殺意
「文……ちゃんが……?」
店長の手から漫画が滑り落ちた。
「うそ、なんで」
「わかりません。ただ保安隊は、通り魔かと言ってました」
「通り魔? そんなものであの子が死ぬわけない。だってあの子は誰よりも強くて、誰よりも優しくて、誰よりも……」
彼女の言葉が詰まる。僕も気持ちの整理がついていなかった。文のいた場所が、周りに埋められることなくぽっかりと空いて、見つけようとしても手が空振るような、そんな気分だった。
隊長の男の言葉が蘇ってくる。頭部が切断、後ろから刃物で、効率よりも残虐性。
「見せしめ……」
思考の一部が口を突いて出た。店長が一瞬びくっと反応した。見ると、手が震えている。
「ど、どうしたんですか?」
彼女の顔は、何かに怯えているようだった。
「いえ、少し、嫌なことを思い出しただけ」
彼女は赤縁の眼鏡に外し、ポケットから取り出した眼鏡拭きでレンズを擦った。しかし手の動きはすぐに止まった。
「ねえ、佐原。今日はいつも通りに過ごしましょ。それが文ちゃんのためにもなるだろうし……」
「はい」
「それと、今夜からここで住まない?」
予想だにしない申し出だった。驚いたが、愛のプロポーズなんかとは全く違っていた。こういう時に僕は思うのだ。子を案ずる母はこんな顔をするのだろうか、と。
僕は親という生き物を知らなかった。向田さなえとの歳の差は十二しかないが、彼女の僕への接し方には世間にいうそれが如実に表れている気がしていた。
「大丈夫ですよ。明日も元気に出勤しますから」
なんだか自分が冷徹に振舞っているように感じた。店長の気持ちなどわからないのに。探りを入れることなど傲慢以外の何物でもないのに。
今自分が彼女のためにできることは、明日も元気な姿を見せることだけなのだと自分に言い聞かせた。
「……変なこと言っちゃったわね。ごめんね」
彼女はそう言って事務室へと消えた。ここで暮らすことを断る理由、それは天王寺のことが心配だからだ。側にいたいなどと格好のいいことは言えないが。
そこまで考えたところで、何か引っかかるものがあった。あの現場に居合わせた時に感じた最悪、あれは確かにシートの下に横たわっているのは天王寺かもしれないという予感だった。
なぜその考えに至ったのか、今ははっきりとわかる。流入品の塊であるあの装置だ。文の持っていた情報だと、今一番その身が危険に晒されているのは天王寺なのだ。ならばこの事件は流入品云々とは無関係なのだろうか。
考えてもしょうがない。元々結論が出る話ではないのだ。今日もいつも通りの一日を過ごすしかないのだ。だって文はもう帰ってこないから。
初めて少し涙が滲んだ。
時計を見ると、開店まで十分を切っている。
「店長、そろそろ……」
事務室を除いた僕の言葉が止まった。店長は両手で持った額縁に入った写真を見つめていた。僕に気づくと、それをすぐに伏せた。
「ご家族ですか?」
「え、まあ……元だけどね」
僕と目が合いかけた彼女はさっと目を背けた。
「バツイチなの、私」
地雷を踏んだとすぐにわかったが、フォローを入れるだけの元気は僕になかった。そうですか、とだけ伝えた。
こうして、オラムはまたいつも通りに動き出した。
客層は相変わらず老人ばかりだ。しかし、時々定期休暇中の若者も入ってくる。彼らはある時は漫画の最新巻に歓喜し、またある時はどす黒い表紙のホラー小説に目を輝かせたりする。表情がシワとシワの間からなかなか出てこない老人とは大きな違いだ。
そして彼らは僕の貴重な話し相手でもある。常連とまではいかないが、どれも一度は見た顔だ。
「ファンタジー大好きですね。ほんと」
レジを訪れた一人の男に声をかけた。もちろん店長の私物かどうかのチェックも忘れない。
「なんででしょうね。気づいたら手に取っているんですよ」
本の表紙には、一つの地面の上に巨大な建造物が所狭しと建った絵が描かれていた。
「違う世界ってそれだけでもう魅力的じゃないですか?」
「なるほど、現実逃避ですね」
彼は若さいっぱいに笑った。
「反論はできませんね。でも憧れとはまたちょっと違いますよ」
こうして彼らは本の魅力を語り出す。聞き上手、なのかは分からないが、彼らは聞くたび違う世界を教えてくれる。
ある時は貴族が従わぬ者を虐殺し、ある時は汚職が絶えぬ世界で暗殺者集団が暗躍し、またある時は全世界の運命を握った男が禁断の恋に溺れたりする。
一通り語った彼は、また来ます、と言って出て行った。彼はどこで働いているのだろう。恋人はいるのだろうか。家族は元気なのだろうか。それを彼らの顔から察することはできない。何があろうと、彼らは今日に自分がいることを確認するように、全力で歩むのだ。彼に僕の顔はどう映ったのだだろうか。
そんなことをぼんやりと頭の中を巡らせながら、時間は淡々と過ぎていった。
時計を見ると十九時を回っていた。閉店だ。今日も何十冊かの本が売れた。何人かの若者と話した。店長が買い出しに出かけた。
