十円玉の神様
僕は清掃員のバイトをしている20歳のナイスガイだ。
そんな僕だが、近い内にこのバイトを辞めてよその会社で正社員になることが決まっている。バイト生活とはあと一月程でおさらばだ。この旅立ちはめでたいものなのだが、バイト先が居心地の良い現場だったので、いざお別れとなると寂しくもなる。
僕が配属されている現場は大きな市民病院。広い病院の中で僕が清掃する場所は病院の地下一階フロア。ここには患者はほとんど来ない。地下で患者が出入りする場所といえばMRI検査室くらいのもの。その他の部屋はボイラー室、洗濯業者の事務所、警備員の控室、あとは機材倉庫などで患者には用がないところばかりだ。全ての階の中で一番人と会わないのがここだった。人の多い場所が好きでない僕にとって、ここは一番良い環境だった。
ここでの仕事は決して楽ではない。そんな中で僕が密かに楽しみにしていることがある。地下には飲み物の自動販売機が一台設置されている。実はここ、お金が拾える穴場スポットなのだ。薄暗い場所に自動販売機が設置されて手元が少し見えにくいせいか、買い物に来た人がお金を落としやすいのだ。そのため、夕方に自動販売機の下にモップを突っ込むとお金が引っかかることが多い。これを拾って懐に入れる行為はネコババと言う禁止行為なのだが、当時の僕はお金に余裕がないひとり暮らしをしていたので一円でも百円でも副収入があると助かった。なので僕は拾う度にお金を持って帰っていた。僕は自動販売機の下で拾ったお金だけを入れる貯金箱を用意していた。僕は2年と少しそこでバイトをしていたのだが、その期間で拾った小銭は間もなく千円に達しようとしていた。拾えるお金は一円玉の時もあれば百円玉の時もある。お札と五百円玉はさすがに経験がないが後の硬貨ならどれも拾った経験があった。
一緒にバイトをしている仲間にシゲさんという60代後半のおじさんがいた。彼と僕は大変仲良しで、帰る方角が同じなのでいつも仲良く話しながら二人で自転車を並べて帰っていた。これも並列運転といってよくないことだから真似てはいけないぜ。
お金を拾って集めていることはもちろん人に黙っている。でも、シゲさんだけは知っていた。貯まるのが嬉しくてシゲさんにだけはどうしても話したくなった。だから、拾ったお金の合計が420円になった頃に彼に話してしまった。彼はそれをニコニコして聞いてくれた。
この貯金と僕のバイト生活の終わりには意外な関係があった。僕が近い内に働く会社というのは私の祖父の会社なのだ。僕は高校を出てから進学せずにバイト生活をしていた。祖父は若い内にフラフラするのも良いが、あまり年を取ってからもそうではいけない。二十歳を堺に正社員になった方が良いと言われた。
僕は現在20歳を迎えた。祖父はバイトを辞める時期はそちらで選べが良いから、年度中にウチの会社に来いと言った。そこで僕は辞めるなら間もなく千円が見える貯金額がそこまで達したその時にバイトを辞めようと想っていた。こんな妙な条件が転職のタイミングになる者はまずいないだろう。
ある日の帰り、シゲさんは信号待ちをしている時に「もう少しでここを卒業だな」と言った。そんなことを言われると寂しくなった。その時、卒業まであと百円を切っていた。病院には毎日驚くほどの人がやって来る。母数が多いだけにその中からうっかりお金を落とす人が少なくない数出てくる。その頃も順調にお金は落とされ、そして僕に拾われていた。
シゲさんと僕の年の差は40以上開いている。彼は僕の父よりもまだ年上の男だ。僕は彼の息子よりもずっと若かった。これだけ歳が離れていても不思議なもので、彼とはまるで同級生と話すような感覚で付き合えた。彼は歳は取っているが見た目は年齢よりもずっと若かった。
そんな大好きなシゲさんがある日急に入院した。心臓の調子が良くないということだった。僕はバイトが終わると彼の入院している病院に見舞いに行った。僕が働いている病院と彼の入院している病院は割りと近くにあった。
彼が入院してから、僕は自動販売機の下で連続して十円玉を拾うようになった。最近は銀色の硬貨を目にしない。定期的に十円玉を拾い、僕は遂に目標貯金額千円を達成した。これで僕がここにいる理由はなくなった。僕の旅立ちの時が来た。
そんなめでたい時分に僕の大好きな友人は亡くなった。あんなに元気だったのに、入院してから短期間でシゲさんは帰らぬ人となった。この報告を受けた時は彼の死が俄には信じられなかった。でも彼は確かに死んだ。生気のない彼の顔を棺桶越しに見れば納得せずにはいられなかった。
葬式で棺桶を運び出す前、棺桶の中には花が詰められた。こんな時に不謹慎かもしれないが、狭い棺桶の中に花を詰め込んだら植物臭くて嫌ではないだろうか。シゲさんはどう想うだろう。僕はそんなことを考えていた。当時の僕は節約生活をしていていつだって腹が減っていた。だから脳が花より団子になっていた。好きな人が死んだのに、それでも通常通り腹が鳴り、体は飯を欲していた。祖父がいつだか言った言葉に、「例え親が死のうが誰が死のうが腹は減る」というものがあった。その通りだった。
私はバイト先の皆に挨拶して最後のバイト日を終えた。家に帰ろうと想って自転車駐輪場に向かう途中、シゲさんの息子さんに会った。彼とはシゲさんの見舞い中に会ったことがあった。どうしてこんな所に息子さんがいるのだろう。私は尋ねた。
「父さんの遺言でして、それが妙な内容なのです」と彼は言った。僕は気になったのでその先を聞いた。
「ここに十円玉があるでしょ」と言って彼は十円玉が数枚入ったビニル袋を私に見せた。
「こいつを二、三日に一枚ずつ地下の自動販売機の下に置いてくれ。そう頼まれたのです。理由は聞くなと言われました。これが尽きるまで続けてくれと言われました。何かの呪いですか?そういうのを好む父ではあったのですが……」
息子さんは訳が分からないという顔で話してくれた。僕はそれを聞いて彼の謎をすぐに解いてしまった。だから泣けて来た。
「どうしたんです?どこか悪いのですか」涙を浮かべた僕を見て息子さんは心配して声をかけてくれた。
僕の体調はすこぶる良好だった。ただシゲさんの優しが身に染みてそれが涙となった。僕は息子さんに全てを話した。僕がネコババして貯金を集めていたことだ。ネコババに罪悪感もあったが、息子の彼には事情を伏せておく訳にはいかない。
シゲさんは僕が速く旅立てるようにお金をあそこに置いたのだ。それが彼の親心だったのだろう。自分が死ぬかもしれないって時に僕のことを想って息子さんに頼んでまでこんなことをしてくれるなんて。僕は自分が情けないようで、しかしそれを上回る程嬉しくもあった。
僕は息子さんに、ここ数日連続で拾った十円は返すと言ったのだが、息子さんはその必要はないと言ってくれた。その時の優しい彼の顔は、優しい彼の父とよく似ていた。やはり同じ血が流れている。
僕は現在祖父が会長を務める会社で忙しく働いている。前よりは確実に実入りがよくなった。バイト先で拾った金のみが入った貯金箱は今でも中身を使わずに持っている。本当に困った時には十円玉の神が宿るこのお金に助けてもらおうと想う。




