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Reverse Terra 第一章『揺蕩のレジナテリス』   作者: 吉水 愁月
第一章  揺蕩のレジナテリス
9/20

8. 双月

 バルコニーのベンチに腰をかけ、小さな噴水の向こう側に見える寄り添う大小二つの月に、

リコは何とも言えない懐かしさを感じて、ふっと右隣を覗きこんだ。


「綺麗ね、月。今夜は仲良く並んで見える……」

 フローラが月明かりに髪を流しながら見返す。

「お部屋、どう? 足りないものはないかしら?」


「カイルが『落ち着かない』とか言って床で寝てるよ」

 実際の所、食事を済ませると薄いシーツだけを床に引いてすぐに横になった。本人が言うには

硬い床じゃないと寝られないらしい。

 そう、と言って空を見上げる女王の横顔に、リコはどうしてこうなったのかを思い返していた。



 深夜、城の兵士に呼び出され、謁見場の脇の階段を上がり、左右に通路、中央に大きな窓と扉、

そして扉の外がバルコニー。迷うことなく右へ歩き、突き当たりの部屋を叩く――

「あれ……そういえば……ここに来る時……」


 城に入ってからの奇妙な感覚が消せず、奥歯に物が挟まったような感覚を何とか取り除こうと

右に左に傾げて揺れるリコの栗毛に、白く輝くように照らされた顔が寄り添った。

「思い出しましたか?」

「え、な、なに?」

「貴方は、1歳半までこの城に住んでいたのよ」


フローラの言葉に一瞬戸惑い身を引いたリコは両手で頭を抱えて小刻みに首を振る。

「えー? そんなわけないよ! だって、ずっと森……で……あれ」

 何も思い出せない――そんな仕草に気づいたのか、ふふっ と女王は笑った。

「そんな小さい頃の記憶、ないのは当然ね」



 森の木々、青い湖、上流の身を切るような冷たい水、激しい滝のしぶき。

どれだけ頭の中を辿っても、リコの記憶の中に大きな城は存在しない。しかし最上階に至る通路、

そしてこのバルコニーは特に強い既視感に襲われるのも確かだった。

 バルコニーという、森の家には存在しない場所。書物でも出てこなかった覚えのない言葉。

それらが頭の中で明確に結びついて、ここまですんなり辿り着いた事自体が、フローラの言葉の

正しさを証明していた。

 

 記憶の中の微かな欠片を寄せ集めようと、リコは空を見上げる。

浮かび上がってきそうで来ない、優しそうな知らない女の人の顔と、女王の姿がゆっくり重なる。

差し出された手をとって引かれるままに手すり越しに城下町を眺めた。


 暗闇の中に所々灯る明かりは、星明りを映す湖面のようで、胸が熱くなる。

眼前から右奥につれて強く濃くなる生活の印は、星の河のようにも見えた。


「少し……昔話をしましょうか」

フローラはリコの手を離して自らが治める国を視界に収めて同じように天を仰いだ。


「貴方が生まれた時、私は4歳……まだ前王、セシリア母さんが居たわ」

 母さん……

「私のね。貴方のお母様はヒルダという方よ。私は会った事がないのだけど」

 ヒルダ……母さん


 母の事を聞こうとすると、父はいつもはぐらかすので、リコも次第に口にしなくなった。

そうしろと言われた訳ではない。

しかし、初めて教えてもらった本当の母の名前を初めて心の中で呼ぶと、胸の奥からこみ上げてくるモノが確かにある気がした。


「貴方のお母様、私の母、そして貴方のお父様のヴァン様……城下町の石像を見たかしら?

彼らは皆、あのセプテムヘリオスの一人なのよ」

「へりおす?」


「《英雄》ね。 とても偉い人達のことよ」

「……えー!?!?」

「何も知らされてなかったのね。石像が風化してるから見ても解らなかったかもしれないけれど、

 あれを修繕するなって言ったのも貴方のお父様なのよ」


 《英雄》という者が、どういう人を指すのか、リコにとっては書物のおとぎ話の登場人物でしか

触れ得る機会が無かった。そして、それらと父がどうしても結びつかない。

「父さんは森を守りながら炭を焼いて干し肉を作る人、だと思ってたよ……」

「面白い表現ね」

 笑顔で答えて、再び隣に座る。


「そう……貴方はこの城に預けられて、お父様は城と森を行き来する生活をしていたわ」

「どうして??」

「それは私にも解らないのだけど……母さんはヴァン様が来るといつも嬉しそうにしてた。

あの方が森へ戻る時は、いつも悲しそうな顔に変わったわ」

 

