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Reverse Terra 第一章『揺蕩のレジナテリス』   作者: 吉水 愁月
第一章  揺蕩のレジナテリス
14/20

12. 仄灯

「腰、痛いー!」


 双角羊が背後の夕焼けと共に地平に姿を消す。

少女の切実な願いを聞き入れて、街道から外れ木陰で馬の歩みを止めた。


 木々が散らかって寂しい岩壁の間に沈む夕日は実に綺麗だったが、眼前の荒野はだだっ広く、

どこを見渡しても緑地が見当たらず、延々と荒れた草原を道なりに走り続けた。


「僕も馬は初めてだから……分かるよ。動物の扱いは慣れてるけど慣れるまで時間かかるねこれ」

 馬から降りて、小さい同行者の手を取り地面に下ろす。

 少女は大げさに腰を握りこぶしで叩きながら、横目でこちらを見た。


「ところでアンタ……なんでアタシを連れて来たの?」

 ここぞとばかりに僅かに残っている草を食む馬を、眺めながら腰を下ろす。

「イベリスに行くんでしょ? 僕も父さんが見つからなかったからエリアスを追わなきゃだし」

「父さん? エリアス? ……誰??」

 首を傾げながら三角座りで太ももを揉む少女は、周囲の暗さもあって尚更小さく見えた。


「そんな事より、何で日が暮れるのに急いで出てきたの?? 朝になってからで良かったんじゃ」

馬の腰から荷物を降ろして、近場の小枝や枯れ葉を拾い集めて、山なりに組み上げる。


「昼間動いたら目立つでしょ??門が閉まる前に出ちゃえば人と会わないし、動きやすいじゃん」


……会わない方が良い??

何を言ってるのかよくわからない。

 長めの枝を数本残しておいて、腰袋から出した火打ち石と打ち金、麻糸、小さな麻袋と共に、

手の届く傍らにまとめて置いた。


「まぁいいや、ちょっと待ってて」


 そして、打ち金を左手に取り、右手に持った石を当て、小さく振りかぶ――

「ちょ、何すんの?」

 急に声をかけられ、思わず手が止まる。

「何って……火をつけるんだけど?」

「アンタ……昼間見たでしょ? ちょっと軽く打ってみて」


「こう?」 

   《――ego evoke ignis》


 カッッ と石を打つと、散った火花の1つ2つが、見る見る膨れあがってこぶし大になる。

パンッ と弾けるように破れた火の玉が、組み上げた束を一瞬で燃え上がらせた。


「へぇー こうやって火をつけるんだ。これなら種糸も要らないね」

 水筒を手渡して、馬の背から降ろしておいたウサギ――道中で仕留めた夕飯の材料――を取り、

焚き火を挟んで少女の正面に腰を下ろす。


 腰袋に残った最後の道具である折り畳みナイフの木の柄を握り、仕留めてからすぐに血抜きをしたウサギの角を持って喉に刃を当て、スッと足元まで切れ目を入れた。

 背を地面に下ろして、慎重に足の側から皮を剥ぐと、綺麗な紅色の筋肉が姿を見せ始める。 

 肉から外れた皮を落として、再度角を左手で持ちナイフを口にくわえて、右手で首を強めに握る。

 

 しかめた顔でこちらの動きを伺ってる少女を見て、気にせず一気に足元まで絞り下げた。



 ブリュウッ とお尻から押し出され落下する内臓、そして――

 ウゲェ?ヴエェ? という呻き声を聞きながら、初めて父が解体の手本を見せた時の自分と同じ

反応だなぁ――と、思いながらスパッと首を切り離した。


 なるべく毛が肉に付かないように処理をしたのでわざわざ洗う必要は無いだろう。

水で洗うと味が落ちるのも、散々経験したので今回は上手く行った方だと思う。


「……それ、……食べるの?」

 少女は苦そうな顔でこちらを見続けながら水筒に口をつけた。

 肉を食べた事がないのかと思ったが、どうも目線は地面に落ちた内臓を向いている。

「あ、こっち? 美味しいけど虫が怖いし肉の方で足りるから、このまま置いておくよ。調理するのも大変だしね」

 残った肉や内臓は埋めずに置いておけば、そこら辺の動物が綺麗に掃除をしてくれるので、ほんの《おすそ分け》だ。獣皮は惜しいけどなめす時間も道具もないので諦めることにした。


