①婚約解消にもなにもしない。
「失礼致します」
恭しい様子で侍女が入ってくるが、これがポーズなのをルシアは知っている。何故なら侍女の持ってくる洗顔用の水は、いつも氷の様に冷たいのである。
公爵令嬢であるルシア・ガヴェインとスヴェン第二王子殿下の婚約は、宮廷の勢力問題から成された。王子妃教育の為に王宮に召されてからまだひと月程だが……つまらない小さな嫌がらせは、毎日続いている。
スヴェンには想い合う相手がいる。
宰相の愛娘でありスヴェンの幼馴染みでもある、同い歳の侯爵令嬢……レミリア・ハーグナー嬢だ。
幼少期に母を亡くしたレミリアを気遣い、王宮に呼ばれる度に父である宰相は娘を伴って訪れていた。無論、許可を得て。
そこでふたりは出会い、恋に落ちた。
見目麗しく愛らしいふたりの恋愛は、王宮で微笑ましく見守られていたようだ。
後から割って入ることになったルシアは、まるで悪女であるかのように言われている。
そして、そんな王宮の噂を信じているのか、婚約者であるスヴェンが一度も挨拶に来ないこともそれに拍車をかけており、日に日に侍女達の態度は悪くなっていった。
ルシアは、爪の先、毛の先程もそれを気にしなかった。──否。腹の中は煮えくり返っていたが、気にしない素振りでいた。
彼女に貴族の矜恃や自尊心はない。そんなもの、とうに捨てた。少なくとも、ルシア自身はそう思っている。
どうしても捨てられないモノには蓋をして。
だが、彼女は知っていた。
自分が無力であることを。
だから彼女がそうするのは家の為や体面の問題ではない。無駄だからだ。
自分は無力だから、自分ではなにもしない。
できる奴がやればいいことは、できる奴にやらせるべきだ。
「お嬢様、第二王子殿下がお見えです」
漸く顔を出したスヴェンは、ぎこちない笑顔でルシアをお茶に誘った。
スヴェンは王立学園に通っている。レミリアもだ。ひとつ年下のルシアも、王子妃教育がなければ通っている年齢ではある。
レミリアはルシアがスヴェンの婚約者になると、王宮には顔を見せなくなった。
彼女はスヴェンの幼馴染みという近しい間柄ではあるものの、貴族令嬢としての自覚もきちんと持っていた。ふたりの婚約の意味も、自身の立場も理解し、弁えている。
学園でも恋心には蓋をし、彼に距離を置いているようだ。
スヴェンがルシアを誘ったのも、レミリアに諭されたのだろう。
ルシアはそれがとても不愉快だった。
──日当たりのいい庭園に面したバルコニーで、お茶を楽しむつもりのスヴェンだったが。
丁寧に挨拶をしたきり、ずっとつまらなそうなルシアにスヴェンはしきりに話し掛けたが、彼女は相槌を打つだけ。
徐々に苛立ちを隠せなくなってきたスヴェンに、ルシアは今更のように笑顔を向け、口を開いた。
「第二王子殿下はいつも麗しくてらっしゃいますね。 やはり洗顔は氷のように冷たいお水で?」
「……なんだと?」
「王宮に来てから初めてですわ。 成程、あのように痺れるような冷たい水で顔を洗うのが、美容の秘訣なのでしょうね」
「──」
意味するところに気付いたスヴェンが、音を立てて席を立ち近くの侍女を見ると、青ざめた顔──
「お前達……」
「第二王子殿下」
侍女に問い詰めようとしたスヴェンを、ルシアは冷たい声で制した。
「本日は久方ぶりのお目通り、大変光栄にございました」
「……ッ!」
お前も同じだ。
その言葉はそう暗に告げていた。
「──すまない。 他にもなにかあるなら言って欲しい」
スヴェンは少し短絡的なところはあるものの、自身を省みれない程には愚かではない。
レミリアへの恋心は断ち切れず、些か盲目的ではある。だが、幸いそのレミリアは『王侯貴族として、自分達は正しい判断をすべきだ』とスヴェンに諭してくれていた。
ルシアへの仕打ちは、自分の態度が招いたもの──これからは婚約者として、彼女と良い関係を構築しなければならない。
「まあ、謝罪なさることなどございました? ですが、お言葉に甘えてひとつ質問しても?」
「なんだ?」
「殿下は私になにをお求めですか?」
その質問にスヴェンは困惑した。
まだ怒っているのだろうが、意図するところが見えない。