 父と、前の女王、それに母。リコの記憶には無い3人の関係をフローラも良くは知らないらしい。

父に聞けば教えてくれるだろうか。今になってみると、リコには父に再会したら聞いてみたいことが山程あった。今までは聞けずに先延ばしにして来た事が。


「でもね、ある日、突然貴方を連れて森へ帰ってしまったの。母さんは寂しそうにしていたと思うわ……決してそうは見せなかったけれど」

「そうなんだ……なんでだろ。何も無い森の変な石なんかより、城に居ればよかったのに」

 心の底からそう思った。そうすればあんな寂しさも、通り過ぎた空しさも無かったのに。

 訳も分からず毎日毎日、きっと意味なんてない湖との往復をするよりもきっと、優しそうな女王達やエリアスと一緒に城に居た方が、リコにとっては幸せな日々だったはずだ。


「そうね。私もあれが何なのかは最後まで聞かされなかったけれど、森を保護区域にして立ち入りを禁止したのは、母さんやヴァン様の意向だから続けているの。けれど……私には理由が分からない。分からないから強くは止められないのよ。国民の皆が木材の調達で苦労をしているのは事実だもの。それがエリアスの気に障るのでしょうね……」


 エリアスの名前を出す時に曇るフローラの表情がリコには不思議で仕方が無かった。

ずっと父と二人きりで暮らしてきたリコには、二人の関係が羨ましく思えた。


「貴方はエリアスをどう思う?」

「え? すごいよ? 火を吐く獣だって一撃で首を飛ばしちゃったし!」

「そうなのね」

「うん……けど、なんかいつも怒ってるように見えるね。ちっとも笑わないし」

 それはカイルにも言えるが、どうして彼らはいつもあんなに楽しく無さそうなのか。

 森を出て王都に来るまで、話しているのはほとんどリコだけだった。どちらも話しかければ返事はしてはくれるものの、会話が弾んだと思えた事は一度もない気がする。


 「そうね……あの子も昔はよく笑う子だったのよ。母さんがまだ生きている頃の話だけど。 

ねぇリコ、あの子の友達になってあげてくれないかしら?」

「ともだち?」

 その言葉の意味は理解出来ても、それがどういう意味を持つのか、どうやったらなれるのか、

リコの今までの暮らし、父が教えてくれた生きる為の方法の中に、その手段がどこにも無かった。

 森には他には動物しか居なかった。それは基本的に獲物としてであって、戯れに語りかける事は

あっても。心が通じるようなことなどは決してなかったのだから。


「ええ、貴方がどうしてヴァン様に言われるがままに、城まで来たのかは分からないけど……

しばらくあの子と一緒に居てあげてほしいの。あの子はいつも一人だから……」


「そういえば、カイルの話では鍵を持って女王様に会いに行けってだけで、これからどうするかとか何も聞いてないんだよね。聞いてもあの仏頂面で『解らない』っていうだけだし」

「森の……石柱の件はもう良いのかしら? ヴァン様もヒルダ様も、随分長い間レインフォールを

守り続けてきたはずだけれど……」

「だよね? 急に居なくなって、城に行けとか、何で今までずっとあそこに居たのさって思うよ」


 父と共に湖を見守ってきて何かが起きたことは一度もなかった。

近づかないように言いつけられて居た事もあり、なるべく湖には入らないようにしていたが、

入っても特に何もなかった。カイルなんて湖に身体ごと沈んだというのに。


「そういえば……あの石柱は、中に何かを封じているって、昔母さんから聞いた事があるわ。

それが何かは教えてくれなかったけれど」

「別に何もなかったよ? 物音がしたことも……もちろん声が聞こえたなんてこともないし、生き物の気配とか、そういうの全然無いんだよ。本っ当にただの石! 何かあれば少しは分かるはずだよ」