「ところで、えっと……火付け山賊さんは」

「ぶっ」

 口に含んだ水を、まるでスペルのように噴き出して咳き込む。


「ちょっと! 何よそのダサい呼び方!」

「だって、名前知らないし……火が消えちゃうよ?」

「クロエよ! いまさらでしょ!」


「僕はリコ。今更も何も自己紹介、してないよね?」

 確かに……と、いった仕草でクロエと名乗った少女が、空々しく見上げ咳払いをした。  


 そういえばエリアスやカイルと会った時も名乗る機会が解らなかった気がする。

 次から気をつけないとと思いながら、いつもより小さめに胴肉を切り分けて、焚き木にせず残しておいた枝に連ねて突き刺した。も

も肉は骨に沿って枝を刺し込んで、麻袋に指先を入れ摘んだそれをパラパラっと振り掛ける。


「それ、なに?」

 クロエは肉に付着した茶色い粉の正体を確かめようと身を乗り出す。

「これは野草を燻製して小さく刻んで、塩を混ぜたものだよ」

 下処理が住んだ肉枝をくるくる回して炙る。


「そういえば……どうやってイベリスに入れば良いんだろ?」


 確かセベリスの領主、ラウルの話ではイベリスは出入りが物凄く難しいという話だったはずだ。

唯一の門は衛兵で監視されていて、通行証が必要……


「……あれ? 通行証ってどうすればいいんだろう? エリアスが領主から受け取ってたような気がするけど……まぁとにかく行ってみるしかないか」


 枝を火元から離して地面に刺して、地面に転がってる水筒を手に取り口をつける。

「あ、ちょ……ま、まぁアタシには裏道があるから。アンタは……」


 うーん、と悩んだ素振りをして、クロエは見るから明らかに得意げな顔で続けた。

「ま、いっか。連れてってもらうお礼ってことで、街中まで案内してあげる。知り合いが中に居るんでしょ? それで貸し借りなしね」

「へぇ~ そんな道があるんだ」


 本当はエリアスと一緒に向かう事になってた訳だし、こっそり入っても平気だろうか?

 そんな風に考えていると、肉の焦げる音と香ばしい匂いが耳と鼻をくすぐった。

そういえば今日は昼から何も食べていない。


「もういいかな……はい、これ」

 焼けた腹肉を渡して、自分はもも肉を手に取りかぶりついた。

「……ありがと」

 珍しくお礼を言って、小さな口で程よく焼けた肉を頬張る。


「……う! おいしい!」

 確かに旨い。もも肉は筋肉質で少し硬いけど、それでも数日前に食べた火獣の草履のような肉とは比べ物にならなほど柔らかくて、優しい味がした。


「それにしても凄いのね。狩りがどうとか言い出した時は『何言ってんの』とか思ったけど……

簡単に仕留めちゃうんだもん。よくあんな所から見つけられたわね」

「森の中よりもずーっと見やすいからね。ジャッカスロープは二本の角が目立つから、草むらからぴょこっと出た角がチョロチョロと動くんだよ」

 両手の人差し指を角に見立てて頭に添えて説明したが、小さな的だけに外す事も結構ある――

と、いうことは別に言わなくても良いだろう。


 話に上がって大事な事を思い出したので、残った頭部から角を折り、頭は内臓の横に並べて、

そして手を合わせ、心の中で呟いた。


ありがとうございます


《森で得られる物は捨てるところは一つもない》これは小さい頃からの父の教えの中で一番しつこく繰り返し聞かされた言葉だ。家なら残った肉も燻して保存食にするところだが、急ぎの道中ではその時間はなさそうだ。父の場合肉どころか切り倒した木ですら本当に何も残さず使ってしまう。

 

