10. 水火
「はぁ……どこ行ったんだよもう!」
早朝にエリアスそしてリアーナと別れてから、街中の至るところで父の行方を捜したが、足取りは全く掴めなかった。森の中の狩りでは痕跡を辿って獲物を追うことも多いので、靴跡は無理でも、
ある程度は行き先が解るだろうと軽く考えていたが、無精髭の狐はよほど賢いらしく、領主館にも、宿や酒場にも、大通りにも路地裏にも草葉のかげにも手がかりは見つからなかった。
そうして二角の羊が草を食む頃、商店の裏の細い路地から立ち上る一筋の煙が目に入った。
「なにあれ?」
行き交う人々が特に気にかけてない様子で、焚き火かもしれないが、領主から聞いた例の放火の件もある。念の為にと人気の無い路地裏を覗き込むと、表通りとは違い若干薄暗い。
ごちゃごちゃっと雑に置かれた木箱や何かが山積みになっていて――まさにその根元から小さく、そして真っ赤な火の種……が、見る見る見る見る見る見る――、ほんのひと時で炎と姿を変えた。
「うわ! 火事だ!」
周囲に人気は無く巻き込まれる恐れはないが、狭い路地の両側にはレンガ積みの建物が並ぶ。
すぐにどうこうという事は無くても。このままだと燃え移るかもしれない。
消した方が良いのは間違いない。
「……ego……なんだっけ……あ、そうだ」
懐から取り出した小さな紙片の2行目の文字を唱えた。
《……ego……ego……evoke……splash》
スプラッシュ――水の力を増幅するスペルだそうだ。
腰の水筒を手に取り、振り出し詠唱すると、掌の水溜りがプクプクと泡立ち波打つ。
勢い良く突き出した右手から放たれた水泡は、パシャっと四散するように炎を包み、
シュワっと消えた。
全っ然追いついてない!!!
「すいませーん! どこかに水ないですか!」
急いで大通りに出て、周囲を見渡し大声で呼びかける。
遠巻きに眺める見物人の中で、白髭の老人が指を差した。
「すぐそこに蛇口があるじゃろうが」
指し示す先は、路地に出てすぐ右側の建物の壁を這う、金属の柱についた突起だった。
「お、え、っと……これ、どうするの??」
「何を言っとるんじゃお前さんは?? 倒すんじゃろ?」
言われるがままに突起についている棒状の金属を倒すと、勢いよく水が噴出する。
「どわぁ!」
流れ落ちる水は透き通って、右手で受けると程よい冷たさと圧力を感じる。
両手で受けて、心を鎮めて先程の文言を繰り返す。
すると両掌の上で、明らかに出ている水量以上の大きさに膨れ上がり、大きな球を形どり始めた。
「うわぁぁぁ、何だーこれ!?」
咄嗟に足を踏ん張り、落とさないようにと注意すると、両腕に吊り下げているかのような、重みを感じ――た気がした。実際に自分の手で持っている訳では無いのだから、そんなはずはきっと無い。しかしその重みはどんどんと増して、腕が千切れそうなくらいに震える。
片足ずつ引きずり、路地裏に向かう姿を見つめる視線に気づかないフリをしながら、というかそんな余裕は無い。
とにかく何をどうすれば良いのか解らず、投げつけるような仕草で燃え盛る炎へ誘導した。
「いっけえええええ」
ドサッと四つんばいになる術者を置き去りに、水球はふよふよと揺れながら緩やかに進む。
遅い。届くのかこれ。
ようやく真上まで来ると、炎の剣に突き刺されて破れるように、
パンッと、派手な音を立てて落下して、業火に覆いかぶさった。
圧倒的水量で炎の勢いを完全に制圧した水泡は、レインフォールを大瀑布を連想させた。
何よりも立ち込める蒸気と煙が、飛沫で視界を遮る滝つぼにそっくりだったからだ。
いや、似てない、けむい!!
