2. 憧憬
深緑に朱の帯が幾重にも射し込み、直立した木々が円い黄金に滲んで溶ける。
質素な丸太小屋の裏手に設けられた石積みから、立ち上る煙の勢いが霞み始める。
無造作に転がる丸太に腰を掛けて燻りを眺めていると、暖炉の赤熱が幼い頃のぬくもりと、
そして、それらを覆い隠し押し潰すような白銀の山嶺を懐い出させる。
近頃は想う事も少なくなった『故郷』への郷愁を、供養がてら薪に添えて焼べる。
パチパチ と爆ぜる音が、心の奥に追憶の種火を灯そうとするが、《表》から近づいてくる獣ならざる気配が、意識が望遠の渦に巻かれるのを引き止めた――というより普通に足音が夕刻を告げる鳥の声に割り込んで鼓膜に届いただけだが。
「見回りは終わったのか?」
作業をしながら首を支点に、視点だけを背後に向ける。リコの隣に立つ褐色の大男を視認して、一瞬、鼓動が高鳴るのを感じたが警戒に値するまでには至らなかった。
「お前は・・・・・・」
本来であれば侵入者である時点で即排除すべき異物だが、黒褐色の肌、長身の風貌、夕日に同化するような坊主頭、そして仏頂面が背負う無骨な長槍を見るにつけ、不意に上がった口角と、逸らした視線を平静を装って、戻した。
「そうか・・・・・・お前はアイツの――」
男が反応するより早くリコが割り込んだ。
「さっき湖で会ったんだけど、父さんに会いたいって言うから連れて来たんだ」
不審者や侵入者が居ないかを見回る事は教えたが、『排除』の仕方を仕込み忘れて居た事に今更ながら気づいたが、今それを問うても意味の無いことだ。
「あ、でもねでもね、矢も射たんだよ! けど避けられるし、切られるしで……」
当たり前に物騒な事を言う息子の言葉を聴いて一気にバツが悪くなった。
頭を掻きながら立ち上がり、振り向いて会釈して言葉を継ぐ。
「あー・・・・・すまねぇなそれは。こいつも悪気はねぇんだ」
怒りも憤りもせず軽く目を伏せ斟酌の意を表す青年に、久しく名乗っていない名を告げる。
「俺はヴァレリ・・・・・・いや、ヴァンで良い、宜しくな」
ズボンで拭いた右手を男は抑揚なく握り返して、軽く会釈を返した。
「カイ、ル」
年若で育ちきっていない感はあるが、鍛えられた体は鋼とまではいかずとも鉄くらいには見える。体格から見て20代前半といった所か。鋭利な眼光は研ぎ澄まされた刃物のようで、
それでいてアンビバレンツな幼さも同居している。黒豹のような青年だ。
それ故にか、背に背負う槍が妙にミスマッチしていて何とも微笑ましく思えた。
「その槍は親父のだな。元気にしているのか?」
「解、りません。随分会っ、ていま、せん」
随分というのがどれくらいを指すのかは解らないが、俺がアイツ――カイルと名乗る少年の父親と最後に言葉を交わしたのは五十年祭の後だから随分前の事だ。科学的な通信手段が存在しないこの
世界では生死すら知る術が無かったのだから、存命を確かめる事が出来ただけでも心から嬉しく思う。そして同時に安心と同量の疑問が湧出する。
この青年は何故ここに来たのか。湖で何をしていたのか。あの石柱の場所は限られた者達しか所在は知らない。これらの条件から導き出されるアンサーは一つしかない。何故今になって袂をわかったアイツが息子を俺の所に寄越すのか――を考えれば。
「あー……っと、カイルっつったか? お前は湖で何をしていたんだ? あれに関して・・・・・・親父から何か聞いているのか?」
「いえ、特、に」
二の句を待っている俺の要求を察したカイルが続けた。
「ここ、は、貴方、に会い、に、来た」
つまり湖でも石柱でもなく、目的は俺だったということか。肝心なことは何も聞いていないようで安心したが、得心出来ない事も多い。だが、これ以上確信に触れずに、無口な青年から情報を引き出す手立てが思い浮かばないのも事実だ。
「そうか……なら良い。が、お前もあそこにはもう近づくなよ。湖には絶対に入るな」
「な、ぜ?」
「危険だか……いや……危険か、どうかが《解らない》からだ」
なぜ――か。俺も何を言っているのか。何をどう説明してやれば良いのか、他に上手い表現が思い浮かばない。目に見えない物の危険性を説こうとしても、理解するのは難しいだろう。説明出来ない以上、近寄らせないという対策しか取れない事を歯がゆく、もどかしくも思う。
表情が変わらないので是か非かを判断できないが、性格も遺伝しているのなら無闇に警告を破るような事はしないだろうか。一つ息を吐いて、最後に原初の問いを投げかけようとした、まさにその時、ところで――と発する前にカイルが先手を担った。
