1. 邂逅
「今日の見回り終わり……っと」
湖畔の若木に弓を立て掛け、肩掛けを外して矢筒を地に置き、手を離す。
倒れるそれと同期するように背を投げ出した。
小柄とはいえ、それなりの質量を受け止めた代償に、数枚の草葉が身を散らす。
風に舞った木の葉が、少年の緩い栗色の癖っ毛に捕らわれるように絡まった。
誰に向けた言葉でもない。一連の動作を、俯瞰で眺める何者かの存在があるとすれば、
形の無いそれにかけられた言葉かもしれない。
両の手を後ろ頭に敷いて、空の青に流れる薄い白雲の行方を追う。
この雲は、森の端まで行くとどうなるのだろう。
行き止まるのか、引き返すのか。それとも消えてなくなるのだろうか。
そんな淡い問いが微睡みを呼び、彼は静かに目を閉じた。
ノルドランド王国の都、フランシアの南。
奥地の瀑布から無尽蔵に供給される清水の庇護を受け肥沃する土と、
大樹で両手を広げるような大森林レインフォールに守護を受ける少年――リコは、
樹木を育む水の聖に抱かれ、自然を同胞に年輪を朋輩に成長した。
湖中に屹立する巨石に囲まれた――由来の解らない――構造物を守護する父と、
記憶にすら残っていない母への哀愁しか確かな物を何も持っていないリコにとっては、
父に聞いた外界や書物で見る挿絵の方が偽りにすら思えた。
森の外には何もないのではないか、木々を縫うように舞う鳥や、時に先達、時に糧でもある獣、
清流に列を成して泳ぐ魚、それ以外には何もないのではないかと悩む日々に、
緩やかに、そして確かにリコの世界は閉じて行った。
勿論、常に抑揚がない日々を送っている訳ではない。初めての狩り、殺生、そして森の外の話に、心が動いた事も少なからずあっただろう。
だが、湖中の「いしくれ」を見守るという意味を見いだせない日常が、無感動になっていく自分を無意識に恐れること、飽いながらも心の揺らぎを求め、漠然とした時間を見送る事を強いた。
やがて孤独に苛まれる日々は過ぎ去り、時の流れそのものが静止している、
そんな錯覚すらをも感じ始めてから幾年も過ぎようとしていた。
共に暮らす唯一の他者である父にすらも決してそうとは見せずに、
確かに、静かに、自ら、心を殺し始めていたのだ。
――今日この日までは。
薄くまぶたを閉じると、ぼんやりとした楕円は青と白が混じり合って滲む。
記憶の奥底の原風景を、穏やかな風の匂いが呼び起こす。
十歳になった日、父に連れられ湖に注ぎ込む支流を遡り、渓流を掻き分けて数刻歩き続けた。
傾斜を登り続ける幼少の身には過酷な道程だったが、辿り着いた先は視界に収まりきらない程の緑壁と、至る所で轟音と霧散を繰り返しては白霧を無限に生成する大瀑布が拡がっていた。
初めて見る水量と力感は、幼い心を圧倒し興奮と不安を想起させた。
中でも巨大な白い蛇のような滝の根元に小さな洞があり、不安を隠し父に先導されるまま、
僅かな灯かりを頼りに幾つかの分かれ道を追い進んだ。
行き着いた最奥は、暗闇で広さが解らない開けた空洞、そこにも小さな滝があった。
天井の微細な穴々から滴り落ちる糸のような水と、零れる光に目が眩む程の安堵を覚えた。
それとは正反対に、壺の無い滝の奥底へ吸い込まれて行く流水は、外の響きにもかき消され、気配も無く忍び寄る死のようで、例えようのない畏れも感じた。深遠の最も際、崖の淵にある粗末な祭壇で、良く解らないまま、言われるがままに祈りを捧げる。
そしてリコは闇の中に見た。
淡く輝く、一本角の駿馬を。
「あれって・・・・・・なんだったのかな」
その日以来、妙に感覚が鋭くなった。目に頼らずとも、もっと不確かな何かで生物の動きを察知出来るようになった。動きある獣は勿論のこと、木々や草花、見えない物にさえ語りかける癖がついたのは、常に気配を感じるようになったからかもしれない。
当然、返事があったことは一度たりともなく、自然な所作として空しさが消えるまで時間はかかったが、以後に繋がる一連の動作の枕詞になって久しい。
そうして言葉として形にならない、思いとして定まらない、数多幾度と去来する意識に埋もれながら木漏れ日に微睡む。
二、三と小さな鳥が寄ってきて周囲を啄ばみながら囀りのまじないをかける。柔らかい匂いを胸に、頬に感じる風と湖面を撫でる波の音が心地よい。
