1-10『報復』
「んあ? どうしてって、んなもんムカついたからに決まってんだろ」
長耳の青年は、忌々しげに舗装された地面をブーツで踏みたたいた。
既に陽は落ちて夜の闇に包まれており、柔らかな月の光と街灯のぼんやりとした薄明かりが周囲を照らしている。
逃走劇を繰り広げた袋小路奥の行き止まり、崖下の川に接した高台に二人はたどり着いていた。
ここはちょっとした公園になっており、谷底を挟んだ対岸――見上げるほどに高い切り立った崖の上に存在するヘンネフェルト城から漏れ出る明かりが確認できる。昼間であれば城と雄大な田切地形を一望できる、町内でも人気の観光スポットであるが、流石にすっかり暗くなったこの時間にはニナと青年以外人影は存在しない。
少女はベンチに腰を下ろし、膝の上に首を乗せて彼女に甘える飛竜ハルの顎を撫でながら、黙って青年の話に耳を傾けた。
「あのクソオヤジ……自分は本国の貴族だからエライだの、何やっても許されるだの威張り散らしやがって。挙句、嫌がる店の女の子を罠にはめて、無理やり連れ去ろうとしてたんだぞ」
「えっ……?」
「それに他の客も大概だよ、みんな貴族の名前にビビっちまって見て見ぬふりしやがって。だから俺様がぶっ飛ばした、それだけのこったよ」
耳を塞ぎたくなるような事件の真相に、ニナは俯いて聞き入ることしかできなかった。強大な共和国の属国であるというヘンネフェルト侯国の微妙な立場を考えれば、他の客たちの反応は十分理解できる。むしろ共和国側の横暴に対して毅然とした対応が取れないヘンネフェルト侯爵家が悪いのだ。今回の事件はまさに侯国の力の無さが招いたと言っても過言ではない。
「……で、騎士サマよ。おエラい貴族サマをボコボコにした俺は今後どうなる?」
「それは……」
言葉に詰まる。階級制度が依然残る共和国において貴族への暴行傷害は重罪だ。事件は侯国領で起きているとはいえ、流石に無罪放免という訳にはいくまい。
しかし彼の言い分も理解できる。青年がマルティン侯をあの場で止めなければ、絡まれていたウェイトレスの女性が何をされていたか分かったものではない。
もしも自分が現場に居たならばどうしただろうか? 一国を預かるヘンネフェルト侯爵家の一員であるという立場を考えれば、辞めてくれと懇願する事くらいしかできなかったのではないか。目の前の青年は侯爵家が守るべき領民を代わりに救ったのだ。領主の娘である自分にどうしてそれを非難できようか。
少女は意を決したようにベンチから立ち上がると、青年に向き直り深々と頭を垂れた。
「……ごめんなさい、本当なら侯国騎士団が対処すべき話だったのに。貴方に余計な気を遣わせてしまいました」
「おいおい、なんでお前が謝るんだよ。悪いのはあのエロオヤジだろ」
「でも……」
長耳の青年は「あーーーもう!」と頭を掻いて、右手を降ってニナの発言を中断させる。腹立たしいのは違いないが、これ以上恨み節を続けても目の前の少女に罪悪感を植え付けるだけだろう。それはこちらの意図するところではない。もういいから、と一言付け加えて頭を切り替える。今後の事を考えなくてはいけない。
「とにかく、だ。俺はどうすりゃいい? お前に大人しく捕まれば良いのか? けどそれで命を取られるってんならゴメンだぜ。その場合はお前にゃ悪いけど、やっぱ全力で逃げさせてもらう」
「私、兄さまに事情を説明してみます。兄さまは侯国騎士団の団長を務めているんです。だからきっと話を聞いてくれると……」
「――ちょっと待て」
ふいに少女の口から飛び出した情報を、青年は頭の中で整理する。
兄が騎士団の団長だって? ヘンネフェルト騎士団の団長はこの国の領主ラウド侯の長男、ユーリだと以前人づてに聞いたことがある。
という事は、その妹である目の前の鎧姿の少女の正体は――。
「お前、名前は―――」
少女にそう問いかけて―――突如青年は後ろを振り返った。彼の尋常ではない聴覚が警鐘を鳴らしたのだ。
金属製のブーツが鳴らす足音が三つ……いや、もっと多い。聞き覚えのある足音だ。しかもつい先ほど聞いたばかり。革のブーツを履いたヘンネフェルトの軽装兵のものではない。
