1-8『難癖』
話は遡ること数分前。
――うっせぇなぁ。もうちっと静かに食えねぇのかよ――
皿に盛られたトマトパスタをフォークでもて遊びながら、頭をすっぽりと隠すフードを被った男は自分の地獄耳を恨めしく思った。
首元には民族的なきめ細かい刺繍の施されたオレンジ色のマフラーを撒き、使い古した灰色のロングジャケット、左腰には鉄製の鞘に納められたサーベルをぶら下げている。フードからチラリと覗く整った鼻先と端正な顎の輪郭、透き通ったような白い肌が特徴の青年である。
ヘンネフェルト城下町商業区の一角、食堂「まんぷく亭」。
街中でも繁盛している店なのだろう。六つあるテーブルは全て埋まり、店内は客の話し声と食器同士が触れ合う音で騒々しく活気に溢れている。
その中でも特に騒がしいのが青年のちょうど真向かいに当たるテーブル席を囲む一団だ。金色の派手な刺繍が目立つ見るからに高級そうなコートを羽織る、大衆食堂とは明らかに場違いな雰囲気を醸し出す貴族風な中年男。そしてそれを取り巻く下っ端と思わしき黒いサーコート姿の男たち。
酒が入った彼らは下品な笑い声をあげながら、赤らんだにやけ面で女性客やウェイトレスに視線を送り店内を物色していた。
――と。ターゲットが決まったのか、貴族風の男は舌舐めずりをしながら下っ端の黒服に小声で耳打ちをする。店内の喧騒にうんざりしていた青年の地獄耳に、聞きたくもない囁き声が飛び込んできた。
(おい、アレの準備をしろ)
(へへへ、旦那も好きですねぇ。あのエプロンの娘ですかい?)
(いいケツをしているだろう。今夜はあの娘を泣かせてやる)
――はっ、お盛んな事で――
エロ親父の標的にされたウェイトレスに同情しないでもないが、自分には全く関係のない話だ。青年はそう独り言ちて視線を戻し、目の前のパスタの攻略に取り掛かる。だが、ほどなくして彼の食事は中断された。
騒動の発端は唐突だった。貴族風の男が突然乱暴にテーブルを叩いて声を張り上げたのである。
「おい、これはどう言う事だ!! この店は虫入りのスープを食わせるのか!?」
「えっ!?」
賑やかだった店内に突然緊張感が張り詰める。中年男の尋常ではない怒声に、狼狽したウェイトレスが慌てて騒ぎの中心へ駆け寄ってくる。男が指さすテーブルの上に置かれたポタージュの中には、五センチ程の活きの良い青虫が皿の中を泳ぐように蠢いていた。
――あの野郎、やりやがった――
常識的に考えて、具の無いポタージュの中にあんな大きな青虫が入っていて店員が気づかないはずがない。となれば自ずと犯人は絞られてくる。これは自作自演――取り巻きの黒服が女性に難癖をつけるために、密かに目の前の料理に青虫を突っ込んだのだ。
怒り狂った演技をする男のあまりの剣幕に、かわいそうなくらい縮こまった店員の女性は頭を垂れ涙を浮かべて必死に謝罪する。
「も、申し訳ありませんお客様! 大至急取り替えますのでどうか……!」
「取り替えるだと? それで許されると思っているのか! このバルニエ=マルティンを貴様…バカにしているのか!?」
しばしの間静寂が支配していた店内が、彼の発言を聞いて再びざわつき始めた。
隣のテーブルの客がひそひそ声で話す内容が青年の耳に飛び込んでくる。
(マルティン? どっかで聞いたぞ…?)
(知らねぇのかよ! あのオヤジは『本国』のマルティン侯爵だ!)
(マジかよ、なんで本国の貴族サマがこんな所で食事してやがんだ?)
「お、お代は結構です! 料理も大至急お取替えいたします! ですからどうかお許しを……」
「いーや! 共和国の貴族であるワシを侮辱した罪、到底許されるものではないぞ! ちょっと来い! このワシが貴様をしつけてやろう!」
自分でやっておいて呆れるほどに見事な演技である。尚も中年貴族は罠にかかった哀れな獲物を容赦なく怒鳴りつけると、恐怖に震える彼女の手首を乱暴につかみ、店の外へと連れ出そうと強引に引っ張っていく。このまま近くの宿に連れ込み、しつけと称して彼女をいたぶるつもりなのだろう。想像しただけで胸糞悪くなる。
助けを求める彼女の悲痛な声が店内にこだました。
「い、痛いです! おやめください! 誰か……誰か助けて!!」
――だが、彼女に救いの手を差し伸べる客は一人もいなかった。それはそうだろう。相手はヘンネフェルト侯国を属国として従える『本国』ことウィルランド共和国に領地を持つ貴族サマだ。『二等国民』たるヘンネフェルト人の彼らが本国の貴族に逆らえば何をされるかわかったものではない。下手をすれば最悪首が飛ぶ羽目になるだろう。店内の客たちは皆一様に顔を背け、面倒事はごめんだとばかりに耳を塞ぐ。
――だから人間は好きになれねぇんだ――
騒動に巻き込まれるのは勘弁だが、見ちまったモンは仕方ねーだろうが。
心中でそうつぶやくと、青年は食事を諦めて席を立ち一歩踏み出した。振り払ったフードの下から出てきたのは翡翠色のボサボサ頭と、その髪の間から生える『精霊に近しい者の証』である長く尖った耳。
「おいオッサン、ちょっと待てや!」
長耳族の青年は、今夜の玩具を手に入れてほくそ笑む中年男の背中に向かって、そう叫んでいた。