もし生きていたら
一人の男と少女のお話しです。
「じゃあ、また来週」
「はい、生きていたら」
俺と彼女の別れはいつもこの会話だった。
いつから彼女がこんなセリフを吐くようになったのかは知らない。ただ、出会ったときにはすでに彼女はこんな感じだった。
出会ったのは落ち葉舞い散る季節だった。これが桜だったなら、もう少し運命的に思えたかもしれない。その構内の一画はなぜか秋になると落ち葉が山のようにたまっていた。特に周囲に木が多いわけではなく、ただ、風下になっていたらしい。
そこにぽつりと一脚、ベンチが置かれていた。たぶん、ここにベンチがあることを知っていて、なおかつ利用したことのある生徒は皆無だと思う。少なくともこの高校に赴任して半年ほどたったが、そこで人影を見たことは一度もなかった。何せ、めったに人が立ち入らない倉庫のさらに裏側だからだ。俺は構内の見回りをしているときに偶々そこを見つけた。そして、たまにそこでコンビニで買ってきた少し味の濃いお弁当を食べる。
その日も、俺はそこでから揚げ弁当のふたを開けた。その俺から3メートルほど離れた場所に彼女が立っていた。彼女はまさかそこに人がいるとは思ってもみなかった様子で、硬直していた。二人の間にしばしの沈黙があった。
やがて彼女は白いスカートを翻し、駆け出した。反射的に俺も走り出していた。彼女はチラと俺を振り返ると、さらにスピードを上げる。俺もそれに続く。どうして俺は彼女を追いかけているのだろう。構内に部外者が立ち入ったと言っても、彼女のような女性では悪事を働けそうにない。そもそも、生徒でも男子ならば簡単に取り押さえることができそうだ。それにもしかしたら卒業生が遊びに来たのかもしれない。
しかし、一瞬見えた彼女の寂しそうな苦しそうな表情が目の奥に焼き付いている。彼女がまた振り返る。そして少しスピードを上げる。どうしてあの走りにくそうな靴でこんなにスピードが出るのだろう。俺は自身の革靴にも少し腹が立ってきた。そして、脇腹の痛みを覚える。と同時に空腹も思い出した。彼女はさらにこちらを振り返る。その顔に少し疲労の色が見えてきた。
追いつける。と考えているとかくんと視界が傾く。こける、と思ったときにはすでに遅かった。小さな段差に足を取られて、医師の地面にうつぶせになっていた。急いで前を見るが、彼女の姿はどこにもなかった。俺はそっと立ち上がり、ズボンをはたく。一泊遅れて手のひらと膝がジンジンとうずく。
キーンコーンカーンコーン
間の抜けた音が響き渡る。俺は午後最初の授業を終え、教室を後にする。後ろの方でわっと笑い声が広がる。よく毎日毎日話題が尽きないものだと感心しながら、廊下を歩く。途中、何人かの生徒の挨拶に返事をしながら。いつもならば職員室に直行して次の授業の準備に取り掛かる。しかし、今はまず保健室。教師という職業は意外と汚れる。そして、手のひらはチョークにまみれる。
保健室の前には花瓶と共に、養護教諭不在の文字があった。俺はそれをよそに保健室に入る。消毒と絆創膏くらいなら、自分でできる。消毒液はすぐに見つかった。いくつかの引き出しを開けて、絆創膏を探す。
「だれ?何してるの?」
ドアの開く音と共に少し咎めるような声が背後から飛んできた。
「絆創膏を一枚もらおうかと・・・・・・。」
「あら、鈴谷先生だったの。てっきり、生徒が勝手に入ったのかと」
「いえ、勝手に入って申し訳ありません」
「構いませんよ。ところで、どこを怪我したんですか」
俺はおずおずと手のひらを見せる。それを見た養護教諭山本先生はてきぱきと消毒液を俺の手のひらにかける。そして、意外にしみて、顔をしかめる俺をよそに、絆創膏を貼ってくれた。
「はい、オッケー」
「ありがとうございます」
「でも、なんでこんな怪我したの。いい大人が鬼ごっこってわけでもないでしょうに」
俺は昼休みの出来事を反芻する。山下先生はもう5年以上はこの学校に勤めている。昼間見た彼女はどう見積もっても、20歳そこそこだろう。ここの卒業生ならば、知っているかもしれない。しかし、彼女の思いつめた表情と俺から逃げる鬼気迫る様子から、人に話すこともためらわれた。それにあの出会いは俺だけの秘密にしてしまいたいような気もした。
「ちょっと、小さな段差に躓いてしまって」
結局俺はごまかすことにした。もしかしたらまた彼女が現れるかもしれない。そうしたらその時に彼女本人と話せばいい。現れなければそれまでだ。名も知らぬ美少女との一瞬の逢瀬。そのままにしておくのも粋なものだ。