 そうだ。気配どころか、この城と同じように、何の感情も持ってない冷たさ、寒さすら感じた。


「そう……この鍵に関係しているような気はするのだけれど」

 そう言って首飾りと思われた、細くて白く輝く鎖を引き出した。

「あ! 女王様も持ってたんだね」


 薄っすら白い鍵はやんわりと光を反射して、それ自体が弱々しく光を放ってるように見えた。

「ええ、これは母さんから受け継いだもの……ねぇ、私のことはフローラと呼んでくれないかしら」


「えー、けど女王を呼び捨てにするのは良くないんじゃないの?」

 そうかしら、といって拗ねるように俯く女王の、美しく垂れ下がる長い髪と突き出した唇を見て、リコはなんだか居たたまれなくなって身振り手振りを始めた。

「じゃ、じゃじゃじゃ、じゃあさ! フローラ姉さんで……どうかな?」

「姉さん?」


 そうつぶやくと、もう一度軽く笑って、両手で潤んだ目をぬぐった。

「うん……ごめんなさい。もう……長い間エリアスにはそう呼んでもらってないから」

「そうなの? 呼べば良いのにね」

「あの子にとっては……きっと、今の私にとっても簡単なことじゃないのよ」

 

 父を父、母を母と呼べない関係というものが、もしあるのだとしても、正直分からないし、

今のリコにはきっと理解することは出来ないだろう。



「ところで、リコはどう思った……? あの帝国の皇女の事」

「あ……」

 言われるまでしまい込んでいた鈍い痛みが、呼び戻されるように小さな胸を突き刺した。

「どうしたの?」

「うーん……ちょっと後悔……してるんだ」

 首を傾けて言葉を待っている様子のフローラから目を逸らす。

「獣と戦った時は……怖かったけど、後悔はしなかったんだ。カイルを射った時は防がれたし……

けど……なんか悲しくなった。あの人の足に刺さった矢を見た時……なんていうのかな」

 

 リコは右腕の袖を少しまくって、カイルに庇われて転倒した時に出来た擦り傷を見せた。

そして、流れる血を見たときの赤い色が、濡れた地面に滲んでいくのを思い出して、自然と震える手を止められずに、背中越しに隠す。

「ちょーっと腕を切っちゃったんだけど、こんなのでも痛かったのにって思うと――」

 ふっと、フローラは柔らかな波毛に、手を触れた。

「……貴方は優しい子ね」

 そう言いながらフローラは手をリコの右腕に移して、優しく撫でる。


 そうして見つめながら穏やかに続けた。

「人が人を傷つけるのは、理屈じゃないと思うの。剣を振るえば、矢を打てば……人は死ぬかも

知れない。殺してしまうかもしれない。そうでしょ?出来ることなら……話し合いで解決したい……間違ってるかしら?」

 絞り出すように話ながら、苦しそうに思いを吐き出した。

「エリアスにもそれを分かって欲しいのだけど……」


 リコにはフローラの表情の曇り空の理由が良くわからなかった。

どうしてお互いに思った事を言い合わないのか。フローラの言っている事も分かるし、エリアスが

女王の事を心配しているのも何となく分かる。カイルの言葉は難しくてよく分からないが、

二人が言い合っている事の原因が、あのリアーナだという事だけは理解出来た。

「そう、なのかな? えーっと……それじゃ、あの皇女? はどうするの?」


「エスパニ領主に橋渡しをお願いして帝国へ引き渡そうと思うの。流石に自由にする訳にはいかないから……護送をお願いしないといけないわね。エリアスはまた怒るだろうけど」

 フローラの言う『話し合い』が、本当に意味があるのかは分からない。あの皇女と戦った時も、

すぐに説明をしようとしたけど聞く耳を全く持たなかったのだから。

 もっと言葉を尽くせばよかったのだろうか。

「早く治れば良いんだけどな」

「そうね……貴方は洗礼を受けたことはあるかしら?」

「せんれい?」

「どこか水にまつわるような場所で、何かしらの……儀式とかを、受けたことはある?」

 そういえば、レインフォールの奥の滝……あの奥にあった祭壇――

「……貴方なら出来るかもしれないわね。もう血は止まっているみたいだけど……腕見せて」

 