「それ、角どうすんの??」

「これは矢尻に使うんだよ。硬くて良いんだけど、削るには水に浸けないといけないから……

作業するのはまた今度だね」

 馬を繋いだ木に立てかけておいた矢筒の、肩紐を座ったまま引き寄せ、二本の角を入れる。

 当然のように、枝分かれした先端部分が引っかかる。

「……ま、いっか。そういえば君のスペルも凄いね。火を起こすのは大変だから楽だったよ」


 形や風向きを考えて薪を組み、油の染みた麻糸を出来るだけ節約して、枯れ葉を焚き付け、種火が起きたら消えないように気をつけ……と、いった面倒な手順を全てすっ飛ばせるのだ。

火の精霊術も便利なものである。

「へへーん、でしょー。村でもこれが出来るのは私だけだったんだから。けどアンタってアグニストでしょ? イグニストを嫌ってるんじゃないの?」

「なんで? 僕が知ってる限り……て、言っても二人しか知ってる人が居ないけど……クロエの他にはあと一人しか知らないけど、悪い人には見えなかったし――」

「は? 1人しかいないの?」

 今まで出会った人で火のスペルを使った人は、クロエ以外リアーナしか居なかったはずだ。

知っている限りでは父がスペルを使った所を一度も見た事がない。


「ちょ……どんだけ友達居ないのよアンタ」

 残った薪をポイポイ適当に火に放り込むクロエが、考え事を止めさせた。

「ずっと森の中で暮らしてきたからね。街の事とか、外の世界の事とか、本で読むくらいしか知らなかったんだよ。父さん以外の人と会うのも初めてなんだ」


 何度となく見つめてきた火のゆらめきが、暗くなり始めた辺りに溶けるのを眺めながら続けた。


「けど、こうして火をただ眺めるのって結構好きだしね。1人で居る事も多かったよ」

「そう! なんかこう……大事な物を思い出すような、そんな不思議な気がするのよね」

 初めて良い顔で笑ったクロエだったが、表情の中に何か暗いものを覗かせた気がした。


「まーアタシもアグニストの知り合いなんて居なかったか……父さんが悪く言うから何となく嫌ってたけど、理由はよく解んないし、いざ話してみるとどうってことないわね」

 エリアスとリアーナが言い合って居た時もそうだったけど、クロエが見せた火のスペルも、火事を消した時のアクニスペル……

 あれ? 水のスペルって《アクニスペル》なのか、《アグニスペル》なのか、どっちなんだ? 

二人はなんて言ってたっけ……


「そろそろ出発する? 暗くなってきたけど」

「そうだね。野宿しても良いけど、早いほうが良いよね?」

 立ち上がって砂利を払うクロエを横目に散乱した手荷物を片付け始める。

スペルの影響か、一気に燃え上がった焚き火は勢いが落ちるのも早く、既に弱まっているので、

周囲の土や砂をかき集めてバッサバッサと上から被せた。


「馬に乗るのって難しいの? 腰がすっごく痛いけど、早いから乗れるようになっときたいのよね」

 馬のそばで首を撫でているクロエがこちらを振り返った。


「それ、多分腰を浮かせてないからじゃない?」

「浮かせる?」

「んと、振動かな? 上下の揺れに合わせて腰を浮かせたり下ろしたりするんだよ。揺れないように合わせるようにしたら大分楽になったよ。まぁ足が疲れるんだけど」

 他にもなんか色々考えながらやってたと思うけど、多分やってみたほうが早いと思う。


「へぇ、そんな事してたんだ。ってアンタ、馬に乗るの初めてなの?」

「そうだよ。見た事はあったけど・・・・・・こんな色じゃなくて、もっと青白くて光ってたかな? 

角もあったし」

「何それ? それ馬なの? 角のある馬なんて見た事ないけど」

「僕も見たのは一度だけだしなぁ、それも森の奥の滝の方だったし……」

 ふぅん、といった顔でクロエは眉を細めた。 

「あとさ、多分後ろの方が揺れるんだよ。前に乗って手綱引いてみたら? 後ろから教えるからさ」


「え……う、うん。 わかった、やってみる」

 クロエの足の裏を持って背に乗せてから後ろ側に飛び乗る。

 手綱を持たせて軽く馬のお腹に合図をして、夕焼けを背に再び荒野に蹄の音を鳴らした。

   