何もいつもと変わらなかった。何一つ変わらなかった。
その言葉が心の奥底まで染みるようで、代わりにぐちゃぐちゃしたものがこみ上げてきた。
気づくと涙が流れていた。抑えようとすると、ぐちゃぐちゃしたものはますます昇ってきて、嗚咽をこらえるのに必死になった。
「頑張らないとね。私達」
肩に手を乗せてきたのは店長だった。
「片付けはしとくから、今日は帰ってゆっくり休みなさい」
彼女も目元を赤くしていた。僕が口を開きかけると、彼女は両手で僕の頬を挟んだ。
「明日は元気な姿見せてちょうだい。ね?」
そうだ、店長のためにできることは明日も元気に出勤することだけではなかったのか。そう思うと少し元気が出てきた。
事務室で私服に着替る。エプロンを脱ごうとした時に、朝に店長が手に取っていた写真が目に入った。店長となんだか見覚えのある男が並び、そして彼女の手には生後間もないように見える赤子が抱かれていた。
深くは考えないことにした。踏み込んでいい理由など微塵もないだろう。
事務室を出ると、店長の尋問が待ち構えていた。何かあったら助けを呼ぶのよとか、護身道具は持っているのかだとか、よかったら送ろうかだとか。どうやら彼女もある程度元気を取り戻しているようだった。その顔は立派に「子を案ずる母」だった。
礼を言いつつ、なんとか質問の嵐をくぐり抜けて店を出た。職場がここで良かったと思った。
僕は直接天王寺の家に向かった。とにかく、早く会いたかった。彼女に会えば、明日も頑張れる気がしたのだ。
ところが、彼女の家に明かりは灯っていなかった。試しにドアノブをひねってみると、ガチャリと開いた。心の中で少し葛藤があったが、好奇心に負けた僕は中へ踏み込んだ。
彼女がいた。下着姿で。
まずい、とすぐに思ったが。僕はそこから立ち去れなかった。結論、見とれてしまったのである。
身長に興味をなくした幼い体などそこには無かった。下から上への優美な曲線は、決して贅肉で膨らんだようなものではなく、筋肉に沿って引き締められたものだった。
「来ちゃったか」
天王寺は特に驚くことなく、冷徹にそう言い放った。彼女が着ようとしていたのは、寝巻きではなく、黒っぽいジャージのようなものだった。
「あの、えっと、これは」
固まっている僕をよそに彼女は素早くそれを身に纏った。髪は珍しくまとめられていて、左右に分けられ、輪を作るように先端を耳の上にピンで留められている。
「前に銃渡したよね、持ってる?」
彼女は淡々と言葉を連ねた。
「え、うん」
僕の目は次に彼女の隣に置いてある大きめの段ボールにとまった。彼女が夢中になっていたあの装置が入っていた。
彼女に腰に挿していた拳銃を渡すと、彼女は点検をするように見回した。
「使い方は知ってるよな?」
僕は彼女への謝罪のタイミングを完全に失っていた。このままではその銃で撃ち抜かれかねない。そう思うほど冷たい口調だった。
「まずはスライドを引いて初弾を給弾」
彼女はチャキンとスライドを引いた。排莢口から一瞬薬莢が見えた。
「あとは安全装置を外して」
「ご、ごめんって。それシャレにならな」
言い終わらぬうちに天王寺は僕の頭に銃口を向けた。
「ごめん? 謝られるようなことあった?」
「え」
瞬間、とてつもない恐怖に襲われた。僕の目の前にいるのは天王寺ではなかった。顔も、声も彼女そのものなのに、まるで別人のようだった。殺意だった。
「あんた……天王寺だよな」
彼女は眉一つ動かさない。
「もちろん。でも彼女は昨日を最後にあなたとは別れたよ」
まさに今殺されかけていると確信するしかなかった。時間の流れが遅くなり、頭が打開策を見つけようと必死になっていた。でもなかった。僕の唯一の武器は彼女の手の中だ。
彼女は始めて少し口角を上げた。
「我ながら賢明だったよ。武器を与える。それだけで警戒なんてまずされなくなるし、信用も得られる。信用を得られれば、目の前で喜んで丸腰になってくれる。武器を隠し持つ必要もなし」
彼女の言葉は理解の領域に入らず、ひたすら頭の中で乱反射を繰り返した。
「角目も最後まで気づかなかったよ。身の危険は察していたようだけど」
「お前……」
「あいつの話を聞いたならもう理解できてるんじゃないかな?」
視界の端の段ボールが必死に真実を叫んでいるようだった。
「というわけだ。別れはもう済ませてるし」
彼女の人差し指が動いた。
「やめ」
刹那、凄まじい衝撃波が耳を貫き、空気が破裂した。
目を開けると、天王寺が驚きと苦悶に満ちた顔で立っていた。そのまま膝から崩れ落ち、太ももを抑えながら苦しみだした。
直後に濃い火薬の匂いと煙が漂ってきた。その方向を振り返ると、エプロン姿のままの店長が立っていた。片手に握った拳銃から煙が立ち昇っている。
「あんただったのね。私達からあの子を奪ったのは」
彼女の頬を伝った涙が、一粒地面に落ちた。