 促されるように、再び傷を見せる。

 フローラは両の手を胸の前で組んで、俯いて目を閉じると、歌うように祈った。


《……ego…… spero……caritas……aqua》


 ぼんやりと光りだした掌を、静かに離して暖かな手を傷口に覆い、少し浮かせる。

 かざした白い手が、ほのかに赤く染まり、小さな粒が漂うようにあふれ出る。光の残像が細い手のようになって傷跡に触れると、温かい物が腕の中に流れ込んでくるような感じがした。

 しばらくの間、流れるような光の河を眺めていると、いくつもあった赤い斑の線が、まるで盛り上がるように埋め尽くされて、滑らかな皮膚を取り戻していった。

「うわ、なんで!? 傷が……消えた!」

「これはね、水精術アクアスペルの一つよ。水の精霊の力で傷の治りを早めたの。この世の全てを司る、大いなる加護の力――精霊力エレメンタルフォースと呼ばれている物」

 ……急に難しい話になったぞ。

「スペル……エレメ……ン?」

「細かいことは覚えなくても良いわ。さっきの言葉、あれだけ覚えて。そして、唱えるの。 心の中で……深く、強く願いながら」

「ego……なんだっけ」

 微笑みながら懐から小さな薄い欠片と、細い棒を取り出す。

「この紙に、いくつか書き記してあげるわね」


 森の家の本棚に並んだいくつかの書物は、ツルツルと滑るような紙に沢山の絵が描かれていた。

小さい頃、机に並べて眺めて見ては様々な色とりどりの世界を卓上に夢見て心を躍らせたのだった。


 どうぞ、と差し出された小さな紙の欠けらを受け取って見ると、表面がザラザラしていて、所々に凹凸がある。空にかざすと月が薄茶に透けて見えた。


「……余り綺麗じゃないね」

「そうね、けどこれ結構高いのよ? だから小さく切って使っているの」


「これ、いつも持ってるの??」

「そうね、政務中は書記官に任せてるけど、普段は何かあった時用に……はい、貸して」

 貴重な紙を返すと、木の棒らしきものの先をペロっとひと舐めして文字を書き始める。


「城にも書物は沢山あるけれど、あれがどうやって作られたものなのかは誰も知らないのよ。

そういう書物は《古書》と呼ばれているわ。こういう紙を何枚も積み重ねて結わえてある物、それを《新書》というの。新書は沢山あるから時間があれば見てみると良いわ。誰が書いたなのかは、

解らないのだけれど」


「この、3つの……術? はどういったもの?」

「一番上のこれは、さっきの治癒術ね。《Treat》と言うの。真ん中は《Splash》、水の力を強めるの。そして最後が……」


 寄り添って一つ一つ教えてくれるフローラの花のような香りと、交差する二つの月明かりに優しく包まれて、深く静かに輝きを増していく夜の中、大きな安らぎを感じていた。

 

 もし……母さんが生きていればこんな感じだったのだろうか。そう思うと、やっぱりどこか奥の方で、言葉に出来ない思いが胸を叩くのだった。




 ***


 ランタンの薄明かりを頼りに、リコは昼間エリアスが降りていった地下への階段を下る。

夜ということもあってか進むほどに肌寒さが増して、両壁に掛けられた松明の灯かりすらも地下に

降りていくほどに弱まっていくような気がする。

 地下牢と言われるその場所は、どうやら悪い人間を捕まえる場所らしく、城内の他の場所とは全く違い暗く陰気な空気で満ちていた。


「脱獄させないように気をつけろよ」

 そう言われながら、大きな門を開けてくれた看守の兵士に鍵を借り、更に暗い通路を奥へ進む。

コツコツと自分の足音だけが響く牢内は、夜の森とは違う不気味さを感じさせる。通路の左右に動物を入れておく檻をそのまま大きくしたような部屋が並んでいるが、中には何も居ないようだった。


 そして、一番奥の左側の牢の前に来ると、中に人の影が見える。

顔は確認出来ないが、何かしらを体に巻いているようだ。他の檻には誰も居ないのだから恐らく

リアーナで間違いない。

 

