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辻沼へのいじめは二年以上続いていた。今日もまた、上司の方から大きな音がした。デスクを叩く音だ。見ると、辻沼は、小さく「すみません」と何度も頭を下げていた。
「お前はそうやっていつも謝るが、本気で反省してるのか!? 言われたことはすぐできない。書類の作成もミスばかり。成績も見てみろ! お前がダントツで悪いんだぞ! そうやってな、いつも陰気な顔してるからいけないんだ! 気持ち悪い! 本当にお前は役立たずだよ。お荷物もいいところだ。さっさと、私の前から消えろ!」
上司のでかい声が部署中に響いていた。辻沼は頭を落としたまま歩き出した。瞬は、辻沼が自分のデスクを通り過ぎる時、下から顔を伺った。その顔に表情はなかった。瞳は光を失ったようだった。そして、辻沼はそのまま外回りに出ていった。瞬は、やはり心配になり、その後を追いかけた。
「辻沼さん!」
辻沼は、その呼び声にパタリと足を止めた。
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫だ。ありがとうな……」
辻沼はいつもの様に優しく微笑んだ。そして、ゆっくり外へ出ていった。辻沼のその表情が、とても儚く、そのまま消えてしまいそうだった。瞬はますます不安になった。大丈夫なはずがなかった。
辻沼を見たのはそれが最後だった。
次の日の朝礼で、上司から信じられない話を告げられた。
「辻沼だが、昨日、電車の線路に飛び込んで自殺をした。まったく、最後の最後まであいつは人に迷惑をかけていったな。はぁ……今日の十九時から通夜に行かないといけないんだが、同行したいものはいるか?」
誰一人、手を上げるものはいなかった。
「たく、こんな忙しい時期に厄介な手間とらせやがって」
周りは微笑するものや、コソコソ話しながら笑うものもいた。瞬は強く拳を握った。隣にいた長谷が瞬の異変に気付いた。
「大丈夫か? なんか顔色悪いぞ」
その時だった。瞬はポツリと言葉を発した。
「腐ってる」
一斉に周りが瞬に注目した。
「雨野、どうしたんだよ。よせって」
小声で長谷はなだめるように言う。すると、瞬は自分のデスクに向かい、引き出しからあるものを取り出してきた。そして、それを上司の前に突きつけた。
「ん? 退職届?」
「はい、こんな会社辞めます」
「いや、待て、先に退職願だろ普通。すぐに辞められるわけないだろうが!」
「そんなのくそくらえです」
そう、一言吐くと、瞬はデスクを片付け始めた。
「雨野、待てって」
長谷の言葉に耳を貸さず、手だけを動かす。必要なものを持って、上着を羽織り振り返ることもなく会社を後にした。
こんなの間違っている。なぜ、辻沼が死ななければならなかったんだ。あんな奴らのために、どうして。憤懣やるかたなかった。人の目なんか気にせず、叫びたかった。本当は上司やあそこにいる全員を、一発、思い切り殴ってやりたかった。しかし、できなかった。怒りの矛先を見つけることもできず、涙を溜めていた。こんな高慢で澆薄な社会に未練はなかった。とにかく、この街から離れ、誰も知らない場所へ行きたかった。
突然ラインの音がした。見てみると、節からだった。『何時くらいに帰る? 夕飯はどうする?』母親かと、また突っ込みたくなった。瞬は短く、『今から帰ります。ご飯は大丈夫です』とだけ送った。すると、すぐに可愛らしいキャラクターのスタンプでOKときた。瞬はため息をついた。
香取神社に差し掛かった。香梅園がある。暖冬の年には1月ごろには満開になることもあるという。今年は寒い。きっと咲くのは二月から三月あたりだと思う。その頃に梅まつりも開催するみたいだ。
自宅の近くの通りでは、クリスマス用にイルミネーションを飾っている宅も見かけた。――そういえば、もうじきクリスマスか……。瞬は、少しうんざりするように頭を小さく横に振った。
自宅が見えてきた。すると、その先にある、ほたる荘の二階の窓から、少し身を乗り出して空を見ている女性がいた。昨日の彼女だった。彼女が向ける先を見てみる。月があった。その姿がとても美しく、儚げで、悲しそうだった。瞬は、思わず見入ってしまい自宅前で足を止めていた。