滝を眺めて居たら炭焼き釜に放り込まれたような熱気と焦げ臭にすっぽり包まれたので、脱兎の如く通りに避難する。
むせる。
「やるのう。これ程のアクニスペルは見たことがないぞぃ」
先程の老人がいつのまにか隣に立ち、白く長い髭を撫でる。
息を切らしながら、出しっぱなしになっていた水を止めた。
「げほっ……ぁはぁ……そうなの? な、何で誰も消さないの??」
「まぁ、待ってれば衛兵が来るからの。近頃小火が多くて皆、見慣れとるんじゃ」
「はぁ……そうなんだ……ってあれ?」
通りの奥、左側の路地から同じような煙が上がっているのが見える。
「あ~、あっちでも燃えとるのう」
そう言いながら老人は目を細めた。
「なんでみんな呑気なんだー!?」
空しいやり取りを二度三度繰り返した頃、一気に襲って来た疲労感で地面にへたり込んだ。
人目に付かないように火の収まった路地裏に滑り込んで、壁に背をやって息を整える。
地面に付いた手のそばに、チョロチョロと溜まる水を見ながら大きく深呼吸をした。
さっきの『ジャグチ』は『水道』という物だろう。森では水樋しか無かったので、実物を見るのは初めてだが、似たような形をした突起がそこらの街角や路地に点在していた。
しかし王都のように街のそこかしらに噴水のような物は無く、水が身近にある感じはしない。
指の間にまで流れ込んだ水は黒く濁り、煤が指先に絡まって黒く染める。
スス……燃えカス。火事……そういえばこれって――
「ちょっと!! そこのアンタ! 何してくれちゃってんのよ!」
不意に投げつけられた声の主を捜すと、少しずつ昇っていく煙の隙間から、小さな人影が見えた。燃えていた木っ端の後ろに積まれていた木箱の上に――少女が立っている。
「何って……火を消して……回って? 疲れて? 座ってるだけだけど……」
「だーかーら!」
ぴょんっと飛び降りて、両側の拳を握り締めながら地面を何度も踏みしめた。
「何消してくれちゃってんのって言ってんのよ!!」
何を言ってるんだこの子は?
見たところまだ子供のようだけど、こんな小さな少女がなんでこんな路地裏で……
「……・ああ!! 君が例の……あれ!」
「あれってなによ!?」
「えーっと……あ、そうだ! 放火犯!」
「失礼ね! ちょっと騒ぎを起こして、その隙に人を探してるだけよ!」
人探し? 理由は同じようだけど、わざわざ火をつける理由が何ひとつ解らない。
何より、こんな小さな女の子が火をつけて回ってるとは、とてもじゃないけど信じられない。
「けど、食べ物とかも盗まれるって聞いたよ?」
「そ、そりゃお腹がすけば……し、仕方ないじゃない! お金なんて持ってないもん!」
言葉の最後を張り上げて、横を向いて小さな頬を膨らませる。
怒りに合わせて二本の茶色いお下げ髪がいちいち揺れるのが、なんというか少しだけ面白い。
腰に結わえた赤い布が、ちょっとした飾りのように目立ってはいるが、一枚布の質素な格好を見る
限り、町の人間ではないようだ。
「だからって、人の物を盗るのはダメ……だよね?」
「何でアタシに聞くのよ」
「いや、そう教わってるけど、何がダメなのか良くわからないんだよねー」
人の物を盗るな――
人を傷つけるな――
人を殺すな――
今になって考えると、父に禁止されていたことは別に理由を知っている訳ではなく言われるままに守っていただけだった。
カイルを矢で射った時こそ、下手をすると二つは破ってしまっていたかも知れないのだ。
避けてくれて良かったと本気で思う。
とにかく、そのようなあやふやな教えだから、自信を持ってダメだと言い切れない。
「は?? と・に・か・く! か弱い少女がお腹を空かせたら、そん時はもうあるところから頂戴
するしかないじゃない? ってことでしょ!」
「そう? お腹がすいたんなら狩りすればいいじゃん」
「か、狩りぃ?」
ぽかーんと口を開けているので、その辺の虫を捕まえて放り込もうかと思う。
お腹がすいているようだからきっと喜ぶだろう。
「僕はずっとそうしてきたよ。お金なんて使ったこともないし」
そういえば父から預かった銀貨はカイルが預かっているのを忘れて居た。エリアスも居ないので、御飯の事も考えてなかったな……日が暮れるまでに町を出て獲物を探さないと。
「……田舎もんにも程があんでしょ。とにかく邪魔しないで。早く見つけないとオリビアが」
怒ったり、呆けたり、焦ったり、とコロコロ表情が変わる。エリアスやカイルと話すより面白い。だからではないが、理由があるなら聞いて見たい気もした。
「ねぇ、そのオリビアって人はどうしたの?」
「そ、それは……を盗んで捕まって――」
――やっぱり、という視線を少女に送る。
「ち、違うわよ! あの子はアタシなんかとは違って、本当に優しい子なの!
パンを盗んだのも……お腹を空かせた村の子らの為だから」
村? ……村ってどこだ?
王都やセベレス以外にも大きな町があるという話は聞いていたけど、村の事は聞いてない。
とりあえず理由を聞いた感じは悪い人間には見えない。
そして種火も無しに火を扱えるって事は、恐らく火の精霊の力を借りているということになる。
「君は町の人じゃないって事? セビリスじゃ火精信者が偉いって聞いたけど」
「そんな恵まれたご身分じゃないわよ。アタシらはアルヘ山に住んでる山賊――」
「サンゾク?」
「あー……えっと、あれよ! 悪い奴から盗った物を、貧しい人に分け与える人達のことよ」
聞きなれない言葉だが、話を聞いただけだけだと良い人達のようだ。
なおさら、そんな良い子が、なぜこんなことをしているのか分からない。
そういえば、領主館でエリアスと領主のラウルが話していた放火の話は、罪の重さや捕まった後の事も言っていたはずだ。
ほんの少し前の記憶を辿りながら、思い出せる限り順番に口にした。
「昨日聞いた話だけど……確か犯罪者はイベリスに送られるって」
「嘘!? それ本当??」
「嘘言って何になるんだよ。放火の話を聞いた時に……そうだ! そうだったそうだった!!