 ランタンを前にやり、手探りで入り口を探す。



「……こんな時間にわざわざ殺しに来たのかしら?」

不意に届いた声は驚く程に透き通っていた。


「殺し…って、違うよ! 謝りに来たんだ!」

「あやま……は!? バカじゃないの?」

 檻越しに話していてももどかしいだけなので、それ以上は答えず、細い鍵を鍵穴に入れて、

鈍い金属音と共に重い錠前を外した。

 軋む扉を開けて、ランタンを牢外の床に置き、いっそう暗い牢内に入る。


「ちょっと、なんで入って……本当に始末しにきたんじゃないの?」

「違うってば」

 警戒して身を引く人影の隣に膝を付くと、暗闇よりも少し明るい肌色がリアーナで間違いない事を証明してくれた。薄手の毛布に包まっているようで裾を探すが暗くてよく分からない。


「右足だして」

「ふ、ふざけないで! お前が射ったんでしょ!!」

「だからだよ! いいから!」

 つい大きな声を出してしまったからか、リアーナは鼻息を立てて諦めたように目を逸らす。

渋々細くて滑らかな足を、裾からひょっこりと覗かせてリコの前に晒した。

 褐色の肌は完全に暗がりに同化して、牢外からのランタンの光では確かめることができない。

火は持ち込まないように注意を受けていたリコは、指で撫でながら傷跡を探した。


「……っ」

 ぽっこりとした盛り上がりと、まだ少し濡れているくぼみが、指先に触れる。

「あ、ごめん……痛かった??」

 リコはソッと人差し指で傷の縁をなぞって大きさを確認すると、反対側を左手で押さえて

包むようにして、少し隙間をあけた。

 

「ego……なんだっけ。えーっと……」

 懐から貰った紙片を出し、書かれた一番上の文を覚えて、そして読み上げる。

 言われたように――深く、そう、願いながら、ぎこちなく唇を開いた。


《e…ego……spero…… caritas…………aqua》

 言葉尻に反応して両手の指先がぼんやりと光り、やんわりとリアーナの素顔を照らした。

赤い髪は初めてみたけど、血の赤というよりは、温かい暖炉の火の赤に似ていた。


 緩やかにこぼれだした光の粒は、リアーナの傷を舐めるように優しく覆う。

「お前……それ……」

「水の……なんだっけこれ?」

「スペルでしょ!」

 次第に頭がクラクラして、目の前がぼやけて見える。ほんの少し前にスペルを教えて貰いながら、フローラが言っていた事を、リコはまどろみの中で思い出した。



《水のスペルはね、自分は癒せないの。他人しか癒せないのよ――》

《――使いすぎたらダメよ。これは自分の血液を触媒につかうから》



 真剣な瞳と声で、最後に語った言葉が、鮮明に頭の中に流れた。


『人を癒そうとすることは、自分が傷つくことと同じなの。それを、忘れないでね』



コは波打つ心臓、腕、そして仄かで暖かそうな光とは対照的に、冷たく感じる指先を順に見た。

……自分がつけた傷を見続ける痛みに比べれば、どうってことはない。


そんな風に、確かな迷いと後悔の渦の中でゆっくり口を開いた。


「……本当、ごめんね。あの時は仕方無かったけど、なんか君の血をみたら……なんか……ね、

急に胸が苦しくなって、どうしたら良いのか……すぐには解らなかったんだ」

 自然と出た気持ちだった。これから先、またどこかで誰かと戦うような事があったとして、

同じように矢を放って、同じように誰かを傷つけることができるのだろうか。


「軟弱ね……なんでお前が私を治す必要があるのよ……バカじゃない」

 先ほどの強さを含んだそれとは違う声色で、リアーナは同じ言葉を呟く。

「……そうかもね。君の友達もごめんね」


 友達――あのような恐ろしい獣に親しみをもてるかどうか、リコには理解出来なかったが、

リアーナにとっては大事な存在であったことは、炎のような怒りを思えば確かだろう。

「ねぇ、あれって何だったの?」


「……あれはワイバーン。騎竜と呼ばれるものよ」

「わいば? きりゅう??」

 どちらも初めて聞く単語だが、あの、火を吐く翼獣を言っているのだろう。


「乗って、空を飛ぶための――」

「とぶの? あれに乗って?」

 鳥に乗って空を飛べたらなんて考えたことはあったが、いくらリコでもそれが無理なことくらい

もう知っている。火獣の羽を見た時にも感じたが、本当にあれは空を飛ぶためのものだったらしい。しかもリアーナは人を乗せて飛ぶ、と言う。


「お前、ワイバーン、見たことないの?」

「飛んでる生き物なんて鳥しかみたことないよ。しかもあんなに大きいのに飛ぶなんて……」


「ワイバーンは合成獣って言われているものよ。私は研究者じゃないから知らないけど、そこら辺に居るような生物じゃないし、気性も荒いから懐いて居たとは言えないわ……愛着はあったけどね。

