ピンボール
ドアをノックする音で目が覚めた。今が何時か気になったが、まずはドアに向かって足を動かす。
寝ぼけたままドアを開けた、が、目の前には誰もいなかった。
「ん」
下から声がした。見下ろすと天王寺が白けた表情で立っていた。
「なに、寝てたの? 珍しいこと」
「ご用件は何でふか郁弥ふぁん」
あくびをしながら喋る僕に対してのリアクションはなかった。
「あんたにも見せとこうと思って。完成したんだよ、あれが」
ひょいと現実に戻されたような感覚がした。音を立てて記憶が再構築されていく中、返答を急いだ僕は、そうか、としか言うことができなかった。
「まー興味ないだろうけど。とにかく来なさい」
袖を引っ張られて裸足のまま外に連れ出された。鋼板の冷たさに思わず変な声が出る。
彼女の家に入ると、いつもと違う雰囲気なことに気づいた。整理整頓がされているのである。
「こっちこっち」
天王寺は僕の袖を引っ張り続け、部屋の一角へ連れて行った。そこでは、僕が手に入れた板に様々なコードのようなものが取り付けられ、それらがまた別の何かのパーツへ繋がっていた。そしてその後方には小さなブラウン管が置いてあった。
「でかしたぞ佐原。この本のおかげだ」
天王寺はそう言い、隣に置いてあった本を僕の前にぶら下げた。
「そう……なのか?」
「ドンピシャ。この装置そのものについての本だったよ」
「よかったな」
僕には何が凄くて何が凄くないのかわからないので生返事をするしかない。
「で、なんの装置なの? できるだけ易しくお願いします」
そう注文すると彼女はパラパラと本をめくりだした。
「えっと、そうだな。機械の中で作業ができる。あと色々な情報を集められるらしい」
「情報? そんなものどこから来るのさ」
「外の技術では文字が空を飛ぶと聞いたことがあるぞ」
天王寺の言葉で僕は文章が空中を飛び交っている光景を思い浮かべた。
「あんた、今言葉のまんまのを想像したでだろ」
「……ばれた?」
彼女はわざとらしくため息をし、工具箱からドライバーを取り出した。
「そんなことよりも、だ」
彼女は板の端っこに先端を押し付けた。するとチッというような小さな音がしたあと、周辺のパーツが次々と動きだした。おそらくスイッチのようなものを押したのだろう。
「ほら見て見て!」
そう言って天王寺はすっかり彼女の世界に入ってしまった。口からは意味不明な言葉、それを早口で喋りながら装置を必死に操作している。
僕はすっかり傍観者となってしまったのだが、退屈ではなく、むしろ逆だった。この空間を心地良く、安心するような感覚を覚えた。
そして思考に余裕ができた僕はとんでもないことを考えてしまった。曰く、僕は天王寺が好きなのだろうか、と。
一旦頭がその方向へ行ってしまうともう後戻りはできなかった。確かに天王寺との付き合いは長い。十六歳のころにさなえ書店に努めることが決まり、一人暮らしを始めた。そして一週間も経たないうちに洗濯機を壊し、それを助けてくれたのが天王寺だった。
「……好きなんだろうなあ」
独り言でとりあえず完結させることにした。好きならばそれを告白しなければならないようなルールがあるわけでもないし……
僕の独り言が終わるのと、天王寺が手を止めたのは同時だった。
「お、なんだこれ」
ブラウン管の画面には、なにやら色々な大きさの文字が色々な所に散りばめられ、写真も所々に貼ってあった。
「えっと、内閣府? 政府の情報か?」
天王寺の隣に座り、一緒に画面を覗き込む。よく見ると様々な情報のタイトルのようなものばかりである。
「ん? この数字なんだろう」
画面の右下に小さく書かれた、「西暦1999年8月」の文字に目が行ったのだ。
「これは……暦だな」
「暦?」
「一日とか一年とか、そうゆうのを表すのに使うらしい。でも西暦は初めて聞いたな。まあ何かが起きてから千九百九十九年目ということだろ」
つまり外では今を西暦1999年と言っているわけか。でもそんなものを使ってなんの役にたつのだろう。
「八月は……十分の八年ってことか? 今は秋だから、一年の始めを春としたら大体合ってるけど」
「へー。計算速いじゃん」
「機械に弱いだけで計算は苦手じゃないからな?」
少し不貞腐れて見せたが、天王寺の視線はすぐにブラウン管に戻っていった。
「今後そんな情報が出てきたら年表とか書けるかもな」
「でもそんなに外の情報を集めてどうするのさ?」
そう言うと、装置に向かう天王寺が一瞬固まった。だがすぐに振り返り、にっと笑って歯を見せた。
「ワクワクするじゃん?」
とりあえずため息をしておいた。それが終わらぬうちにお腹が鳴った。そういえば今が何時かわかっていないままだった。
「あーまぁ今日はもう飯食って寝るわ」
再び恋などという余計な考えが浮かばないうちにおいとましたいと思った。
「そっか」
天王寺はそう言って再び装置に向き合った。玄関で靴を履こうとしたが、裸足で来たことを忘れていた。
「さよなら」
天王寺が付け加えるように呟いた。