「来やがったか……」
腰のサーベルをすらりと抜き放つと、空の鉄鞘を左手でベルトから引き抜いて逆手に握りなおす。
彼の視線の先――街灯のぼんやりとした光がギリギリ届く建物の影には複数の人影があった。黒いサーコートを身に纏い、ウィルランド共和国の国章を胸に掲げた、彼が今一番会いたくなかった一団――マルティン侯の取り巻き連中である。
「爆発音が聞こえたから来てみれば、やはり当たりか」
取り巻きの中でもリーダー格なのだろうか、中央に立つ男が顎に手をやりながら勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
ニナは青年と彼の間に割って入り、両手を広げて立ちはだかった。
「待ってください、私はニナ=アリソン=ヘンネフェルト。辺境伯ラウド=ギュンター=ヘンネフェルトの娘です。彼の身柄は私たちヘンネフェルト騎士団が預かります」
「そうはいかん。我々は共和国のバルニエ=マルティン候から直々に命を受けているのだ」
そう言いながらリーダー格の男は手下に向かって手を振り合図をする。
それに合わせるように彼と同じ格好をした五名の手下たちは一斉に散らばり、半円を描くようにニナと青年の周囲を取り囲む。背後は崖、もはや逃げ場はない。
「――邪魔をすると言われるなら、実力を行使せざるを得なくなりますが?」
「ここは共和国ではなくヘンネフェルト侯国です! 貴方たちが好き勝手にできる道理は――」
「もういい、お前は下がってろ」
尚も黒服に食い下がるニナの後ろから、青年が険のこもった眼差しで割り込んでくる。虚を突かれ困惑して振り返るニナの肩をそっと掴み、そのまま横へと優しく押しのけた。
「悪かったな。お前がこの国の姫だって言うんなら、巻き込むわけにはいかねぇよ」
「で、でも――」
納得いかない少女を諭すようにゆっくりと、しかし反論を一切許さぬ力強い口調で青年は続ける。
「これはもともと俺とこいつらの親玉との問題だ。手助けは要らねぇ」
「――――」
それ以上の問答は不要とばかりに、長耳の青年は俯くニナの前を通り過ぎ、黒サーコートの男たちの前へ足を進める。リーダー格の男は腕を組んだまま動こうとしない。そして両者は一定の距離を保ち対峙する。
「良い度胸だな。だがこれだけの人数相手に太刀打ちできるのか? 長耳の山猿が」
「魔術師なめんなよ。侯国騎士団の力なんざ借りなくとも、お前ら程度ボコボコにしてやるぜ」
「そうだな、貴様は魔術師だったな。だったら丁度良い物があるんだ」
男は手下たちに号令をかけ、背中に背負った筒状の『なにか』を抜き放ち、その先端を青年のほうへと向ける。
薄暗がりの中の為、よく確認はできないが剣や槍の類ではない、これは――。
「――銃、だと?」
「ハハハハ、そうだ! エルサーナ公国から直接輸入した最新式のマスケットだ! 魔術師狩りには最適だからな!」
「ちっ、厄介なものを持ち出しやがって、クソったれが!」
予想外の新兵器の登場に思わず口汚い言葉を吐き捨てる。
近年の技術革新により新たに開発された兵器、それがマスケット銃であった。魔術に頼らない火薬を使った先込め式の歩兵銃であり、連射こそできないものの、その貫通能力には定評があるシロモノで、北の傭兵国家エルサーナ公国などでは軍に正式採用されている装備である。標的を狙って引き金を引くという単純な操作で誰にも扱える上に、発射までの時間も魔術の詠唱より早い為、元々は対魔術師用武器として開発された経緯がある。
そんな最新兵器をいざ目の前にして、長耳の青年はこの危機的状況をどうやって切り抜けるか思案する。
熱くなるな、冷静になれ。このまま無策で闇雲に突っ込んでいっても的にされるだけ。詠唱に至っては更に間に合わない、魔術構成を編み上げる前に銃弾を撃ち込まれてお終いだ。
ではどうする? なんとか初撃を回避し、やつらが二発目を発射する前に魔術でぶっ飛ばす。それしかない。
この暗闇の中、どうやって初撃を避けるって? そんなもん知ったことか、天に運を任せるしかない――!
