5. 紅焔
思いがけぬ獣との交戦により、森を抜けられず野営をする羽目になったリコとカイルだったが、
思わぬ所で食料が確保出来たので問題はならなかった。
敢えて挙げるなら、表皮が硬く捌くのに苦労をした点、筋肉質で歯ごたえが強すぎたのと、
そして大きさの割りに可食部が少なく、携行食を作れるほどではなかったこと。
傍らには山積みの骨と、目が合わないように――地面に伏せさせて見えなくした異形の頭、
大きな両翼が散乱している。
それらの後始末を後回しにして黒髪の少年が燻る焚き木に向かって口火を切った。
エリアス――と名乗った、翼獣の首を斬り飛ばした少年は、城の護衛兵だと言う。
互いにぎこちない自己紹介を交わして敵意が無いことを大前提で確認をした上で、
延焼で出来た空間から外周縁寄り、倒れた倒木を椅子に、残り火を種火に、野営を始めて今に至る。
「レインフォールから来たと言っていたが……ここが立入禁止区域なのは知っているな?」
問うエリアスの目を真っ直ぐ見据えてリコが答えた。
「そうなの? けど僕は生まれてから一度も森を出たことがないよ??」
「な、何?」
事も無げに言い及ぶリコの言葉に偽りは感じられなかったようで、驚愕しながら推考を繰り返し、カイルを一瞥して続けた。
「それで……お前たちはどこへ行くつもりだった?」
リコはカイルを見て、軽く首を傾ける。
「えーっと、父さんに頼まれて……その城? に……向かってる……んだよね?」
再度反対に首を傾けたリコを見て、カイルがゆっくり頷いた。
「城……何の為だ?」
怪訝そうな顔をしてエリアスは薪をくべる手を止める。
「よく知らないけど……人に会うように言われて……るんだよね?」
リコが同意を促すと、再度カイルは頷いて応じる。
「こい、つ、と、同じ、髪色、をした、人、に会え、と言われ、た」
エリアスはリコの軽やかな栗毛を見て、目を細めた。
「髪……女王か?」
「じょおう? 何それ?」
リコにとっては聞き慣れない言葉、見慣れない人物は全てが初めてで、問答で情報を得ようとするエリアスとの会話は、もどかしく絡まった。
「……いや、いい」
呆れたような顔をして、無造作に薪を焚き木に放り込んだエリアスは、一時思案する。
「まぁいい……もし、お前達が――」
――ピュィィィ
そこまで話した時、三人の鼓膜に振動を伝えた音色が、エリアスの語尾を妨げた。
「……何の音だ?」
即座に立ち上がったエリアスが左の腰に手を当てる。
釣られて立ち上がったリコは寝かせてあった弓の穂先を立てた。
――ピュゥィィィィィィィ
「何だろ? 笛?? 何かさっきより大きくなってるけど」
ゆるりと立ち上がったカイルも、立て掛けてあった槍を手にする。
……――ージュ!
「……人か?」
エリアスの言葉に呼ばれるかのように、草木を掻き分ける音と共に、徐々に大きくなる声。
リコは即座に弓を構え、目で合図を送ったが、エリアスは左手を出して動きを静止した。
それを見守ったカイルも、合わせて手に取った槍を地面に突き立てる。
ガサガサ と、木々が奏でる音が大きく、大きく、近くなる――
フラーン……!
草むらから出てきたのは―― 火獣の炎を連想させるように流れる長い赤髪を後ろで結わえた女。
「なんだ貴様らは!」
焚き木の明かりに照らされた褐色の肌。
輝いているように美しい女が順に3人を睨む。
積み重ねられた骨と、打ち捨てられた翼を見て察した女が猛った。
「貴様ら……まさか!!」
右腰に手を伸ばす女に、三人は大きく退いた。
「ま、待って! 話を……」
リコの言葉を吼えるような女が掻き消した。
「黙れ!! 貴様ら、私のフランベルジュを……」
「け、けど、そうしなきゃ僕たちが――」
「ふざけるな!」
図らずとも肯定の意になったリコの言を受けて、右腰に備えた黒い輪状の物を左手で掴み、
大きく後ろへ振り上げた。
刹那の静止――
直後その先端が鎌首と化し、音の速さで眼前の視野を真っ二つに切り裂く!