それに、人を背に乗せて飛べるほどの騎竜は貴重なのよ」


「……どれくらい飛べるの?」

「距離はそれ程じゃないわね。私も途中海に落ちるかとヒヤヒヤしたくらいだし……」


 

「そっかぁ……乗ってみたいなぁ……この辺にも居るかな?」 

「知らないわよ……帝国でも帝都への渡しにしか居ないもの。王都には居ないの?」

「ずっと……森で生活してたから……父さん以外の人に会うのも初めてだよ。女の人に初めて……

あれ……女王が先なんだっけ……」

「し、しらないわよ! バカ!」

 声を張り上げてそっぽを向いたリアーナの横顔は、戦っていたときの険しさが消えていて、

恐ろしい術を使うような人にはとても見えない。フローラとは違った美しさがあった。


「ちょっと……お前、大丈夫……なの?」

リアーナは頭を下げて床を見つめるリコに問いかけた。


「え……? うん……平気」

嘘だった。

血の気が引いたと言う言葉がしっくり来るほどの倦怠感がリコを襲っていた。

しかし、それを悟らせてはいけないと、リコは重い顔を上げて無理やり笑顔を作った。


「ねぇ……そう言えば君、すごかったね。なんかこう……綺麗だった」

「は、はあー!?」

「ほら……ぴょんぴょん飛び跳ねるのが……こう、バンビみたいで……」

「な、なんか他に言い方はないの!?」


 上手い表現が思い浮かばなかったが、自らの足だけで空を舞っているようなリアーナ動きは、

まるで踊っているかのようで、リコは戦いの最中にも関わらず一瞬目を奪われてしまったのだ。


「おかしな奴ね……」


 指先で傷跡を確認すると感触が無くなっていたので、手を離して顔を近づけて目を凝らす。

そこにあった穴の痕はすっかりなくなっていて、滑らかな肌を取り戻していた。

「……うん……治った……かな?」

「……痛くない」


 ジッと素足を見つめた後、ヒョイっと毛布の中に引っ込める。寒いのだろうか?

「アクアスペルを見るのは久しぶりね……にしても、詠唱も覚えてないの?」

「……初めて使ったからまだ覚えられてないんだよね」


「は? スペルは洗礼と鍛錬が必要でしょ?? 何より一番大事なのは素質で、それが無い人は

使いたくても使えないし、それ以前に覚えてすぐ出来るようなもんじゃないわ!」


 リアーナの足から手を離してスペルを終えた事で、ようやく意識が巡り始めたリコにとっては、

彼女の疑問や憤りが正直どうでも良かった。


 「ていうか、そもそも覚えてもないんじゃない!?」


 ただ、確かにリアーナが言うように、慣れない自分が真似をしたからか、先ほど目の前で手本を

見せたフローラよりもよほど体力を消耗している気がした。

ふらつきは大分マシになったものの、今度は強烈な眠気が襲う。

 今のリコには余り頻繁には使えない不便なスペルのようだ。


「そうなの……? まぁ出来たし良いんじゃない」

「なによそれ……それって……」

 気を使わせても悪いので、気づかれる前に帰ろうと思い、リコはゆっくりと立ち上がった。

倒れないように、よろめかないように最大限の注意を払いながら両足を踏ん張る。

「じゃぁ……僕、もう行くね」

 来た時よりも視界が暗くなり、ランタンの明かりすらも眩しくて仕方がないのを耐えながら

遥か遠くにすら感じる牢の扉を目指そうとする。

「……ちょっと。 その……ありがとう」

 ふとかけられた感謝の言葉に顔がゆるんだ気がした。



 そうだ。

 もし傷つけてしまったら自分で治せば良いんだ。

 確かにちょっと辛いけど……我慢できないほどじゃない。


 長い階段の階下の壁に手をついて、暗い地の底から上階を見上げると、

ぽっこり開けた入口から、暖かな月光が差し込んでいる。


 一歩づつ、一歩づつ昇りながら、

今まで沈んでいた気分が嘘のように、晴れ渡っていった。


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