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屋根から突然黒い小さな影が瞬の横をすり抜けていった。不意をつかれた瞬は眉頭を寄せ、それを凝視した。黒い影は部屋へ侵入すると、あっという間にベッドの下へ身を隠した。瞬は突然の侵入者にゴクリと喉元を動かす。そろりと部屋の方に戻ると、その影が潜んでいるであろうベッドの下を覗き込んでみた。暗い隙間から赤く光る二つの丸が見えた。瞬は思わず身構えた。一度距離を置いたあと、呼吸を整え、もう一度それを確認するために覗き込んだ。すると、今度はそれが瞬に襲い掛かってきた。「うわっ!!」瞬は尻を床に落とした。残りの串団子が皿ごと宙を舞う。慌てて瞬は、近くにあった文庫本を握りしめそれを探した。
「ね、猫?」
目を瞬かせる。その得体のしれない黒い影は猫だった。――黒猫だ。まだ子猫なのか体は小さく華奢で、薄汚れていた。猫は瞬の顔をじっと見て動かない。瞬もまた同じように猫を見て動かない。対峙するように、お互い引かない。猫は様子を伺いながらゆっくりと前足を上げる。すると、その緊迫感を唐突に破ってきたのは猫の方だった。目線が床に転がった串団子に向けられたのだ。瞬もそれに気づくとそっちを見る。猫は瞬の顔と団子を行ったり来たりさせる。瞬はしっかり結ばれていた口元をゆるませた。その行動を見ているとなぜか笑えてきたのだ。瞬はゆっくり串団子に手を伸ばすと、それを見た猫はピクっと体を強張せた。
「大丈夫。お前、お腹空いてるのか?」
猫はじっと瞬を見る。
「あれ、でも団子って猫に食べさせたらまずいよな……。まぁタレを舐めるくらいなら平気か」
瞬は独り言をつぶやく。
「ほら」と瞬は串団子を猫の前に差し出した。すると、猫は様子を伺いながら団子を嗅ぎだす。安全なのか確認しているのだ。ややあってから、猫は一度ペロっと団子のタレを舐めると安心したのか、それから興奮気味にペロペロと舐め始めたのだ。
「うまいか?」
瞬は猫に尋ねる。猫は夢中で団子を舐めていた。外を見てみるともう雨は止んでいた。きっと、屋根で寝ていた猫が、突然雨に打たれ、慌てて降りてきたんだと察した。串団子を見ると、タレだけが綺麗に取り除かれ、露わになった白い餅だけがそこにはあった。なにかその団子が寂しげにみえた。猫はキョロっとした目でこちらを見てくる。
「そんな物欲しげにされてもな……」
瞬は頭を掻く。猫は首を傾げると、そろそろとベランダに出て、ひょいと木格子に飛び乗ったかと思うと、そのまま屋根に飛び上がっていった。瞬は、猫のあとを目で追いながらベランダに出ると、屋根を覗き込み辺りを見渡した。すると、さっきの猫が隣の平屋の瓦屋根を歩いていくのが見えた。ちょうどその屋根は、自分のベランダと同じくらいの高さだった。そして、先隣のほたる荘の二階の窓際に向かっていた。ほたる荘は、築四十五年のかなり年季が入ったアパートだった。電気が点いている。じっと伺ってると、中で人の動く姿が見えた。猫が爪で窓をガリガリしていると、そこが開き、小皿を持った女性が現れた。そして、それを猫に与えていた。餌だ。猫は必死でそれを食べる。女性がこっちに気づくと、瞬の方をじっと見てきた。瞬は慌てて部屋に入り、息を凝らした。心臓が高鳴りだした。ベッドに倒れ込むと、胸をおさえ彼女の姿をもう一度思い返す。「ダメだ……」鼓動が早まる。月が明るく辺りを照らしていた。彼女はそれに照らされとても神秘的だった。淡く照らされた彼女の肌は白く美しく、黒くて長い真っ直ぐな髪は夜風に揺れていた。見つめられた時、瞬は生唾を飲み込んでいた。まさかこれが一目ぼれというやつなのかと、恥ずかしさのあまり瞬は毛布を顔に被せた。