 *** 



 人の歩みが夕餉の営みに変わる頃、景色の奥に石壁が見え始め、

更に一刻ほど走り続ける。


 薄暗くなった風景にポツンと現れたのは、小さな草原に立つ馬房だった。

馬の飼葉用に植えられてるのであろう青草を、背の高い柵で囲うようにして、外からの獣の侵入を

阻んでいるように見えた。

 中には数匹の馬がせっせと草を食んだり互いの顔を擦り合わせたり、足を折って座っている。

 人も馬も夜になったらお腹を満たして、身体を休めることに変わりないようだ。


「あ、ちょっと待って」

 馬房の窓からうっすらと漏れる灯かりが、柵の際に繋がれていた一頭の馬を照らしていた。

カッポカッポと静けさに響く音を近づけて、柵越しに見下ろす。エリアスの馬だ。

「何? この馬がどうしたの?」

「これ、先に来た僕の友達の馬だよ」


「え?? 解るの? どれも一緒に見えるけど……」

 同じような柄の馬にも色々な顔がある。恐らく一度見た馬なら間違えはしないはずだ。

他の馬を順に見回して首を傾げたクロエは、ほいっ! と声を上げて鞍から飛び降りる。



 そうこうしていると馬房の入り口から大柄な男が姿を見せた。

 今までに出会った《外》の人の中で、一番体格が良く、肩幅は二倍位はありそうに見える。

腰に手をあて背を後ろに反らしながら、男はこちら……ではなく頭を凝視して声をかけてきた。

「お、アンタがリコかい?」


 エリアスが話を通しておいてくれたのだろう。にしても、名前だけでよく分かったものだ。

「はい! 中にいますか?」


 男は直立して不思議そうに目を細めた。

「おいおい坊主……ここは馬を預ける場所だ! 宿じゃねぇぞ」


 そういう意味で聞いた訳ではないが……どうやらエリアスは先に街へ向かったらしい。

いつどこで合流するかなど何も話をしていなかったので、まずは街へ向かうしかないようだ。

 隣を見るとクロエがせっせと荷を下して馬を丸裸にしていた。


「ここからは徒歩で門まで行くしかないぞ。通行証は持ってんのか?」

「通行証?」


 ドンッ と背後から弓と矢筒を押し付けられ、腰袋、水筒をハイ、ハイと渡され、手を引かれる。


「持ってまーす! じゃぁ馬お願いします! 行ってきまーす!」

 早口に続けて、駆け出すクロエの勢いに押され――いや、引かれながらよろめきつつ後を追った。



「ど、どうしたの?」

 無言で暫く走り続け、馬房の明かりが届かない所まで来ると、ふぅ と溜息をついたクロエは

こちらへ向き直る。

「アンタねぇ……通行証なんて持ってないでしょ? アンタの連れとやらもその事を完っ璧に

忘れてるみたいだけど。何も持たずに街に行くなんて言ったら怪しまれるに決まってんでしょ!」

 