そしてこの小さな箱庭が茜色に染まる頃には、甘い眠りから解き放たれ――
バササッ
突如飛び去った鳥の羽音に、リコは夜明け前の冷水を浴びせられたように飛び上がり、中腰に身を構え、周囲を見渡した。
近くに気配はない。
視野を意識的に広げる。葉擦れに耳を澄ませ、風の香りに神経を尖らせる。
知覚できる距離に、他者の気振りは感じられない。
他者。
父以外の他の存在。すなわち孤独な森の狩人であるリコにとっては、獲物。
左手で弓を拾い、右斜め前で構える。握りの左に矢を番え、二本の指で弦を挟む。不均整な弓は、昔は全く目標に中らなかった。どう打っても真っ直ぐ飛ばない矢に対し、最初から狙いをはずす事で的中を手にしたという涙ぐましいまでの研鑽が、流れる清流のような動きを身に付けさせた。
幸い時間だけはあったので、日の出から日没まで毎日板的を弾き続けた。部屋の片隅で埃をかぶり置物と化していた古い弓に、命を吹き込んだ事を父は喜び、滅多に見せない賛辞を息子に与えた。
リコもそれが嬉しくて、肌身離さず身体の一部となるまで、弓を手に、自作の矢を狩りの戦利品から作った矢筒と共に背にして、森の中で獲物を追い続けた。
高揚感の中、幾度となく繰り返してきたであろう淀みない歩みを維持しながら、踝まで湖に足を漬け、温い水を掻き分ける波音の狭間に紛れながら、石柱を左手に回り始める。
石柱。
幅の広い板状の巨石が、真円を描くように隙間なく連なり、その上部を覆う様に横たわる岩板。
誰が何の目的で、どのようにしてこのような精巧な物を造り上げたのか、そして、なぜこれを父が守っているのか、これに関して解る事は何一つ無い。リコにとっての《これ》は、自分を縛る檻のような存在であり、小さな閉じられた世界の中での、唯一の目的となっていた。
望むとも望まずとも、繰り返す日々の中で唯一与えられた仕事だったのだ。
淡々と義務感を拠所にして、湖を囲う草むらを覆う森を右手に見ながら八分の一ほど歩く。
鬱蒼とした木々を何かが動き回れば必ず聴覚が察知する。自ずと視界の左側を重点的に注視すると――それは居た。
「動物・・・・・・じゃない、あれって・・・・・・人??」
左前方200メートルほど奥、シルエットが網膜で造型した人の姿をした何かは、膝下まで衣服を濡らす事も意に介さず石柱の前で屈伸するように、しゃがみ、立ちを繰り返している。何をしているかを認識できる距離ではまだ無い。
興奮を冷静で包み隠す狩りとは別の、未だ経験のない感情を、《見て備える》事でどうにか頭の外へ追いやり、揺れる鼓動を愉しみながら、リコは《獲物》の把握に努めた。
石柱との対比を見る限り、小柄な自らは勿論のこと、父を頭一つ越すであろう長身で、筋肉質だが細身に見える。どれも父を基準にしているので実際にどうなのかはリコには解らない。
肌は見た事のない土色をしている。
人影は時折湖底に腕を浸け、何かを探しているようにも見えた。
矢を番え構えはしたものの、次の行動を決めかねたのは、初めて見る父以外の人間に対する畏怖や、ともすれば他者を害する可能性を孕む行動、自体への逡巡が邪魔をした訳ではない。恐らくは初めての興奮に戸惑っていたからで、善悪の判断の機会を未だ持ち合わせていない故に《湖を守る》という、たった一つの絶対的な決まり事が先制攻撃への心理的垣根を、容易に飛び越えさせたに過ぎなかった。
ほんの数秒、と思える数十秒。刹那と知覚する程の弾指。
視線を切らずに機会を待った。
そして侵入者が、ゆらりと立ち上が・・・・・・る。
シュッ という風切り音と共に放たれた矢は、孤を描いて目標の上半身を貫く。
はずだった。
立ち上がりの挙動の終わり、その一点を凝縮していつも通り放った一条の矢を、男は上体を反らすだけでかわして見せた――かと思いきや、盛大に湖に横倒しに倒れこんだのだ。
大容量の体積が、扇状の大きな飛沫を撒き散らし、石柱に跡を残して斑の染みと化した。
「あ、あれ……?」
リコには、男が直前で矢を避けたように見えた。が、直後の反応を見ると判断が出来ない。
それ以上に目の前で起こった異様な光景に戸惑いを感じながら、リコは二射目を構えて警戒を段階的に引き上げ、ゆっくり、静かに距離を詰める。
