⑰変わらないものなんて、
クライヴが二度目にルシアに会った時、彼女は泣いていた。
それはクライヴが、警備に当たっていた兄の忘れ物を持ってきた日。涙で顔中を濡らした彼女は庭の茂みに隠れて、小さな身体をより縮こまらせて。
当時、別邸を管理していた分家には、クライヴと同い年の娘がいた。それもここにルシアを連れてきた理由のひとつだったが、娘は愛らしく、自分より立場が上のルシアが最初から嫌いだった。まだ年端もいかぬ娘……これは本家に不満を抱いていた親の影響も大きい。だが、娘と仲良くなれなかったことで、ルシアの別邸での立場の悪さは増した。流石にそれでわかりやすく待遇が酷くなることはなかったが、娘と反りの合わぬルシアを家族の輪の中に入れるようなことをわざわざする気にはならなかった。ただしこれは当時の別邸の当主が、物理的な面と教育以外でルシアに心を割かなかった要因のひとつに過ぎないが。
ルシアがいくら本家のお姫様とはいえ、侍女達にはあまり関係がない。別邸のお嬢様の嫌う、預かり者である。
物理的な面から察するに、わかりやすく粗雑には扱えないが、そうとわからないようになら、いい加減に扱っていい相手だ。
別邸に来たばかりで、ただでさえ心細いのに侍女は構ってくれず、厳しい勉強ばかり。特にマナー講師の女は、ルシアに必要以上に厳しくあたっていた。
彼女が席を立った隙に、ルシアは逃げ出した。
小さな身体や侍女の関心のなさが功を奏したのか、まだ気付かれてはおらず騒ぎになってはいない。どうしたものかと思ったが、クライヴは家へ連れていくことにした。
ホーエンハイム邸は、別邸のすぐ隣。
顔も周知されているクライヴは、門番に訳を簡単に話しただけでルシアを連れて外に出ることが出来た。
慣れない環境に放り込まれることになった幼子に憐憫の情を抱くものは、当時もその後もそれなりにいた。
上の取り決めに逆らう程ではないが、この時はまだ、ルシアへの監視が厳しくなかった……というのもある。
ホーエンハイム邸で休ませていたルシアだったが街へ出たがった。
父と来た日以来、ルシアは街どころか、邸内を自由に行き来することすらままならなかった。ルシアのたどたどしい話でもそれは察することができ……クライヴは悩んだ末、ルシアを連れ出してしまった。
結果だけ見ると、このことがきっかけで、警備担当のホーエンハイムは別邸管理を任された分家のやり方に口出しすることができなくなり、ルシアへの監視が厳しくなってしまった。
「……大丈夫、俺が……近くにいるから」
最後に行った丘で、クライヴがあの時、夕焼けを見ながらルシアに言った言葉に、嘘はなかった。
あまりにカッコつけたそれは、口にするのはとても恥ずかしくて──でも少しでも、安心して欲しかったから……だから口にした、幼いなりの、騎士の誓い。
それを守れなかったのは、怒られたからではない。
その後すぐに彼は、『当主を継ぐもの』として本邸へと迎え入れられてしまったのだ。
皮肉にも、ルシアの監視の強化と同様にこれも、クライヴがルシアを慮ったからこそ。
このことをきっかけにルシアが前以上にクライヴに懐いたこともあり、暫定的に決まっていたことが『ルシアの婿』としての側面から、彼なら間違いない、と判断が早められたのだ。
★★★
「ルシアちゃん、あまり食が進んでないみたいだけど?」
あのあとルシアはやはり、魔道具屋の店主に言われたことを考えてしまっていた。
「……なんでもないわ。 そうね、ただ……あの店の香が合わなかったのかも」
あの店の、特に男から香る匂いが嫌だった。
父と同じ匂いがする。それはあまりにも数少なく、覚えていないと思っていた、抱き締められた時の父の匂いと同じ匂いだ。
──いい思い出は、思い出したくない思い出と、まるで対のようになってしまった。
もしも、『時を遡る魔法』が使えたとして……
もしも、いつかに還ってやり直すことができたとして……
果たしてその気持ちは、消えて無くなるものなのだろうか。
いい思い出を思い出す度に、嫌な記憶も甦るのに。その度にいい思い出まで穢された気がして、悲しくなってしまうのに。
知らぬ間にそんなことを考えてしまうことが、腹立たしくて気持ちが悪い。
あまりに胃がムカムカして、ルシアは「先に戻った方がいい」というレミリアの勧めに従うことにした。
クライヴに送られると、理解しながらも。
──いや、理解しているからこそだ。
ルシアの脳内にローズメリアが言っていた言葉が過ぎる。
『 許せないなら言わないと駄目ですよ。』
(……無理よ、そんなの)
『悲劇のヒロインぶってて狡いです!』
(だって……嫌なの)
今だって、自分ではなにもできない。
レミリアが言うのに従っただけ、という建前がなければ、クライヴには近付く気すらなかったのだから。
「ルシア」
「……」
差し出された手を、無言で取る。
あの日と同じ様に、こちらの歩調を気にしながらも少し前を歩く、クライヴの背中。
違うのはその背中の広さと、クライヴの手の大きさだろうか。
(でも、あの時も差はこんなものだったわ)
──彼は悪くない。
なら、あの頃と変わらないものもあるのかもしれなかった。
(……馬鹿ね)
ルシアは僅かに首を振り、視線を落とす。
変わらないものなんて、ないのだ。
ただのひとつも。
★★★
本邸へと迎え入れられたクライヴと、ルシアが再会した時が、ふたりの三度目の出会い。
泣いているルシアと会い、『自分が彼女を守る』と決意したクライヴは、厳しい練習や勉強にも真剣に向かった。
一方で、ルシアの方もクライヴと出掛けた日から自由度は更に減ったが、表立って泣いたり、泣き言を言うのを止めた。
庭から眺める景色の中に、クライヴを探しても、いつも見つけられることはなかったけれど。
時に女児の方が早く成長が見られるように、7歳になっていたルシアもまた、身体の変化が著しかった。
ただでさえ子供は、一年で目に見えて成長するものだ。二年という月日を経たことや、ルシアは5歳の頃平均より大分小柄だった、という部分もある。
以前にベンジャミンが抱き締めるのを躊躇ったことに触れたとおり、ルシアは非常に女の子らしくなっており、振る舞いも淑女のそれだった。
「お久しぶりです、クライヴおにいさま」
そう美しくカーテシーをしたルシアに、クライヴは平静を装ったが、内心酷く動揺した。
そこにいるのは美しく、気高い空気を纏った少女。
妹のように思い、彼女の為に頑張ってきた自分だったが……
(まるで釣り合わない)
『妹』として見ていた筈の彼女への矛盾した気持ちと、高鳴る胸の初めての響きと、自分が必死でしてきた努力など取るに足らなかったと思い知らされたような気分で──クライヴの気持ちは激しく乱れた。
どうしていいかわからず、クライヴはルシアを避けた。
恥ずかしくてみっともなくて、真っ直ぐに見ることが出来なかったから。
それは、幼く可愛いらしい初恋──邪魔する者がなければ、ただそれだけに過ぎなかった筈の。




