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夜空を仰いでいた。満天の星と片手には缶ビール。気持ちよくなり、ぐぐっと背伸びをしてみた。すると、十二月のひんやりとした風が身体を通り過ぎていった。
「瞬ちゃん」
後ろから瞬を呼ぶ声がした。瞬はベランダから部屋に戻る。
「開けるよ」
そっと木製の引戸が開くと顔を覗かしてきたのは、七十歳くらいのお婆さんだった。
「どうしました、節さん」
節は小柄だった。ショートヘアで真っ白な白髪頭。モンペをはき、上着はちゃんちゃんこ。THE昭和のお婆ちゃんみたいな恰好をしている。十年前に旦那を亡くし、それ以来独り暮らしをしていた。そして、最近になってから自宅の二階を人に貸し出し始めたのだ。家賃は二万円。夕飯付き。いい条件だと思った。貯金で食いつないでる瞬は贅沢ができないからだ。だが、一つだけ不満とまではいかないが、もう少しだけプライバシーは守ってほしかった。ここで暮らし始めてから、節は瞬を自分の孫のように世話を焼いてくるのだ。
節はにっこりと歯抜けの笑顔を見せると、団子を瞬に差し出してきた。
「これ、瞬ちゃんにお裾分け」
「あ、ありがとうございます」
二十時。いつもこのくらいの時間になると、こうやっておやつを持ってくるのだ。瞬は甘党ではなかった。どちらかというと甘いのは苦手だった。それでも、瞬は目を細め笑顔を見せてやる。親切心で差し出されたものに嫌な顔は見せられない。営業をしていた時に身につけた技だ。
「じゃぁ私は寝るからね。瞬ちゃんもあまり夜更かしはせんようにね」
そう言って、節は部屋を出ていった。
串団子を見る。白い丸皿にみたらし団子が三つ並んでいた。瞬は鼻でため息をつくと、一つ口に頬張りまたベランダに出た。
雨野 瞬は都心から東京都墨田区にある下町に移り住んできた。ここ墨田区は戦前期に浅草から墨田川を超えて移り住んできた職人や町工場が多い地域でもあり、昭和の活気と風情が残る下町だ。しかし、そんな中に異様なものが見える。ひときわ目立つ、東京スカイツリーが背の低い建物を囲みながらそびえ立っているのだ。なにかそこだけ近未来がやってきたようだった。墨田区は今でこそ東京スカイツリーでメジャーな観光地になったみたいだが、それまでは昔気質な下町民が暮らす閉鎖的な場所だった。
瞬は、一か月前まで東京都新宿駅南口から、徒歩十三分くらいのところにある、マンションに一人暮らしをしていた。その頃、出版社の営業をしていた。新卒で正社員になれた瞬は、営業部で一年間必死に頑張っていた。しかし、ニ年目からは成績が伸び悩み、上司からの圧力と営業のストレスから心が悲鳴を上げていた。そして今年、三年目の冬、瞬は出版社を辞め無職になった。とりあえず、疲れていた。三年目にして疲れたとか甘いかもしれないが、どうしようもなく疲れてしまったのだ。貯金はまだいくらかある。学生時代にまじめにバイトで貯めた貯金が少し残っているし、正社員で働いてきたお金もまだある。きっと半年くらいは何もしなくても暮らしていけると思った。
今、住んでいる家は昭和初期を思わせる二階建ての一軒家だ。外壁は鎧壁といって、表面を平らにせず、板を少しずつずらして張り重ねていき、それが鎧のように見えることから、そういう名がついたのだという。それと、瓦屋根に木製の雨戸、木格子で作られたベランダ。もうそこは昭和にタイムスリップしたようだった。瞬はそのベランダでビールを飲んでいる。缶を額に押し当ててみた。ほろ酔いの火照った顔がスーッと冷えていく。ここに居れば今までのしがらみや悩みなんかも全部忘れさせてくれる気がした。
また夜空を仰いだ。星が降っていた。キラキラと煌めく満天の星。すると、顔に雫が落ちてきた。「雨だ」パラパラと身体を優しくさしはじめる。その時だった、思いがけないモノも降ってきた。