「お祈りはすんだのか?」
「うるせえよ、こっちは丁度今、お前らをぶちのめすとっておきの作戦を思いついたところだ」
「それは楽しみだ」
男は銃を構えたまま瞳に恍惚の光を湛え、目の前の哀れな獲物の息の根を止めるべく命令を下した。
「撃て――ッ!!」
月夜の袋小路に響く複数の銃声。
獲物を逃すまいと周囲を囲むように並び立つ黒サーコートの一団の手元が一斉に閃いた。
覚悟を決めた青年が、己の運命を天に任せ必殺の一撃を回避すべく一歩踏み出そうとした、その瞬間。
「だめ―――――ッ!!」
ほんの一瞬の出来事のはずなのに、その一瞬がスローモーションのように流れていく感覚を味わった気がする。
こちらに真っすぐに飛んでくる、当たれば無慈悲に命を刈り取る鉛の銃弾。
そして、その射線軸上に身を挺して飛び込んでくる鎧姿の少女、ニナ。
彼女は両腕を広げ青年の胸元に抱き着くようにしがみつくと、勢いそのままにフェンスを乗り越え、背後の崖下へとその身を躍らせた。
「――――!?」
青年は我が身に起こった突然の事態に混乱する。
身体は宙に浮き、直後、深い暗闇へと吸い込まれていくような無限に続く落下感に戦慄する。
少女に抱き着かれたままちらりと下を振り返れば、二十メートルはあったかと思われる崖下の真っ黒い川面が目前に迫っている。
もはや魔術で着水時の衝撃を和らげる時間すら確保できそうにない――。
(クソ、やるしかねぇ――!)
青年は少女の頭を抱え込むと衝撃に備えて身体を丸め、そのまま後頭部から激しい水しぶきを上げて川面に叩きつけられた。
*****
「やった、のか……?」
真っ暗な崖下をおそるおそる覗きながら手下の一人がそう呟く。
ここからではハッキリとは確認できないが、川面まで相当の高さだったはずだ。普通の感覚ならば助からないと考える方が自然だろう。
だが遺体を確認しない事には安心できない。
「なんとも言えん、銃弾が命中したのは間違いなさそうだが」
「で、でもどうします? 一緒に落ちたのはヘンネフェルトの姫ですよ!」
「ああ。面倒な事になった……あの女、余計なことを……!」
歯ぎしりしてかぶりを振るが既に後の祭り。とにかくマルティン候に報告して次の指令を仰がねばなるまい。
「閣下への連絡はお前に任せる。残りの者は崖下に降りて捜索だ」
「ははっ!」
黒サーコートの男は足早に散っていく手下の背を見送り、ちらと後ろを振り返る。
彼の視線の先――二人が乗り越えたフェンスには血痕が飛び散っていた。
*****
暗闇の中へと意識が沈んでいく。月明かりに照らされた水面は見る間に離れていき、手を伸ばすも最早遠く届かない。目前に迫る死に抗い、最後の力を振り絞ってもがいてみるが徒労に終わる。
寒い。全身が凍えて寒くてたまらない。
間もなく冬を迎える冷たい激流は、少女の身体から容赦なく体温を奪う。既に手足の感覚は無くなりつつあり、着こんだ装備の重量故か、尚のこと全身は鉛のように重い。
助けを求めて口を開くが、気泡がただただ漏れ出るのみであった。
銃弾がかすめたと思われる左の肩口からは流血しており、周囲の水と混じり合い視界を赤く染め上げていく。
――ああ、人生の終わりってこんな感じなんだ――。
そう思い始めた途端、急激に眠気が込み上げてくる。眠い。とにかく眠りたい。
薄れゆく意識の中でぼんやりと考える。
――いま眠ったらどうなるのかな。
――結局最後にご飯食べ損ねちゃったな。
――ハルの世話を誰がやってくれるのかな。
――大好きだった母さまにまた会えるかな。
――もしも母さまに再会できたら最初にどうしよう。真っ先に抱き着いて頭をなでてもらって、それから昔みたいに一緒に料理を作って、食卓を囲んで――。それが叶うなら、それも悪くないのかな。
全身を襲う強烈な倦怠感と耐えがたい眠気に抗えず、遂に少女は諦めて目を閉じる。このまま意識を失えば、もう二度と目を覚ますことは無いだろう。しかし少女にはもう為す術はなく――。
――おやすみなさい――。
最後に残った意識のかけらを手放そうとしたその時。