 そうだった。夕方その事を話してたと思うけど、すっかり忘れていた事を、今思い出した。

「とっとといくわよ! こっち!」

 門前へと続く街道から右に外れて、明らかに何も無い石壁に向かって砂利道を歩き出した。




 外周の堀りに突き当たり、下を覗き込みながらクロエが先導した先に辿り着いたのは、

堀の下の細い道に続く階段だった。

 ゆっくりと煉瓦敷きの道に降り立つと、今度は細道を門側へ進む。

 街の外壁が円くなっているので上から見える位置ではないが一応気を付けて、聞きたいことを

抑えながら静かにクロエの後をついて歩く。


 横を見ると割と綺麗な水がそよそよと流れていて、とても飲む気にはならないが暮れ時の涼しさを強めてヒンヤリと感じさせる。

 門兵から見えないか? といった辺りまで近づくと、門側と壁側に道が二手に分かれている。

壁側への道は三段ほどの小さな橋になって、下を川が流れていた。

水の流れもどうやら同じように壁に向かって続いて――というよりは外壁にぽっかりと開いた薄暗い穴に向かって流れ込んでおり、その奥へと続く道を進む。



 穴は全体が鉄の格子で塞いであり、人が通れるようなものではないが、城の牢屋を思い出させる

かのような小さな扉がついている。

「なにここ?」


 太陽は完全に沈んでいて、かろうじて残る夕焼を吸い込むような暗闇の前に佇む鉄の扉は、

正直言ってかなり不気味で気持ち悪い。

扉の取っ手には大き目の錠がついており、どう見ても侵入者を防いでいるようにしか見えない。


「扉……どうするの? 鍵がかかってるよ?」

 クロエは鼻で笑って得意げにポケットに右手を忍ばせる。

「これよ……っと」


 取り出した細い鍵を錠に差し込んで、ゆっくりとまわした。

 軋む音と共に開く格子の扉は益々気味が悪いが、それよりも気になることがある。

「なんで君がこんな所の鍵を持ってるの?? まさか……また……」

 クロエは扉を潜りながら小声で答えた。

「ぬ、盗んでないわよ! そんなことどうでもいいでしょ! ほら、行くわよ」



 言われるがまま身をかがめて中に入ると、左右に続く石畳が奥へと続いている。

 森の夜とは違った、冷たい闇が目の前一杯に広がり、何とも言えない湿気と異臭に思わず手で口を押さえる。

 もう一方の手を握りしめて、勇気を振り絞りながら一歩、一歩と足を踏み出した。


「えーっと……あ、これこれ」

 慣れた足取りと手探りで水路の壁を探るクロエは、聞き取れない程小さな声で何かを唱える。

 

 ボッ と点火した灯かりが周囲をうっすらと照らした。

小さな油皿から紐が出ているだけの簡素な壁掛けランプのようだ。

「真っ暗なのによくわかるね」

「ここを通るのはいつも夜だからね……こっちよ」

 他にも色々聞きたい事はあったが、それを遮るかのようにクロエは細い苔道を急ぐ。


 迷うことなく分岐を辿っては、時々灯かりをつけて進んでいく後姿を見失わないようにしながら、多少なりとも出来た余裕を使って周囲の様子を見渡した。



 目が暗闇になれてきたようで、様々な物が視界に入り始める。

 右手にある水路は、入り口から徐々に低く、低く、下へ向かって行くほど低く?高く?なり、

今では背丈程の深さになっている。

水路に添うように道はどんどんと奥へ続き、下り坂や階段を滑らないように気をつけて通り過ぎた。

 

 申し訳程度の手すりのようなものの木の肌触りが、石床に取られそうになる両足と、行き場の無い手に安心感を与えてくれている。


 石壁の所々に開いた穴からは時折水が流れ落ちて、水路の壁に跳ねて飛沫を作っているが、

特にその時に強まる食べ物が腐ったような臭いに息が詰まりそうになる。

 それほど高く無い天井を見上げると、そこかしらから地上の光が差し込み、場所によっては街の

騒めきがこぼれ落ちて抗内に響いていた。聞き耳を立てても他愛も無い話が大半だが、それよりも

むしろ気になるのは、天井に無数にぶら下がる果物のような……何か。


 目を細めて注意深く、薄明かりに照らされるそれを見て居ると、そのうちの一つが落ち――ずに、飛び去っていった。どうやら蝙蝠のようだ。


 森でも良く見かける鳥だか獣だか解らない動物で意外と美味しい。

夜にしか見かけないので余り食卓に上がる事は無かったけど。


 通路の脇にはチョロチョロと鼠が逃げている。

 こいつがとても厄介な腹立たしい奴で、肉や果物をいかにして、この小さくてずるがしこい生物

から守るかというのが森の生活での一番の悩みなのだ。しかも食べられないときている。

無益な殺生をしない父ですらも、鼠に関してだけは容赦が無い。



 クロエは闇の中を悪臭も気にせず先へ進んで行き、同じ間隔で壁に備え付けられている油皿を

一つ、また一つと点けては光の道を作っていく。

互いの光が重ならない場所もあり、小さな背中が闇に溶けるたびに、ほんの少し心細さを感じる。

闇を光がまた一つ塗りつぶすと、明らかになる分岐は4つ……5つを超えた。


 他の道にもまだ先があるようで、全体はかなり広い。

「これ、他はどこに繋がってるの?」

「知らないわ。この道しか知らないから。うろうろして迷っても探さないからね」

 

 大きな石壁の中にある町全体に水路がめぐらされているのであれば、少なくとも地上と同じくらいの広さはあるのだろうか?