「父から、の、伝、言・・・・・・伝文、です」
直接本人から口頭で依頼された訳ではないという意味が妥当か。そんな事を考えていると、蔦に巻かれた筒状の皮革が差し出される。
「これ、を渡、すように、と」
紐解き広げた薄汚れた革の中からに一本の細い金属板が地面に滑り落ちる。
拾おうと伸ばした手が麻痺したように硬直し、胸の内側が締め付けられるような感覚に陥った。
出来る限り見たくなくて意図的に意識から、眼前から遠ざけてきた物を、不意に見せつけられて、
自らの矮小さを強制的に再自覚させられる。
眼を背けて冷たいソレを拾い上げ、掌で包んで隠す。
「・・・・・・なぜ、これを俺に?」
「解り、ま、せん」
たどたどしい話口調がメッセンジャーに向かない所まで似やがった友の息子に手渡された、
包み革をもう一度無造作に開くと、内側には殴り書いたような文字が綴られている。
《・・・・・・ければならない・・・・・の役目・・・・・から
もし・・・・・・えて託す》
長旅の雨露で滲んだのか、読めない部分が大半だったが、主語のない虫食いの文でも文中と述語の二つの単語だけでその意図は察する事が出来た。
何故だ。
指の隙間から覗くメタリックブラックの金属片。
これの重要性はこれを持つ者であれば、それこそ俺達一個人の生命より重いという事は理解しているはずだ。それを容易――でも不用意、でもないのであれば、何かしら余程の……自らの命を引き換えにせざるをえない理由があるということになる。
「なにそれ?」
いつもの癖で顎の無精髭をさすり思案にふける横から、玩具に興味を示す赤子のようにリコが
覗き込む。指二本分程の太さの淡い黒の金属板。不規則に並んだ穴、その上端に刻印された擦れ潰れた二つの古文字を見つめながら応えた。
「これか……? これは……鍵だ」
意図は解った。だが、そこに至る経緯を知るには全然情報が足りない。記憶の奥、更に奥の階層に封印した過去を強引にロードして、意味を解こうと高速回転する脳のクロックを懸命に推測という思考が追いかける。そして、それを手助けするようにカイルから下の句が届いた。
「最後の、夜。父と会った、最後の日、少し、だけ昔の、話をした。《自分は、道を誤った》と、《行きたい道、を行くべき、だった》、と」
「そし、て、《責務、を、果たさなけ、れば、いけない》と」
箇条なら結構喋れるのか、と思うと同時に、鮮明に面影が重なった眼前の盟友が、今まさに何をしようとしているかを察し、自分が何をすべきなのかを悟った。
アイツが『職務』を口にすると言うことは、間違いない。奴を止める――いや殺す事。
もしそうであれば、その責務が最も重いのは俺じゃないか。奴が何をしようとしているのかまでは解らないが、それが何であれ、間違った事であれば正し、正せないのであれば止める、これは誰よりも俺の役目だ。奴の唯一にして無二の友で、サブであった俺の――決定的決別を招いた俺の責任。
「……長旅ご苦労だったな。今日はもう遅い、飯食って泊まって行け」
「自分、は、野宿、で。ずっと、そうし、てきた」
余計な遠慮まで似やがって。この手の扱いには慣れている――と、構わずに小屋へ向かい、左手を上げて手招きをした。
「ガキが遠慮とかすんな。話しておきたいこともある、付き合えよ」
半ば強引な誘いだがカイルも嫌そうな顔をせず、というより、能面で軽く頷く。
「やったー! 色々聞かせてよ!」
嬉しそうにカイルを小走りで追い越し先導して小屋に入っていくリコを、夕日がシルエットにするまで見つめてしまった自分が居た。
かつて失ったものを、子供たちが取り戻してくれるのか。
失くした友が、止めた時を揺り動かしてくれるのか。
そんな贅沢な願いを抱かずにはいられなかった。
日は完全に地平、森平線に沈み、深淵で暖かい闇が緋色の空を塗りつぶしていった。
***
木窓から漏れる灯かりが虚空に吸い込まれ、素朴なパンと燻された獣肉で胃袋を充たす頃、
ランタンに温もりを求めて忍び込み、集り始めた飛虫の傍らでリコは寝息を立てた。今しがたまで騒々しく捲くし立てていたかと思えば……多めのホットミルクが功を奏したようだ。
眼前の木皿を片付ける為に、そっと席を立ち、予測して椅子に垂らしてあった薄手の獣布を掛けて、再度テーブルにつき横目に小声をかけた。
「相変わらず寝落ちが早いな……手間がかからなくて結構だが」