およそ弓の長さまで近づくが動く様子はない。
体全体が浅く水没しており、水面は呼気で揺れてはおらず、今しがた衝撃によって生まれた波紋が石壁に跳ね返って漂っている。
弓の先で軽くつま先を小突くと、ザバァ と呼応するように、豪快に大男が立ち上がった。
「うわぁ!」
仰け反りそうになるのを堪えて体勢を立て直し、構え直した。即応出来るように心を整え、
そうしてからやっと、無表情な男の風貌を頭から水面まで、なぞるように観察する。
短く刈られた太陽のような黄金色の髪は、褐色の肌との対比を際立たせている。
大柄ながら華奢で、それでいて力強そうな筋肉は、限りなく無駄を省いたようにすら見える。
力強い眼で見据えられると萎縮しそうになるが、何故か焦点の合わない男の眼差しに対してリコの口をついたのは、畏怖や不審とは別種の感情に起因した言葉だった。
「すごい!」
構えたまま視線と速射態勢を逸らさず、続ける。
「なんで避けれたの?」
返答は無く表情もピクリとも動かない男が、フイと振り向いて無言で岸に向かうのを見送る。反撃する様子が無い事を確認してから静かに弓弦を緩めた。
「危ない、だろう」
意識外から発せられた声は、印象程低くは無く。幼げで大きくは無いが良く通って届いた。
リコは警戒を解く事を思い直して、右手に力を込めて引き絞り、矢じりを男に向ける。
「え、けど侵入者でしょ……? 排除するように言われてる……もん」
湖水に濡れて輝く頭部から、滴り落ちる水を意に介さず、男は踝で湖面を掻き分け歩くと、草むらに横たえたソレを掴んだ。
「――なら、どうす、る」
ゆっくりと上体を起こして、虚ろな視線と長い得物の先をリコに突き立てる。
その表情は、怖れ、怒り、戸惑い、侮り、一切の感情すらも含んでいないように見えた。
リコはその目を覗く。
瞳の奥――眼球、網膜、恐らくどこを探しても、自分が映って居ない事を、無意識に察した。
そして弛緩した心と握り拳から、音も無く一本の矢が滑り飛んだ。
「ぁ……!」
小さく漏れたリコの声を切り裂くような風切り音が、弧を描いて大男を襲う。
凝縮された時間の中で、リコの脳裏には決して少なくない思いが駆け巡った。
しかし、その中で最も大きな『焦り――という感情』を乗せた矢を、大男は右上から左下に長柄を薙いで、容易く断ち切った。
中空で斜めに裁断された木矢は、双方が鋭利な切っ先を回転させながら草むらに落ちると、静けさの中でコロコロと転がる。
「……うっそ」
リコには俄かに信じる事は出来なかったが――男は自らに飛来する矢を、避ける事もせず、ただやたらと長い棒で切って見せたのだ。
「そ、それ……なに?」
「……こ、れは槍、だ」
リコにはそれが何か解らなかった。
突き立てられたそれは単なる棒にしか見えなかったが、横薙ぎにした時、ヤリと呼ばれる物干し竿には、明らかに柄の先に鋭利な刃物が見て取れた。リコの父が使う剣やナイフとは違い、異様に長く重そうで、森の中で使うには不便に思えて、最初それが武器とは気づけなかったのだ。
再び手の黒く光る刃先がこちらに向いて、延長線上に自らの身体を捉えた時、リコは感じた。身の危険――恐らく生まれて初めてであろう感情を。
そしてその言葉に出来ない感情が破裂する衝撃に、触発されるかのようにリコは駈け出した。
自分より大きな動物を見た事も、矢を番えて対峙した事もないリコにとっての選択として、
【逃走】や【撤退】が選択されても何ら不思議では無いが、実はそういう話でもなかった。
走って湖岸から離れ、草を踏み分け、森に駆け込んだリコの頭に最も強く響いた思いは――
『とにかく離れなきゃ』と『もう一度矢を射る為にはどうしよう』いう対処的思考だった。
あくまで無意識に選択した戦略的退避であり、弓とヤリの射程距離を初見なりに考えた結果の行動と言えるのかも知れない。
「よっ……!」
軽快な声と共に、右手の矢を咥え、弓の日輪を手のひらで抑え、月輪を軽く地面に突き刺す。
姫反りの反動を利用し――ふわり――と、小柄な体躯を浮き上がらせると、二枝に分かれる木の股に右足を付いて樹上に飛び乗った。
跳躍により速度のついた反動を、慣れた動きでY幹に弓を寝かせ当てて殺し、安定を保ってから、風と遠心力でクルクル回る矢羽を掴み再び取り出す。