分岐を進む際に、水路にかかる橋を越え、角を折れ、階段を降りては、傾斜を降っているので、

もはや方角はさっぱり解らない。


「まぁ、何も無い森に比べれば目印はあるからね。はぐれても多分入り口には帰れるよ」

「あっそう。なら遠慮なく捨ててくからね」

 不機嫌そうに言って、また分岐に差し掛かった時だった。



 不意に足を止めたクロエにぶつかりそうにつんのめって、小さな肩を手で受け止めた。

「待って……何か聴こえない?」


 水路は今は逆の左側になっており、緩やかに流れる水際に続く道の先が若干明るくなっている。

やんわりとした夜明かりと共に新鮮な空気が入り込んでくるのを感じて、気がはやる。

「出口が近いのかな?」


 しかしクロエが見ているのは、右側の暗闇に折れて続く通路の奥のようだ。

「そっちじゃないわ、こっち……は、領主館の地下だったような……」


 ゆっくり進む少女の後ろを歩くと、通路の左奥には山積みにされた樽と並んだ木箱、そして右奥には上に登る階段があった。

 通路の壁に備え付けられていたランプを指すが、小さく頭を振った少女は人差し指を唇に当てて、そろりそろりと奥へ進む。


 水路の明かりだけでは足りないが、目が慣れていたので辛うじて周囲の様子は把握出来る。

月の無い夜に似た闇の中で、振り向く少女と目で合図をしながら階段の前までゆっくり進んだ。


 確かに人の声はする――が、まだはっきり聴こえる距離ではない。

 所々から漏れてくる街中の声よりは近く、何人かで話している声が聴こえる。


 更に左手に折れるように階段が続く。

 

 丁度踊り場になっている辺りで静止した身体をぎこちなく動かして再び上が――ろうとすると、

服の裾を引っ張るクロエが大きく首を振る。


 足を止め、耳を澄ませて、階段の先の木の扉を見つめた。


 ・・・・・・うするんだ・・・・・・あの王子・・・・・・

    ・・・・・・国に皇女と・・・・・・すんだろ・・・・・・

 ・・・・・・売られて奴・・・・・・もされる・・・・・・

     ・・・・・・あえず俺達・・・・・・まで見張・・・・・・


 クロエが首を傾げながら小声で耳打ちした。

「……なに? 何の話してるの?」

 