一番前に立っていたエリアスが大きく右に飛び退くと、
ズバンッ! という衝撃音と共に、先ほどまで立っていた場所の地面が抉れ、
後ろと左右に弾け飛んだ。
「な、なにあれ?? 黒い……蛇?」
振り上げる姿と跳躍が蛇のそれと酷似していると、リコには感じられた。
「いや、あれは……鞭だ。 にしても……あんな威力ありえない」
よく見るとエリアスが鞭と断ずる武器の先、鎌首の所に鋭利な刃がついており、
リコにはそれが蛇と錯覚したようだ。
女は再び左腕を上げ、頭上で鞭を旋回させるながら狙いを定めている。
「ど、どうしよう」
「お前達は下がれ、動きを読むことに専念しろ」
そう言い剣を抜いて構えた動きに促されるように、リコとカイルが目配せをして、左右に下がる。二人の森人は、焚き火に照らされる女の姿を見失わないようにと夜目を凝らして即応態勢を取った。
丁度三角形の頂点のようになったエリアスに、前触れもなく黒蛇が空を引き裂いて飛びかかる――
咄嗟に突き出した剣と刃の衝突により発した不快な金属摩擦音が火花を伴い、逸れた鎌首が、
エリアスのすぐ左側の地面を再び破砕する。
驚愕の表情を押さえ込んだエリアスが、返しの隙を突いて突進した。
伸びきった蛇鞭の胴体の下を潜り抜けるようにして、右手の細身の剣から放たれた幾条の閃光が、
眼前の敵を襲う。
女は剣撃の範囲から外れると同時に、左手首を大きく後方へ返して、叫んだ。
「甘いわ!!」
シュルッ と引き戻された鞭の胴が、エリアスの両腿に巻きつき、さながら大蛇に締め上げられる野鼠のように絡め捕った。
すかさず女は身を一回転して翻し、自らの肢体で鞭を巻き取る。
足を引き寄せられたエリアスが、もんどりうって尻もちをついた。
屈辱に滲んだ顔で見上げた相手に、エリアスが叫ぶ。
「くっ! おい!お前、何者だ!」
「私は帝国第三皇女、リアーナ・ガーランド!」
即座に答えた褐色の女は、しゅるっと、自らの胴から鞭を緩め引き戻すと、右の指二本で鎌首を
挟み、再び左腕を振り上げた。
「て、帝国の人間がなぜこんなところに……!」
「貴様らに話すことなど、何も……ない!」
二度、三度と、幾度も繰り出される流星のような飛突を、エリアスは紙一重でいなしながら
少しずつ距離を離し、後ろの二人を見ずに軽く顎で合図を出す。
《お前ら、手を貸せ》と、無音の声に呼応するように、射程外を保ちながら鶴翼に並ぶ三人。
それを見て、リアーナが大きく右足を踏み込む。
地面から伝わる力を旋回させた鞭に乗せ、水平に、広範に、左から右へ薙ぎ払った。
空を裂く音に反応するように回避に追われたエリアスとリコが体勢を崩す。
最後に訪れる形になった攻撃を、カイルは予測していたかのように、
体躯を地面と平行に跳躍しながら、斜め前方方向に一回転――着地と同時に槍を突き立てた!
「くっ!」
槍の一閃を弾けないと判断すると、リアーナは自らの跳躍力だけで背面宙返りで躱した。
「うわ、バンビみたいだ」
動静を嘱目するリコが感嘆を漏らす。
華麗に着地したリアーナは鞭の柄と中腹を左に持ち、再び反対の指で鎌首を抓まむ。
「ちょろちょろと……面倒だ!」
パンッ と鞭を張り詰めさせて疾呼すると、それを前方へ突き出す。右の人差し指と中指で
挟んでいた穂先を離すと、だらりと垂れた尖牙の上で三本指を突き立て中指に口を付けた。
「……あれは!」
「何?? どうしたの?」
「印……火精術か!」
「な、なにそれ??」
「フラン……お前の残り火、使わせて貰うぞ……ego……spero」
文言を唱え始めたリアーナを見て咄嗟にエリアスが声を張り上げる。
「備えろ! くるぞ!」
触発されたように三歩下がったリコが、異変に即応せんと周囲を注視する。
女のしなやかな声に応じるように、火獣が焼き払った周囲の燻りや火の揺らぎが
小さな粒子となって指先に集積し、垂れ下がった鞭の胴体に油が滴るように火が垂れる。
「……vis……Ignis!!!」
吸い込まれるように消えていった火粒が、語尾に呼応するかのようにゴウっと燃え上がり、
黒い鞭は火の蛇と、その姿を変える!