掻き分ける草の音は未だ小さくて、特に急いだ様子も無い。しかし一歩一歩と近づいて来る。
ヤリの射程から外れた場所を取り、先手を取る為に樹上に上がったリコを、静寂と鳥の声、
そこにかぶせるような等間隔のガサガサという音が追い詰める。
「……早く来てよ、もう」
緊張の中で零れる矛盾した言葉は、行動に軽率を生んだ。
未だ姿の見えぬ目標に、焦れたリコは番えた矢を引き絞る。
ドクッ ドクッ と、早鐘のような鼓動が、眉間の汗が、渇いた唇が胸を責めたてる。
そして――遠望するリコの視界の先に男が姿を見せた。
先程と少しも変わらない無表情と、何の興味も示さない眼差しを中空に投げ出したままで、
リコの視程、順に矢の射程に、無造作に、無遠慮に侵入してくる。
「と、止まって! 撃つよ!!」
男の胴体に向けられた矢を意に介さず、歩調も落とさずに近寄って迫る。
到底ヤリの届く距離では無いが、それでもリコに圧をかける――つもりは無くとも、圧を受けるには充分だった。
「し、知らないよ! もう!」
先程より投げやりに――しかし意図して――[ヤリ]では無く、矢を放つ。
男は、緩い弧を描いた射線を、今度は先程とは逆に左下から薙ぎ上げるように――断った。
カッ という乾いた木材を割るような音が森の中に木霊する。
いよいよリコの心中には恐れや警戒よりも、むしろ前向きな感情が湧出しだした。
「ちょ、ちょっと! 君は誰! ここに何しに来たの!?」
男からの返事は無いが、リコは構わずに沢山の問いから一番の疑問を伝える。
「あそこで……! 湖で何をしてたの!?」
その言葉に軽く首を傾けた男は、随分久し振りに感じる程に口を開いた。
「調、べ、てた」
「しら……って、なにをー?」
「解ら、ない」
「――わからないのに何を調べてたの?」
「……解らない、から、調べ、てた」
他人というのは、これ程会話が成立しない存在なのか。
比較出来る存在が父しか居ないのだから、と、理解出来ないなりに問いを続けたが、
やがて諦めてリコは、一息ついて警戒を解くと、樹の股から飛び降り地面を両足で受けた。
リコも実際に湖に足を踏み入れた事は一度や二度では無い。触ると仄かに暖かく感じる気がするだけの巨大な石塊――正確には細長い板状の石が円状に連なって隙間なく立っている――は何も正体を明かしてはくれなかった。
後に父に訊ねて叱られてからは、湖自体にもなるべく近寄らないようにしているのだ。
「うーん……悪い人には見えないけどさ……余り近づくと父さんに怒られるよ?」
大男は背中越しに聞いていたが、初めて振り返ってリコを目で捉えて言った。
「・・・・・・近く、に人、が、居る、のか?」
「うん? 居るよ。僕の父さん。家に居ると思うけど」
以前は定期的に数週間不在にする事もあったが、薪を割り、炭を焼き、保存食を作ったり、と、
リコとそう変わらない普段通りの日常を、もう何年も繰り返している。
「その人、に、会いた、い」
虚ろな視線を被せられ、不意に何かに射抜かれたたような感がしたが、リコは拒絶する気にはなれなかった。本当に危険な侵入者だったとしても父が何とでもするだろうし、興味の方が僅かに勝ったからだ。
「いいよ」
事も無げな応えに対して、返ってきたのは意外な言葉だった。
「いい、の、か?」
「えー! 自分で言ったんじゃん!」
「警戒、しない、のか?」
改めて問われればその通りだが、今しがた思考した流れを反射的に返した。
「いいよ、もし君が危ない人でも、多分父さんの方が強いし」
「そう、か」
ここでやっと今更ながら、大男の素性が知りたいリコが先んじて名乗った。
「そういえば名前は? 僕はリコ」
「カイル、だ」
間を置いて答えた大男は、背負い紐を再び肩に掛け、槍を背に回す。
古びた木の棒の先についた尖った物は、今までに見た事も無いような材質の刃物だった。
周囲が黄昏始め、帰路を歩きながら少し前を行くカイルと、背中の大きなヤリを見ながら、リコは初めて湖に来た時の事を思い出していた。
最初――どんな者にも訪れ、そして次第に失う機会。
幾度となく期待と嘆息を繰り返し、長い時の牢獄で囚われ、澱んだ心を救い上げてくれる、
何かが変わりそうな予感と、まっさらな期待を。