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瞬はスマホを見た。ここに来てから、もう三十分くらい経っている。長谷は、たがが外れたように三杯目のビールジョッキを頼んだ。
「お前、よく飲むよな」
瞬は、唐揚げを食べる長谷に小さく言う。
「そうか? お前もこのくらい飲んでただろ。つーか、全然飲んでねーけど、もしかして酒弱くなったのか?」
瞬は、まだ半分残った一杯目のビールジョッキを眺めた。
「やっぱり、なんかわりーからさ」
「いや、だから気にすんなって! お前がまた働きだしたら、その時は奢ってもらうからよ!」
頭を少し乱暴に掻くと、瞬は椅子にもたれて、少し煩わしそうに顔を伏せた。
「ところで、今何やってんだ?」
長谷は持っていたジョッキを下すと、気遣わしげに訊いてきた。
「別に何も……」
「何もって……何かやりたいこととかあるだろ?」
「言ったところで笑われるのがオチだし」
「ん、つーことはなにかあるんだな。言ってみろよ。別に笑ったりしねーから」
「小説書いてる……」
ポツリと言う。
瞬は、長谷がビールを吹き出しそうになったのを見逃さなかった。
「やっぱりバカにしてるな!」
「いやいやいや! そんなことないって! ちょっと驚いただけだ」
長谷は、口に入った刺身をビールでゴクリと嚥下する。そして、ほんのり赤くなった頬でこう言った。
「まぁ、良かったよ。やりたいこと見つかったんだな。本当はずっと心配してたんだ。お前の事」
長谷は突然、真剣な眼差しで瞬を見てきた。瞬は身構える。
「俺、お前が辞めた日。どうすればよかったのかわからなかった。お前に何もしてやれなかった……」
瞬は黙ったまま、長谷の視線から目を背けた。
「ただ言えることは、お前は間違ってないってことだ。俺だって、あの時――」
瞬は急に立ち上がった。上着を手に取り、ビール一杯分の金をテーブルに置くと、「ごめん、もう帰るわ」と居酒屋の出口に向かっていった。
「おい、待てよ! すまん! 俺、酔っちまってるな。こんなこと話すつもり――」
――ガラガラガラ
瞬は、長谷の話を最後まで聞かずに、店のドアを開けると出て行ってしまった。店のおばさんも何事かと、そんな二人を心配そうに見ていた。長谷は一人になると、ぼーっと天井を仰いでいた。目が充血している。実は長谷は久しぶりの酒だった。酒に弱くなったのは自分の方だった。「あああ!!」声を上げる。自分のデリカシーの無さに苛立った。
瞬は家路を歩いていた。突然出てきてしまった。しかし、あれ以上、あの場に居れる気がしなかったのだ。突然、瞬は頭を抱えた。一つ忘れものに気がついたのだ。――手袋がない。瞬は居酒屋に戻るわけにもいかず、諦めることにした。寒すぎて指が痛い。凍えそうだ。コートの袖を引っ張り手を隠す。
暗い夜道を歩きながら、瞬は昔を思い出していた。瞬の勤めていた会社には、辻沼という一つ年上の男の先輩がいた。とても優しく、親切だった。しかし、辻沼は気が弱く。営業の成績も悪かった。毎回ノルマも達成できず、いつも上司が辻沼を怒鳴り散らしていた。そんな彼を部署のほとんどが陰口を言っていた。
「あいつ、本当にいる価値あるのかよ」
「ないっしょ! ていうか、あいつができない分こっちに仕事が回ってくるんだよな。マジでいらねーよ」
「消えてくれねーかな。目障りだわ」
同僚や先輩達がそうやって、時には辻沼に聞こえるように声を張って言う。それに対し周りはケラケラと笑う。ほとんど中学生のいじめと変わらなかった。辻沼はそんな非情な言葉を浴びされながらも、必死に仕事をしていた。
ある日、瞬が仕事で悩んでいた時。辻沼が相談にのってくれていた。瞬はその時、書店での販売促進を担う書店営業の仕事をしていた。しかし、なかなか交渉が上手くいかず、本を置かせてもらえないことが続いていた時、辻沼は優しく、瞬を慰めてくれたのだ。「わかるよ。私も、いつもうまくいかない。でも、きっと君なら大丈夫さ」はにかみながら細い目を垂らす。一度も交渉のテクニックや仕事に繋がる話をしてくれることはなかったが、同じように苦しんでいる辻沼に、へんな仲間意識みたいなものが沸き上がっていたのだ。