聞いているのか居ないのか、変わらぬ表情でテーブルを挟んで中空を見つめて居るカイルを見ていると、能動的に会話を始めることの無い旧友の事を再び思い出していた。
「知ってるか? お前の親父のあだ名、仲間の中じゃシーサーって呼ばれてたんだ」
カイルの前に置かれた空いた木製のカップを引き寄せ、ホットミルクを継ぎ足し、奥へ押し戻して続けた。
「お前とよく似た坊主頭がな……こう、伸びると、こんな感じでな」
頭上の空間を両手で捏ね繰り回して弄る。
「んで、髭の伸びるのが早いのなんのって――アフロ頭と繋がってな?しまいにゃ名前がライオネルだろ?ライオンに似てるって仲間の1人がシーサーみてぇだって言い出してな、現物見てみたら結構クリソツでウケんだよ、強面なとことかな!」
当時をムービーのように脳裏に投影していると自然と頬が弛緩するのを感じた。
「それで……って、よく解んねぇか。ライオンとか居ねぇしな……」
言ってて何だが通じる訳がないのだ。目の前にあるカップに残った冷めた乳白に、木壺から木匙で茶色い粉を掬うと、一振り入れて掻き混ぜ、薄く同化する色を見つめながら自省した。
何せ父親以外に話の接点が何も無いのだ。これは中々高難度のミッションだぞ。
こいつのことを、もう少し詳細に知っておきたいのも事実だ、もう少し頑張ってみるか――と気を取り直し、ふぅ と一息ついてから当たり障りのない話題を振る方向に切り替えた。
「ところで……お前いまいくつだ?」
「十、です」
「・・・・・・じゅ、じゅうぅぅぅ?」
自分でも驚く程、滑稽な奇声と共に腰が釣り上がったが、開いた口が瞬時に塞がる理由を俺は明確に知っている。取り繕うように座りなおしてこの話題を続けるかを迷った。
二十前半にすら見えるこいつの母親は……あえて聞くような事ではないか。聞いた所でまともな返事が返ってくるとは思えないし、リコのような子供は他に一人しか知らない。勿論居てもおかしくは無いが、少なくともリオンはこの世界の一員に、きっとなれたのだろう。
それが少し羨ましくもあった。
そもそも、同世代の人間と交流するような機会があったのなら、このような育ち方はしない。
その辺は我が子にも通じる物があるが、他者と比較して事を考える回路が備わっていないのだ。
これはリコにとっても大きな課題だが、答えの出ない問いを繰り返すよりは本題に入った方がマシだ、と場の盛り上げを諦めて本題を切り出すことにした。
「俺もな、お前に頼みがあるんだ」
胸ポケットにしまっておいた、委託物を取り出して机の上に置いて言った。
「託されといて悪いんだがな、この鍵……お前が預かっておいてくれ」
丈夫な手製の長紐を、上端に開いた小さな穴に結わた薄黒のそれを卓上に置き、更に薄青色をした似て非なる鍵を横に並べる。
「でな、俺も持ってるんだよ。こいつはリコに持たせる」
余り長くは眺めたく無い品で、手に取ったのも数十年ぶりだ。そもそもこれの処遇を巡って俺達は仲違いしたのだ。無機質で冷えた触感が、自分の至らなさを無言で責め立てるようで、居た堪れない気持ちにさせられる。なぜ今までこれを捨てられなかったのかは、何度考えても説明出来る類の感情ではない。責務ごと手放してしまえば、少なくとも楽にはなれるのに。
それが出来ないのは、未だに諦められない何かが、心の奥に燻っているからかも知れない。
「な、ぜ」
率直な疑問を投げかけるカイルの、光が宿っていないその瞳は、過酷な少年期を語っているように見えた。こいつに嘘は付けない。付いてはいけない、そう感じた。
「今から俺が行こうとしている場所、やろうとしている事に、これがあっては危険だからだ」
「これ、と彼、を、守れ、と?」
ガードするという発想がスッと出てくる辺りも、本当にアイツの息子らしいなと思ったが、本質が垣間見えた気がして、これを託す事に関しての不安は薄れた気がした。
「いや、いい。こいつの事は気にすんな。身を守る方法くらいは叩き込んである。俺には扱えなかったあのへんちくりんな弓を使えるようになるくらいには――な」
真剣な眼差しから、気まずさを思い出して目をそらした。
「まぁ……それ以外がおざなりになっちまったが」
横目で息子の寝姿を見やった。自分の生き写しのような柔らかな栗毛のカーリーヘアーを、どうか俺と同じ道だけは歩かないようにと、心の中で祈りながら撫でる。
「ここから街道、つっても獣道に毛が生えた……いや、毛が抜けた程度の道がある」
指でテーブルの上をなぞるように軌跡を作りながら続けた。
「お前も通って来たんだろうが、ちっとばかし険しい道を降った先に城があってな――」
