。ただ……繋げたらいいな、という気持ちで。
そんな表情も見たことのないルシアは困惑したまま、流れで手を取ってしまった。彼女が「そういえば繋ぐ必要はないな」と気付くのは、もう少し後のことだ。
「……」
「……」
ふたりは手を繋ぎ、無言のまま歩いた。
柔らかな風が頬を撫で、溜池を利用する為に造られた用水路の水面が揺れる。昼下がりの穏やかな陽射しを反射して、キラキラと輝きながら。
「ルシア」
ルシアが手を繋ぐ意味が無いことに気付いた頃、沈黙と緊張に耐えかねたクライヴが先に口を開いた。
「…………その……つ、疲れてないか?」
「……いえ?」
なにかを話そうと思ったものの、気の利いた言葉も浮かばずにそう尋ねる。それがあまりにも間が抜けていたため、つい返事をしてしまったルシアは、話す気がなかったクライヴに自ら話し掛けた。
「おにいさまは……なにをしにここへ?」
それは、どこを指しているのかが些か不明瞭だったが、クライヴはそれについて尋ねなかった。
「──…………君と」
クライヴが王都まで来たのも、侯爵邸に来たのも、今ここにいるのも、答えは全部同じだから。
「君と、一緒にいたくて」
「──」
ルシアは頭が真っ白になって、咄嗟に繋がれたクライヴの手から逃れるように手を離した。
──なんで?
なんで今更?
彼は悪くない……ルシアはわかっていた。
だから、許せない自分が悪い。
だけど、許せないから──
辛い記憶は時間の経過と共に薄れてはいかず、一人そこに取り残されたルシアは、もうなにもしたくなかった。
あの時に囚われているのは自分だけ。
──それが、許せないのに。
(『一緒にいたい』ですって?)
それをぶつけるのはあまりに理不尽だとわかっているから、一緒にいたくないのに。一緒にいられなかったのに。
『なにが悪いかわからなきゃ、向こうだって謝りようがないじゃないですか。』
(……わかるわけがないのよ)
そうだ、わかるわけがない。
皆それぞれ、時を進めている。
あの時に囚われているのは、自分だけなのだから。
それが正しくないと感じながらも、抜け出す為に抗うような、気力もなく──
だからルシアはなにもしなかった。
その根底にある気持ちには、蓋をしたままで気付かないフリをして。
気付かないフリをして、閉じたままにしておけば、これ以上理不尽な憤りを抱くことはないから。
(わかるわけ……ないじゃない!)
それをこじ開けようとするクライヴが憎いと思った。
──嫌だ。
そう思いながらも、理不尽な憤りに飲まれていくのを感じる。彼は悪くない──でも、許せないのだ。
腹の底から湧き上がるような、黒い靄のような感情に、全身が覆い尽くされていく。
「ルシア……?」
動揺と、困惑……そして気遣い。
それらはクライヴの頼りなげな声からありありと感じられ、ルシアの中に先程まであった煮え滾るような怒りが一気に、すうっと冷めていく。
「……おにいさま」
俯いていた顔を上げ、ルシアはニコリと笑いかけた。
「ごめんなさい、驚いてしまって」
「そう、か」
ルシアの表情と態度の変化にやや腑に落ちないものを感じながらも、ようやく取り出すことのできた初恋の熱に浮かされていたクライヴは、その違和感よりも、安堵とときめきが勝ってしまっていた。
「……もう一度、手を繋いでも?」
「ええ、勿論」
遠慮がちに差し出されたクライヴの手に、笑顔で答え、応じたルシアは、自ら指を絡めた。クライヴはそれに少し動揺し、頬に朱が差す。
ルシアはそんなクライヴを冷めた気持ちで眺めていた。
──ああ、どうしようもなく今、私はこの人を傷付けてやりたい。
怒りは、無くなった訳ではない。
変化しただけだ。
私がされたように優しくして、土壇場で酷いことを言ったら、彼はどんな表情をするだろう。少しは私の気持ちをわかってくれるだろうか。
聞き分け良くなにもかも終わったフリをしたあとで、あてつけに本当に終わらせてしまったら、彼は泣くのだろうか。
溢れるようにそんな思いが占める中で、僅かに冷静な自分もいた。それは彼女の中で警鐘を鳴らすような激しいものではない。『そんなことをしたって何も変わらないのに』という、静かな諦念。
悪いのは彼じゃなく、先に進もうとしない自分だ……だとしても、許せないなら、もういいじゃないか。
なにもしなくていい。全てを遠ざけて、閉じこもってしまえば、それで。
──今ならまだ。
ルシアは長い睫毛を伏せ、葛藤に絡めた指先を緩める。
するとクライヴの方が少しだけ、手に力を込めた。込められていたのは力だけでなく、クライヴの切実な想い。
「ルシア……その、」
今度こそ、ルシアの手が離れてしまわないように。
今度こそ、伝えたい事を。
「『おにいさま』じゃなく──『クライヴ』と、そう呼んでくれないだろうか?」
「──え……」
「ずっと……そうして欲しかったんだ」
顔を赤くしながらも、真剣な眼差しでそう言うと、絞り出すように続けた。
「あの時は子供で……上手く言えなくて、ごめん……」
視線にも声にも滲む、クライヴの後悔の念に、ルシアは泣きそうな笑顔をクライヴに向ける。
事実、泣きそうだった。
──『その呼び方はやめろ』
──『俺は君の兄じゃない』
拒絶されたと思っていた、あの日の彼の言葉。その真意を知り、ルシアの葛藤は消えた。
(だって……距離を変えたのは、彼の方だわ)
あの時も、今も。
緩めた指先に力を込めて、彼の手を握り返した。
「……貴方は悪くないわ、クライヴ」
──でも、許せないの。
★★★
「──ルシアお嬢様?」
三度目の再会を果たしたあと、なかなか会えないクライヴに会いたくて、ルシアは彼が鍛錬を行っている場に行った。だがクライヴは、自尊心と照れ臭さから上手く言葉を紡げないまま……ルシアに背を向けてどこかに行ってしまった。
その時に出たのが先の言葉だ。
クライヴは知らないが、ルシアは別邸で分家のお嬢様に嫌われていた、というのは前にも記した通り。
クライヴとルシアが出掛けたことを当然知っていた娘は、ルシアが窓の向こうに誰を探しているのかも理解していた。そして、いくら嫌っていても『本家のお姫様』に表立って意地悪など出来ないことも。
なので娘は、ルシアに会う度に「クライヴはルシア様のせいで、ここにこれなくなったんですよ」とか、「クライヴはルシア様が嫌で遠くに行ったんですよ」などの言葉を投げ付けていた。
ルシアが『信じない』と言いながらも、それに傷付いた顔をするのが面白くて、何度も、何度も。
呆然と立ち竦むルシアに優しく声を掛け、慰めたのが家庭教師の男──シュナイダー・ハリーズである。