確か、放火は重罪! 見つかったら死刑だって! もうやめときなよ!」
「う……」
そこまで伝え終わると――さっきお爺さんが言ってた――町の衛兵が来る前に、ここを離れた方が良い事に気がついた。通りに出よう、とだけ伝えて少女の手を取り大通りへ出る。
「ちょ、ちょっと!」
路地から少し離れた所まで来ると、何人かの兵士が先程の路地裏に入っていくのが見えた。
これはかなり危なかったかもしれない。
「も、もういいでしょ!」
隣を見ると、顔を真っ赤にした女の子が手を振り離して、小声で続けた。
「……そ、それで……盗みもそうなの?」
「え? 何が?」
「ちょっと! アンタが言ったんでしょ!? イベリスに送られるって!」
「ああ、その話……えーっと……何だったかな。確か軽い罪はセビリスで捕まえたり……裁判?
だか、をしてたらしいんだけど、今は全部一度イベリスに送るって言ってたよ。領主のお兄さん? の命令だって話だった……かな?」
丁度昨日の今頃の事を少女に説明する為に、エリアスとラウルの話を頭の中から捻り出す。
***
「ですが……移送された軽犯罪者がセビリスへ戻された事は一度も無いのです」
「そうなの? それって向こうで自由になってるってこと?」
「それは無いと思います。イベリスは入るのも出るのも難しい町で、住民ですらも厳重に管理されてますし、兵士の出入りでさえ門番に誰何される。セベリスも程度の差はありますが、基本同じです」
「え? けど僕達が入る時、別に何も無かったよね?」
「それは俺と一緒に居たからだ。王国兵は素通りだからな」
「ふーん、そうなんだ」
「そうです。だからイベリスからこちらに戻ってくるなら、セビリスは絶対に通るはずなんです。
イベリスからここまでは一本道なので」
「けど、そんなに送ってたら、イベリスの牢屋が一杯になるんじゃないの?」
「そ、そう……です。イベリスの領主館は港側にあって、そこに犯罪者の収容施設もあるのですが、
それほど大きな建物では無いですし、罪人に関してこれと言った話も聞いておりません」
「ラウル。お前の兄……イサークは何を企んでる」
「そ、それは……僕、いえ……私にも解りません。兄のやり方には正直疑問に思うこともあります。例えば……ご存知かもしれませんが、帝国との交易で武器を仕入れている事もその一つです」
「やはりな。出所の解らない粗悪な武器が増えているという報告は以前からあった。エスパニから
王都や他の町への仕入れ量はさほど多くない。狩猟程度で武器を振るうような奴は居ないからな。
衝突があるのも西部くらいで、アルヘの難民相手に必要な物でも数でもない」
「おっしゃる通りです……一体何を考えているのか、私には兄の考えが解らないのです」
「聞いてみれば良いんじゃないの?」
「……聞きましたが……いや、けど、私は兄の……全権者の指示に従うだけなので」
「ふん、お前はお前でセビリスの領主代理だろ? 盲目的に指示に従うだけでどうするんだ?
有事の時は、お前が判断して、お前が決めなければならないんだぞ」
「……」
「うーん、良くわからないけど、帝国と戦うわけじゃないの?」
「んな訳ないだろ。戦う相手から武器を仕入れるのか? 帝国だって売ると思うか?」
「……兄さんは帝国にベッタリですから。逆らうような真似はしないと思います」
「その西部って所で使ってるとか?」
「無い……だろう。ルール地方の領主であるランベルト兵長は王国でも数少ない人格者だ。不自然な武器の流れがあればすぐに気づくだろうし、それを放置するような人ではない」
「そうですね……というよりも、そのように大量の武器がセビリスを通った形跡も無いんです。
あれば流石に気づくと思います。私も知らないような抜け道があるなら別ですが……ご存じの通り、地形的にセビリスを抜けなければ王都方面へは行けないはずです」
「そっか……じゃあセビリス――は無いか、自分の家だもんね。王都と戦うんじゃない?」
「……まさか!! そんな事は!」
「いや……待て……あるのか? その可能性……」
***
「どうしたのよ? ぼーっとして」
目を細めながらこちらを伺う少女の顔を横目に、あの時、急に強ばったラウルと、考え込んだ風に
黙り込んだエリアスを思い出して、ほんの少し不安を感じた。
何かとても大事な事を話していたような気がする。
小さな女の子の心優しい友達の話とは関係がない事だとは思うけれど、
、そんな物騒な街に向かったエリアスとリアーナのことが、少しだけ心配だった。