 話しているのは、声色からして二人の男のようだ。切れ切れに聴こえて来た話――王子……皇女。

 「これって……」

 危険だが、もう少し近づいてみたほうがよさそうだ。


 獲物を追うときのように足音を殺して、壁に手を当てながら階段をゆっくり上がる。

 ちょっと――と、声にならない音を飲み込んだクロエが長く息を吐く。


 一歩、一歩とよじ登るように上がり、扉の前で床と壁に手をついたまま、目を閉じて、

両耳に意識を集中させた。



 ・・・・・・そ、ねみーな。毎日酷使しや・・・・・・

    ・・・・・・カ! 誰かに聞かれたら殺さ・・・・・・

 ・・・・・・経質な豚がこんなとこまで来・・・・・・

   ・・・・・・け方には交代に来っから寝る・・・・・・

 ・・・・・・そ生意気な王子様もボコって・・・・・・

     ・・・・・・し相手にもなりゃしねぇかぁ・・・・・・

 ・・・・・・の朝に帝国に引き渡すまでの・・・・・・


 カツカツ という乾いた足音が響き、心臓の鼓動が跳ね上がる。

 軋む扉の音を追いかけて、覆いかぶさるように重く閉まる音が続いて、思わず息を呑んだ。



 流れる水のせせらぎと吹き込む風が重い空気を流す。

誘われるように振り向くと、クロエは人差し指を唇から階下に移して、そろりと降り出したので、

同じようにして階下に降り水路まで戻った。



「なに? どういうこと? あそこ――……は確か領主館の地下牢に繋がってたと思うけど」

「多分だけど……僕の友達が捕まってるみたいなんだ」


「え、けど商館にも大きな牢があるから、そこは倉庫代わりのはずだけど……」

 王子であるエリアスが捕まる理由が全く解らないが、途切れ途切れに聴こえて来た言葉を繋ぐと、少なくともリアーナが明日の朝に帝国へ引き渡されるのは確かなようだ。


 ……もしエリアスが巻き添えになってるとして、助け出そうにも、一体何が出来るだろうか。

こうも狭くて暗い場所では弓も使えないし、仮に使えても当たらないだろう。


「……アンタまさか……助けようと思ってんの? だったらさっきの扉から入って衛兵から鍵を奪うくらいしか方法は無いと思うけど……」


 何かを感じ取ってくれたのか、クロエが一つの方法を示してくれた。 

 奪う……どうやって? 戦う? 素手で??

 

 あっ……一つだけ……使えそうなスペルがある。


「そっか。ありがとう、やってみる」


 少し低い所にあるクロエの頭にポンっと手を置いて、再び地下牢への通路へ向き直り不気味な

暗がりを見据える。勇気を振り絞って一歩足を踏み出――


「ちょ、ちょっと、待ってよ。いくらなんでも今はマズイわよ! 騒ぎが起きれば兵士が上から大勢降りてやってくるわよ! そう……ね、あと四刻もすれば動きやすくなると……思う、多分だけど」


 焦る気持ちを抑えて、少女の案に従うことにした。ここの事は彼女の方が詳しいのだ。

少しでも助け出す可能性が高い方を選んだほうが良いに決まっている。

「分かった。じゃ、ここで待つよ」


 水路脇の分かれ道から通路側に少し入った辺りの、床石の乾いた場所に荷物と腰を下ろしてクロエを見上げる。

 座るとほんの少し上にくる少女はプイッと視線を外して、呟いた。


「……アタシは手伝わないわよ」

「そうなの?」


 今度こそ、身体ごと後ろへ逸らして、始めは大きくそして少しづつ声音を落とした。

「言ったでしょ! アタシもここに友達を探しに来てんのよ。こんなところで時間食って……手遅れになったら困るのよ……」


 少女には少女の理由があり、互いの目的が一緒だったから、ここまで同行しただけなのだ。

「そっか、そうだね。ここまで本当に助かったよ。ありがと」

 

 クロエは後ろを向いて、囁くよりも更に小さく、ぽつりとこぼす。

「……良いけど、別に」


 一瞬の静寂を潰すかのように、右足を上げ、踏みつけながら振り返る。はっきりと強い視線を返す少女は、少し顔を赤らめて……まるで泣きだしそうに言った。


「これ! 渡しとく! ここの鍵は大体それで開くはずよ!」

 小さな細長い鍵を受け取ると、ずっと懐に入っていたからなのか、ちょっと温かかった。

「けど、無いと君が困るんじゃないの?」

「私が向かってるのは港の商館の方だから。あそこはまぁ……大丈夫。とりあえず入り口は間違っても閉めないでね!」

 そうか。クロエも堂々と門を出入り出来る立場じゃない。水路を閉めると街から出られなくなる。そんな風に考えながら、彼女の手を取った。

「分かったよ。 気をつけてね」


「ちょ……き、気をつけんのはそっちでしょ! じゃあね!」

 振り払うようにお下げを揺らしながら駆け去って、暗みを増した水路の闇の中へ消えて行った。


 彼女が灯してくれた小さな明かりは、外からの微風にあおられて、周囲を揺らし滲ませる。

受け取った鍵もすぐに冷たい鉄の塊になり、冷たくて、手のひらから腰袋へ押し込んだ。


 暗闇には慣れている。

 一人にも慣れている。


 だけど、今のこの感情を、どう言葉にすればいいのか分からなかった。


 

 湿った苔の隅を走る鼠の姿にすらも拠り所を求めて、

 おかしなことになったなぁ――そんな風に思いながら小さく膝を抱えた。


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