「……はっきりと言って貰えないだろうか。 言い難いことだとしても、不敬には問わない」
「私と殿下は政略的な思惑から婚約を結ばされました。 ですからハーグナー嬢は身を引こうと思われたのでしょう。 殿下は彼女に『婚約者に時間を割くべきだ』と言われてお茶に誘ってくださった……違いますか?」
淡々とそう尋ねると、スヴェンは苦々しい顔で「そうだ」と答える。
見抜かれていたことへの羞恥と、簡単には割り切れないレミリアへの想い……やるせなさと、ぶつけるわけにもいかない理不尽さに胃がムカムカとする。
こちらを一瞥したルシアはふっ、と嘲るように鼻で笑い、スヴェンは激昴した。
「なにが可笑しい!」
「だって、まるで被害者気取りなのですもの」
「!!」
怒鳴りつけようとしたスヴェンに怯むことなく向けられた、強いルシアの視線。それはスヴェンよりもずっと強い憤りで、怯んだのは彼の方だった。
「巻き込まれたのは私だけ。 貴方がたは当事者でしょう」
「……!」
「殿下に優しくされて私が喜ぶと思っていたのですか? 他の誰かを想う方との婚約なんて、苦痛でしかありません。 お別れの理由はまさか、私の為に、なんてことではないでしょうね? だとしたらとても不愉快だわ」
「……」
──判断が間違っていたとは思わない。
だが、確かに『巻き込まれた』のは『ルシアだけ』だ。柵に巻き込まれたのはふたりもだが、スヴェンとレミリアは恋愛の当事者ではある。一番割を食ったのは誰かなんて、考えるまでもない。
「悪かった……君の気持ちを蔑ろにした」
「謝罪は不要ですわ。 必要があるのは質問の答えの方です」
『殿下は私になにをお求めですか?』
スヴェンは答えに詰まった。
その質問に対する答えを、上手く包み、すんなりと口に出すには彼は素直過ぎたのだ。
否が応でも、自身の浅ましい側面と向き合わなければならないような答えしか、出てこなかった。
「──殿下……」
ルシアがそうゆっくりと言うと同時に、立ったままのスヴェンの頬を、風が柔らかく撫でる。
「心に正しいことをなさりたいなら、出来ることは別にある筈です」
雲間から差す陽射しが、ぼんやりと目の前のルシアの肌の上を移動するのを見るでもなく眺めながら、スヴェンは彼女に言われたことを脳内で反芻した。
心に正しいこと。
出来ることは別にある筈。
「……宮廷の勢力を変えろ、と?」
「そこまでせずとも、陛下を納得させれば良いのでは? 幸いハーグナー嬢は侯爵令嬢ですし、聡いご令嬢と聞き及んでおります」
「だが……」
それでも時間は掛かるだろう。
その間、ルシアは不本意にも婚約者でいなければならない。
心を読んだかのように、ルシアは言った。
「私にはお構いなく。 当事者ではありませんから、なにも致しません。 応援も、邪魔も……私は無力ですので。 殿下のお心次第です」
そして再び尋ねる。
『殿下は私になにをお求めですか?』と。
スヴェンはそもそもの問題である貴族間のパワーバランスをどうにかすべきであると悟り、未熟ながらも考え、調べ、裏から働き掛けた。それはスヴェンから話を聞いたレミリアも。
それで直接的になにかが変わった訳では無いが、次代まで鑑みれば違うと判断され、レミリアは婚約者となった。
どちらかというと、ふたりが力を合わせてこの先を望んだことが評価されたと言える。
その間ルシアに対してスヴェンは、それなりに婚約者として正しく扱っていた。
あの後もスヴェンがルシアに優しくすることができなかったのは、状況的なものだけではない。ルシアがそれを望んでいないことと、どうしていいかわからないという気持ちが強いからだった。
ルシアは言葉通り、なにもしなかった。
婚約者として必要な程度にしか関われなかったが、その中でスヴェンはルシアをきちんと見ていた。なにもしなかったルシアだが、肝心の王子妃教育だけは『努力しているが、できない』フリをしているように思えた。
ルシアはこの結末を望んでいるが、それはとても消極的な望みである──そうスヴェンは感じていた。
彼女には、彼女なりの利があって婚約者でいたのだと思う。
無論それは、スヴェンに対する情などではない。
──ルシアは公爵家に戻りたくないのだ。