力を失い流されるだけのその腕を、何者かに力強く掴まれた――気がした。
それが何者であったのか。確かめることも出来ぬまま、ニナはそのままゆっくりと意識を手放した。
*****
「な、なんだと!? ヘンネフェルトの姫をやったというのか!?」
「もうしわけありません、それが――」
逗留している宿屋の一室。最上級の家具が並ぶ豪華な部屋の中に、貴族風の中年男――バルニエ=マルティン侯爵の狼狽した声がこだました。
「―――姫があのクソ生意気な山猿を庇って、二人して川に落ちた、だと! いったい何をしていたのだ貴様らは!?」
「か、閣下! 周囲に聞こえてしまいます、もう少しお静かに……!」
「お、おう………」
標的を取り逃がしただけではなく、事件に侯国の姫まで巻き込んだ――耳を覆いたくなるような部下の報告に侯爵は唇を噛み締め頭を抱えた。
自分の「本国の侯爵」という絶対的立場を使えば、属国の一般人たる二等国民の処遇などいくらでも握りつぶせよう。だが相手が一国の姫ともなれば話が違ってくる。生きているのか死んでいるのかは不明だが、いずれにせよ事件が露見してしまえば国家間の問題になるのは火を見るより明らか。
今は共和国にとってモルガナ領奪還作戦を控えた大事な時期。そんな時に協力すべき同盟国との間で無用な火種を作ったとなれば、あの冷徹な大統領の事だ、自分の事など簡単に見捨てるに違いない。そうなれば良くて身分の剥奪、悪ければヘンネフェルト侯国への身柄引き渡しも十分有り得る―――。
(それは不味い、なんとかしなければ――)
時を戻すことができない以上、やってしまったものは仕方がない。なんとか事件をもみ消す方法はないものかと、絶体絶命の危機を脱出するべく大脳をフル稼働して必死に考える。
部下の話を聞けば、事件現場に目撃者はいないとの事。ならば本人らの口を確実に塞ぎ闇に葬るしか道はないではないか? 遺体さえ見つからなければただの行方不明事件として処理され、自分に嫌疑がかかることもあるまい――。
「とにかく捜索を続行だ! 生きているなら確実に殺せ! 死んでいるなら遺体を回収して証拠を残すな!」
「は、ははっ!」
命令を受け、派手な音を立てて扉を開け廊下へ飛び出す腹心の背を見届ける。だが、これでは足りない。頼りない部下達は信用できない。侯爵は頭を抱えてその場に力なく座り込んだ。
「くそ……しくじれば我がマルティン侯爵家の存亡にかかわりかねん。念には念を押したほうが良いかもしれんな……。やはりあの男に頼らざるを得ないのか――」
「――ご指名ありがとうございます」
唐突な声に侯爵が振り返ると、開いた扉の陰から声の主と思われる若い男が音もなくすっと姿を現した。
年の頃は二十代半ば、身長は百八十センチを優に超えるだろうか。薄緑色のロングコートを羽織り、その下からは黒い燕尾服が顔を覗かせている。整った顔立ちに糸目。首元に紅花を模したものと思われる薄紅色のペンダントをぶら下げ、不敵な笑みを浮かべるその男の事を侯爵は知っていた。
「き、貴様、何時からそこに居たのだ!?」
「ふふふ、先ほどの方の後を付けていたのですよ。そうしたら部屋の中から何やら物騒な会話が聞こえてきたものでして」
「全て聞いていたという事か……抜け目のないヤツだ」
部下を尾行していた事を悪びれもせずしれっと言ってのける男の反応に、侯爵は呆れたように半眼で呻く。
この男の名前は何と言っただろうか? 以前に依頼をした際に長ったらしい名前――エルなんちゃらとか言ったか――を名乗られた記憶はあるが、詳細までは覚えちゃいない。ただ、解っているのは彼が何でも屋――ザフローアとかいう商会の幹部であるという事だ。
ザフローア商会。近年急速に事業を拡大してきた商業組織だ。「ザフローア」とはヘンネフェルト地方の古い言葉で紅花を意味し、元々は畑で育てた花から香油を作り販売していた小さな会社であったという。
しかし、数年前の社長の交代をきっかけに大幅な事業転換がなされたのは記憶に新しい。武器防具の取り扱いから傭兵の斡旋、果てには秘密裏に暗殺請負まで行う「死の商人」の一面を持つ組織に生まれ変わったのだ。