大きめに丸を描いた跡に、人差し指を突いた。
「そこにこいつ」
首を傾げるカイルの目を見ると、視線は合っているのに意識が交わっていない錯覚を覚える。
「リコと同じ髪色をした女が居るはずだ。そいつに会いにいってくれ」
5Wsが欠けている気がするが、質問はあるか聞いても無いと答えそうな少年に補足する。
「素性は――ま、会えば解る。どんな奴かは自分で見て感じればいい、そして、出来れば……そいつを護ってやってくれ。リコの事はそいつが親身になって助けてくれるはずだ」
二本の鍵を二本の指で挟んで見せる。円形の小さな窪みが微妙に異なっていて、擦ると乾いた金属音が小さく鳴った。
「これを見せりゃ何かしら反応があるはずだ。本当なら俺が行くべきだが・・・・・・」
俺の予想が正しければ、恐らく彼女……もしくは、母親に連なる者が同じ物を持っている。持ってなくても、一度は見せられた事があるはずだ。複数の鍵を同じ所に置きたくはないが、小屋に無造作に置いておくのも同じくらい危険だろう。玄関の鍵をドアの横に隠すに等しい。
石柱の事も気にかかるが……アレを今すぐどうこうできる者は……いや技術は現時点では存在しないだろう。水に浸かっている限り、そう神経質にならずとも破滅的危機も訪れないはずだ。
「鍵は、城で会うそいつとリコ以外は誰にも見せるなよ? お前の親父が今までに一度もお前に見せた事がないなら……重要性はわかるはずだ」
全てを説明出来ないのがもどかしいが、今はこれ以上言えることはない。二本の鍵に懐から出した小袋を添えて再び眼前に差し出した。
「首から下げて隠しとけ。誰にも取られるなよ。俺かシーサーが戻ってくるまででいい。あとは……この袋は路銀だが、使い方は分かるか?」
「問題、ない」
通じたのか今ひとつ解らないが頼まれ事は完遂するだろう。責任感を疑うつもりはないが、どこまで戦闘を叩き込まれているかは些か半疑だった。リコの矢を回避したという話を信じて推量すれば恐らく、いや、それこそ『問題無い』だろう。何よりあの男の息子なのだ。
確たる答えの出ない疑問に脳内で自答しながら、ドアの傍らに立てかけられた槍を見る。
2メートルはあろうかという頑丈そうな木製の柄の先に、片刃のダガーがしっかり嵌め込み固定がしてある。強度を増す為に巻かれ溶接された金属帯も、どれも見覚えがあるものだ。
隣に並んで立てかけてある弓と交互に見やっていると、引き合う二つが交わり溶けて追憶に引きずられ陥りそうな感覚になる。――またこれをここで対で見る事になるとはな。
それにしても、随分スンナリ話を引き受けたものだ。得体の知れない物を親父に託されて、それを再び押し付けられ、意味も分からず城へ行って人に会え、なんて依頼を何も聞きもせず引き受ける理由が解らない。だが、それを置いても俺には優先しなければいけない事がある。
そんな思考に応じた訳ではないだろうが、カイルが問いかけてきた。
「それ、で、貴方、は」
「俺か? 俺は……お前の親父を追う」
つい頭に手をやりそうになるのに気づいて、手持ち無沙汰になった右手を腰に置いた。
「託されたモンをお前に押し付けて……勝手な話ですまねぇな。これは、俺の仕事でもある。アイツだけに押し付ける訳にはいかない」
「あり、がとう、ござ、い、ます」
自分より高い位置にある坊主頭が下がるの目で追って、最後の僅かな不安は消えた。
寝室と呼べるような立派なものではない部屋の片隅で、息子達が寝息を立てるのを確かめてから、外に出た。透き通った夜空と、張り詰めた空気の中、丸太で組まれた階段に腰を掛ける。
鳥の声と思われる低い音が反響する闇の中で、膝についた肘から伸びる腕の先端、両の指を合わせて人差し指で唇に触れる。
眼を瞑ると、小さな灯かりも空の明かりも消えて、潰れそうな暖かさに包まれた。
永遠とも思える長い時間、後悔しかなかった。
結果だけを見れば、全てから逃げ出して――全てを捨てたのだ。
他に道はあったかもしれない。何かを諦めて、一つ譲ればこうはならなかったかもしれない。価値観の相違など容易に埋められるような小さな溝だったかもしれない。
彼女・・・・・・ヒルダが滝に、暗闇に身を委ねた時も、もっと言葉を尽くせば、何か別の方法が――未来が……あっただろうか。
合わせた指を離して組んで顎を乗せ瞼を開く。
丁度真上に来て木陰から覗いた寄り添う双子月が、眩しくて、眩みそうで再び目を閉じた。
それはまるで祈っているかのようだった。