瞬間、前の記憶がフラッシュバックした。あの時、カルド街への道の途中で角目文と別れた時の彼女の口調と同じだ。知人同士の情のない挨拶のような、でもどこか違和感のある言い方だった。
玄関で考えを巡らせてもしょうがないのでおうむ返しで返事をしてから外へ出た。
冷たい鋼板を踏みしめた足が少し悲鳴をあげた。
「おっはよおございまあす!」
声の主は部屋にはいない。隣だ。今日は少し早めに起きてしまった。
「半額半額! 今から三十分限定だよー!」
煽てられるようにベッドから跳ね起きた。せめて日によって文句を変えてはくれないのだろうか、そううんざりしながら体に染み付いた流れ作業で素早く身支度を整える。この声からいち早く逃げ出したいのである。
自分の身支度が終わったところで、上下右左前後の三六〇度で生活音がし始める。
勢いよく玄関のドアを開け、身を翻して素早くドアの鍵をかけた。外の鋼板を踏む音はますます大きくなった声にかき消されてしまった。
隣を覗くと、顔面めがけ容赦なく声の機銃掃射が始まった。
「おう! おはようサラ! 目え覚めたろ!」
いつもと変わらない光景だった。この人の声と文句とマッチョと仁王立ちは一生変わりそうにない。
「その呼び方やめろって言ってるだろ」
頭の周りにまとわりつく声を振りほどきながら、店内にならぶ水々しい野菜を眺めた。
「なんか買ってくかい」
ここでようやく声のトーンが普通になる。
「じゃあ……きゅうり一本、それとトマトも」
「おおトマトか、今日はいいのが入ってんだよ」
加川はその巨体を屈ませ、野菜たちの梱包を始めた。彼が屈んだだけで店内はだいぶ広く感じられた。
「ほれ、いっちょあがり」
巨大な手と小さな袋が目の前にあらわれた。袋を手から外し、代わりに代金を握らせる。上目遣いで彼を見ると、それもまたいつもと変わらぬ笑顔が張り付いていた。
「仕事頑張れよ。サラ」
店を出ると再び早朝セールの大声が響き始めた。ついでに天王寺の家も訪れてみたが、不在のようだった。
昨日の様子だと時間を気にすることすらできていなかったので、どこかへふらりと出かけているのかもしれない。あるいはドアを叩いても起きないほど爆睡してるか。
さて、今日はどちらの階段を使うか……
そんなことを考えながら歩いていると、ふと視線の先に人だかりのようなものが見えた。一つ下の層の、一つ建物を挟んだ向こう側だった。
手すりを引っ掴んで目を凝らすと、保安隊であることがわかった。彼らはオラムの治安維持のための武力を持った集団である。何が事件でもあったのだろうかと、好奇心と言うのか、野次馬精神が湧き出てきた。
彼らの頭上まで走り、そこからいつもの要領で一層下へと飛び降りた。飛び込んできた光景は想像より遥かに殺伐としていた。
彼らは上から降ってきた僕には目もくれず、周辺を調べたりなにかを確認しあったりしていた。そして彼らが囲む中央にシートが、何かに被せられていた。「何か」が何であるかは容易に想像できたが、あまりそれを認めたくはなかった。心にもやがかかった。なにかの考えを遮るように。
僕は、その場で監督のような佇まいをしている男に聞いた。
「あの、何があったんですか?」
男は、呟くように口を開いた。
「通り魔」
「殺人……?」
「でもただの通り魔じゃない」
男は自分の考えを整理するように言葉を並べ始めた。僕に話しかけられたことには気づいていないようだった。
「頭部が丸々切断されている」
僕の視線はシートが写す影に釘付けになった。心の中のもやが言葉一つ一つで晴れていくような感覚だった。そしてもやの向こうから現れたものは最悪だった。
「それも鋸で切ったものではなく、鋭い刃で一気に切ったような……そう、ギロチンのような」
僕の中でまさかの言葉と共に「最悪」が膨らみ始めた。
「『彼女』に争ったり抵抗したような傷はなかった。つまり後ろから剣のようなもので……」
「落ちた頭部は転がる。通路から落ち、鉄骨とやねの張り出したオラムの中をピンボールのように」
シートの端から血痕が伸びていた。既に変色しきったそれは低い方へと続き、通路の端へ……
「どれだけ切れ味のいい刃物でも、組織の詰まった首を切断するのにはかなりの技術が必要だ。ギロチンも重い刃を、固定した首に落とすことでようやく切断できる。効率よりも残虐さを優先した。つまりこれは……」
物が腐ったような匂いが漂ってきた。
「見せしめ……?」
男はそこまで言ってとなりの僕に気づいた。その時僕は、シートから目が離せぬまま体から力が抜け、その場に座り込んでいた。
「君! 大丈夫か!? もしかして話を」
「隊長! 見つかりました!」
下からよじ登ってきた保安隊の隊員が男に声をかけた。
「想定よりも損傷は激しくありませんでした。身元も判明して……この方は?」
「俺の独り言を聞いちまった。そこら辺で休ませてやってくれ」
隊員の一人に肩を貸してもらい、なんとか立ち上がった時、隊長とその隊員の会話が一瞬だけ聞こえた。
「しかしこれは個人的にもショックです。みんなこの子のこと慕ってたんですよ。元気で、活発で、それがどうして……」
「角目文、か。俺にとっても娘のような存在だった」