金さえ払えばどんな依頼でも引き受ける事から、過去にバルニエ自身も幾度となく彼らと取引をしており、顔だけは良く知っている相手であった。
「お困りのようですねぇ、バルニエさん。我が商会の手助けは必要ですか?」
「あ、ああ、依頼しよう。内容は聞いていたのだろう?」
商人の男は顎に手をやって「ふむ」と呟くと、確認するように両手を広げて口を開いた。
「しかしよろしいので? 相手はヘンネフェルトの姫ですよ?」
「構わん、既にもう手を下してしまっているのだ。このまま生かしておくわけにはいかん。目撃者を含め一人残らず始末し、証拠を隠滅しろ」
「皆殺し……ですか。相変わらず侯爵殿には躊躇がありませんね。おお、怖い怖い」
躊躇などあろうはずがない。先の展開を考えれば、こちらはもう追い詰められているのだ。今更手段を選んでまごついている時間はない。
その切羽詰まった状況を目の前の男も理解しているはずなのに、平然とこういう軽口を叩く。前々からそうだったが、やはりこの男は気に食わない。
「はっ……殺しを生業としている貴様らに言われたくはないわな」
「それは心外ですねぇ。我々はお客様のニーズに全力で応えているだけなんですが」
不快な感情を隠しもせず、皮肉を込めて呟いたつもりではあったが。
目の前の男はそれには全く気にも留めず、懐から取り出した手帳にペンを走らせながら淡々と交渉を進めていく。
「――出すものを出して頂けるのであれば、お引き受けいたしますよ。ただし料金は口止め料も含め、高額になりますが?」
「背に腹は代えられん、いつも通り請求書は屋敷に廻してくれて構わん」
「商談成立ですね。ありがとうございます。では早速準備に取り掛かりましょう。実行役を選ばなければ」
男は口元に微笑を浮かべ恭しく一礼をすると手帳を懐にしまいこみ、軽い足取りで部屋を出て行こうと歩き出す。
だが苛立ちを抑えきれないバルニエは、男の左肩に手をかけると強引にこちらを振り向かせ、念を押すように吐き捨てた。
「おい貴様! わかっておるのだろうな、もしも取り逃がすような事でもあったら……」
「――バルニエ、サン?」
刹那、男の口から発せられた抑揚のない乾いた一言。と同時に男の肩にかけた右腕に何か冷たいものがあてがわれた感触が伝わる。
何事かと視線を向ければ、視界に飛び込んできたのは、振り返った男の右の袖口から伸びる赤黒い巨大なハサミの先端。
その二つに分かれた大きな刃は今まさに侯爵の右の肘から先を断ち切らんと、部屋の明かりを反射して無機質な鈍い光を放っていた。
「ああ………ダメだダメだ。アナタ。それは、美しく、ないなァ―――」
「ひ………」
限界まで見開かれたぎらぎらと赤く輝く双眸。そしてその奥に見え隠れする狂気。
先程までとは一変した男の様相に、蛇に睨まれた蛙の様に侯爵は身動き一つ出来ない。
自分の愚行を激しく後悔する。
忘れていた。そうだ、この男とて暗殺者の一人なのだ。その気になれば一瞬で自分の首をはねることもできるのだ。
「勘違いしないでくださいねェ? 我々はアナタの部下ではないし、アナタが何者であろうと関係ない。調子に乗っているとその手足―――剪定しちゃいますよ?」
ガタガタ震える侯爵を男はぎょろついた目で無遠慮に見下ろし、淡々と言葉を紡いでいく。
本能で直感する。この男に逆らってはいけない。一時でも早くこの場から逃げ出したい焦燥感に駆られ、侯爵はやっとの思いで言葉を絞り出す。
「わ、わかった………」
「そうそう。人間は素直が一番です。ご理解頂けたようで何よりですよ」
破顔一笑。
そこまで言うと男は数十秒前までの狂気が嘘であったかのように細目微笑の営業スマイルに戻す。
そして商人の男――エルネスティ=サルメラは、緊張感から解放されてへたりこんだ客に対して恭しく一礼した。
「ではこれからも、ネジ一本から暗殺まで。ザフローア商会をどうぞごひいきに」
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