「うわっ、なにあれ!」
リコの驚きの声も、自らの頭上から零れる炎も意に介さず、リアーナは火鞭を輪転させる。
先ほどの薙ぎ払いを繰り返し、繰り返し、何周目かに力を乗せて踏み出さずに振り抜いた!
ボウッ
燃焼音が放った紅蓮の刃が、獲物を狙う猛禽のように襲い掛かる。
カイルは容易く切払い、咄嗟にエリアスが地に臥す左後方で、射程外に居たリコが爪弾く。
リアーナは飛来する矢を、半歩で軽快に避けて見せた。
間髪入れずに、左右に往復するように振り続けられる鞭から、飛び立つ渡り鳥の群れのように
二羽、三羽と放たれる火の刃。
一歩前に出たカイルが槍先を――右、左と、交互に迎撃し撃ち落とす。
しかし、銘々が対応に追われ、次第に立ち位置は散り散りとなった。
反撃の糸目を見つけられない手詰まり感の中、リコとカイルの目が合う。
距離があり意図が疎通しない二人の気配を察したエリアスが、時間を稼ごうと試みる。
「……リアーナ、とか言ったな! 帝国と我らノルドランド王国には、不可侵条約があることは
知っているだろう! なぜ何の断りも無く国境を越えた!?」
攻撃する手を止めた褐色の女は、端整な顔立ちに不釣合いな冷笑を見せる。
「知らんな! そうだとしても私には関係ない!」
「我らが先代の王、セシリア・ノルドランドと、貴公の父王、グレッグ・ガーランドは旧知の仲だと聞いている! 彼らが交わした約定を、今一度皇帝陛下へ確認してくれないか!」
会話に紛れてカイルが丁度エリアスの背後に回り、リコに囁いた。
「着地、を、狙え」
「知らんと言っている! 貴様らに話すことなど……なにもない、と!」
力を込めて振り上げられた鞭が高く天を指す間隙を突いて、カイルが獲物に飛びかかる獣のように静かに地を蹴り、エリアスの背後から先頭に踊り出る。
「なめるな!」
怒声と共に振り落とした尖刃が、雷のように一直線に襲い掛かる――
カイルはエリアスの前で仁王立ちになり、槍の中央を二本の腕で握り、高速回転させた。
旋回する槍が真円の盾となり、先端を弾き逸らすと、雷蛇の胴を回転に巻き込む――
「くっ……!」
引き寄せられる鞭の柄を離してしまい、吃驚するリアーナに向かって、カイルは巻きついたそれを構う事もせずに、突進し槍を下段に突き立てた!
已むを得ず後方へ、先ほどよりも高く宙を舞うリアーナ――に、見とれてしまいそうになるのを
振り払って、リコが馬手を解き放つ。
着地を狙った矢が軽い弧を描いて、空間を抉るように滑空し、右足ふくらはぎを貫く。
動きを封じられたリアーナは呻き、回転の慣性を支えられず後方へ二転、三転した。
「捕らえろ!」
エリアスに促されるように、奪い取った鞭でカイルがリアーナを縛り上げようとする。
「くっ……離せ! 無礼者!!」
苦痛に歪むリアーナの目に光る物が滲んで揺れた。
「は、離せ……っ!」
大きく手足をバタつかせ二人の腕から逃れようとする女を捕えようと、エリアスが鞭を取り、
カイルが後ろ手に組伏した。
「イヤァアァァァァァアアアアア!」
「おい! 黙らせろ!」
と言うエリアスの一言に、一瞬も迷う事無くカイルは、リアーナの下腹部に拳を叩き付けた。
ウグッ と低い声を漏らして気を失うリアーナと、物言わぬ女を伸縮する黒鞭で縛り上げる二人を眺めながらリコは、雨に濡れた地面に滲む真っ赤な血を視界に入れた。
緩やかに拡がる血の跡。
そして小さく声を漏らして、目を背けた。
降り止んだ雨はリコの心の中に再び降り始め、重く冷たい、黒い染みを広げたかのように、
例えようの無い迷いと切なさを刹那に孕んで悔恨の表情を漏れ零させた。