ゾーン
スポーツとかでよくゾーンに入るなんて言い方をすることがあるだろう。その時には恐ろしく感覚が冴えて、まるで時間が止まったように思えるとか。その中で一手二手先が見え、末には勝負を制する。まるで超能力にでも目覚めたようなものだ。
この俺もそういった感覚を経験したことがある。しかし、俺のゾーンはスポーツで言うゾーンとは少し違うのかもしれない。
人は等しく同じ時間を生きている。誰にとっても1日は24時間、1時間は60分、1秒は60秒。このことを誰しもが疑わず信じていることだろう。あくまでも理論的にはな。
時間というのは不思議なもので、そういう理論が分かっていても、その時々によって経過の仕方に違いを感じることがある。というのが、例えば楽しい旅行に行けば時間はあっという間に感じるのに、クソつまらない映画を見ていると時間が長く感じることだ。同じ1分でも、前者と後者では感覚的に時間の流れが違っている。
ここで俺が改めて疑うのは、本当に誰にとっても時間が平等に流れているのかということ。日、分、秒、それぞれには確かにこのくらいの時間だという定義がある。でも、時計の針が刻む時間以外にも特殊な時間があるのかもしれない。俺は恐らくその特殊な時間を生きた。
ドラマや漫画などの演出として見られる中にこういうものがある。踏切待ちをしていたら電車が通る。主人公の男子は踏切前に立っている。そして彼の前を通過する電車には運命のヒロインが乗っている。電車が通過した時だけ画面はゆっくりになり、主人公とヒロインの目が合う。運命的ドラマを盛り上げる良き演出だ。でも普通に考えてそんなことはまず無い。電車はものすごいスピードで走っているのだから。あれはあくまでもそういう演出。
でも、この俺には、ある時本当に時間が止まって見えることがある。逆にものすごく早い時もある。これは気の所為ではない。俺と言う人間が、理論上の時間と分離されて特殊な次元に入る。それが、俺の言うゾーンだ。
ゾーンには俺だけが気づいている。時間の流れが通常に戻った時、周りの者は何の違和感も抱かない。異常事態の帳尻合わせは瞬時に行われ、正常と異常はバランスを保って連続して行く。はっきり言ってこの感覚は気持ち悪い。
いついかなる時ゾーンには入るのかは全く分からない。寝ている時、飯を食っている時、学校に登校する途中など、時を選ばず俺の時間はめちゃめちゃなリズムを取る。これは自分の生活をまるでビデオテープでも扱うように勝手に一時停止され、早送りされるようなもの。巻き戻しにはこれまで一度もあったことがない。ゾーンから逃げる方法は今のところ分からない。
ある日、道を歩いていると建物の上から植木鉢が落ちてきたことがあった。下の道には少女が歩いている。このままいけば少女の頭は植木鉢と共に割れることになる。そんな時、時間がゆっくりになった。その中で俺だけは普通に動ける。俺は少女を助けた。
学校の体育の授業で野球をした時、ピッチャーの投げる球が恐ろしく遅くなった。皆の姿を見るとほぼ動いていない。俺はバッターボックスに立っていた。これだけ遅いと、ボールをバットの真芯で捉えて打つことが出来る。しかし、ぞれはズルをしたような気がするのでその時にはわざと見逃し三振を決めた。
起きたと思ったらもう夕方になった時もある。そうして恐ろしく一日が早く過ぎた時にも俺の一日の記憶はちゃんとある。
ある日の朝、俺は5時前に目が覚めた。窓の向こうを見ると外はまだ暗い。もう一眠りしようかと思って瞬きをするともう朝陽が出て時刻は7時だった。俺は布団から出た。
時間が早送りされること、それはイコールして命を早送りされていることになる。これは大変な損。そして、死が早まるのことは恐怖でしかなかった。
まただ。朝飯を前にいただきますを言ったと思ったらもう通学路を歩いている。目玉焼きを食ったという怪しい記憶だけが残り、その味や食感が分からない。気持ち悪い。こうなると、これが本当に俺の記憶で俺の命なのかも怪しくなる。
面倒くさい学校の授業が始まる。こういう時だけは早送りが助かる。都合よく英語の時間が早送りされた。正常と異常のどちらの時間を辿っても授業なんて集中して聞いていないのだから問題ない。
友人のタカシ、付き合ってるマリコと話しをする。友との何気ない会話をゆっくり楽しむのは俺の癒やしとなった。でも、この時間もゾーンのせいで奪われた。一瞬で友との対面は終わる。もっと皆の笑顔を見て、話しを聞きたかったのに。
早い。早い。最近は早送りされてばかりだ。あれ、最近白髪が出てきた。それに肌の張りも何だか弱い。顔にシミなんかも出てきた。まだ高校生なのに最近老け込んだな。どうしたんだろう。前ほど腹が減らない。体育の授業のマラソンなんかは得意だったのに、最近は息切れがして他の奴に抜かれてしまう。どうしたんだ。
分かった。今度は俺の時間だけが早送りになっている。ああ、手がどんどんしわしわになって行く。
止まれ、止まれ!
いや、正常に、普通の時間に戻れ。俺は皆と同じ時間を生き、皆と一緒に老いて行きたい。そんなことは当たり前なのでゾーンを知るまで望んだことなどなかった。
ああ、もう体に力が入らない。本当に俺の体なのかこれが。もう立っていられない。
肉が、皮が、俺の体に付いているものが無くなっていく。
意識が遠のく……俺の時間が、命が、ゾーンに奪われていく……
「先生!山田が!」
タカシが声を上げた。
一緒にマラソンしていた山田が一瞬で白骨化したのだ。
その日、学校の体育の授業中に突如現れた人骨は間違いなく山田のものであった。今朝登校して来た時にはしっかり肉が付いていた者が、一瞬で白骨化した。山田が死を通り越して生と全く関わりのない姿へと豹変した謎は、学者達がいくら頭を悩ませても終ぞ明かされることがなかった。