少し世間話をして礼を言い、俺は保健室を後にした。この時間は授業がなかったが、次はある。職員室に戻って、準備をしなければならない。それにそろそろ学期末試験を作り始めなければならない。日々、新人教師は仕事に追われる。昼間の出来事を思い出す余裕はない。
また雑務をこなし、少しの緊張と共に生徒の前に立つ日々が続いた。あわただしくも充実した日々の中で俺はあの少女のことを忘れかけていた。あの昼休みはどこか現実ではないような、そんな感覚だったのかもしれない。手に貼っていた絆創膏もすっかり不要になってしまった。まだ少し残っているかさぶたがわずかに俺の記憶をとどめていた。
そして、ちょうど一週間。彼女は再び現れた。この日、俺はあのベンチには座っていなかった。そもそもあそこを利用することは気が向いたときだけだ。それにさっさと食べて、お昼休み中に片付けてしまいたい仕事があった。温かいお茶でも入れようと、休憩室で湯を沸かしていた時だった。何の気なしに見た窓の外に彼女がいた。
この窓の向こう側にあるのが倉庫で、ちょうどこの窓の下にあのベンチがある。
彼女はそこでおにぎりを頬張っていた。コンビニのおにぎりらしかった。しかし、俺でもよく食べるそれさえ、なぜか浮世離れしたものに見えた。俺は窓からじっと彼女の様子を眺めていた。途中、休憩室に入ってきた同僚から奇妙な目で見られていたが、それにも気づかないほどだった。
ひらひらと舞い落ちる葉が一枚、彼女の鞄の中に飛び込む。それを拾い上げる白い指先。ついばむようなピンク色の唇。少し青白い頬。それを見ているだけで時間が過ぎた。彼女がそれを食べ終わるまではそれほどかからなかった。食べ終えると、ごみもすべて鞄にしまい、彼女はふわりと立ち上がって歩き去ってしまった。方向は先週逃げた方向と同じだったが、それからどちらへ行ったのか、この窓からは見えなかった。
おれは少し冷めてしまったお茶をそのままマグカップに注ぎ、座席に戻った。昼休みはあと10分ほどしか残っていなかった。とにかく、昼食を食べてしまおう。出来なかった仕事は放課後にするしかない。今日も深夜コースを覚悟した。
それから幾度か彼女はそのベンチに現れた。そして、あの鬼ごっこのような出会いからひと月が過ぎたころ、俺は彼女が現れる日に法則があることに気が付いた。なんてことはない。彼女は毎週同じ曜日、決まって木曜日に現れていたのだった。毎週木曜日、休憩室の窓から彼女を見守るのが俺の日課になった。
落ち葉の季節が終わって、外でじっとしていると体の芯が凍えてしまうようなそんな季節になっても彼女は同じようにそこに座ってコンビニのおにぎりを食べていた。元々青白かった頬はさらに色を失っているように見えた。俺はたまらず、休憩室を飛び出して、彼女にそっと近づいた。そして、休憩室で入れたコーヒーをそっと彼女の脇に置いた。
「大丈夫だから、ちょっと待って」
何が大丈夫なのだろう。
「君が嫌なことはしないから」
怪しさ全開だな。
「とりあえず逃げないで」
情けない声だ。
「……ありがとうございます」
彼女はそっとマグカップに手を伸ばす。その手は小刻みに震えていた。寒さか、はたまた緊張か。彼女のか細いのどがこくんと動く。心なしか彼女の頬に赤みが差したような気がする。
「君、ここの卒業生?」
「はい」
会話はひどく細切れだった。
「ありがとうございました」
沈黙のまま彼女がコーヒーを飲み干すのを黙って待っていた。いや見惚れていた。
「いや、こんなのは」
「あの、出来たら私がここに居ることは黙っていてほしいんです」
やはり何かわけがあるらしい。彼女はやはりごみまで鞄にしまうと、さっと立ち上がりこちらにきれいに一礼してから、去っていった。
学校は冬休みに突入した。俺は休み明けの課題テストの作成や、その他雑務、そしてクラブ活動の指導と目のまわる忙しさだった。学生時代、教師って楽しそうだと思っていた自分に今の自分を見せてやりたい。楽しくないとは言わない。むしろ良い職場だと思う。しかし、生徒のいない学校とは張り合いのないものだ。その割にすることは山ほどあるのだから、気持ちと行動がかみ合わない。
そして、その忙しさと普段と違う生活の中で、俺は曜日感覚を無くしていた。つまり、彼女がそこに来る日をすっかり忘れていた。約束をしているわけでもないので、行かなければならないわけではない。しかし、金曜日になりそのことに気づくとなぜかすごく大事な用事をすっぽかしたような気持ちになった。
今日行っても仕方がないと思いながら、俺の足はあのベンチに向いた。そこには先週と同じように彼女がいた。彼女がおもむろに顔をあげる。俺の顔を見て、少し頬を緩めてくれた。逃げられるところから大きな進歩だ。俺は彼女の隣に座った。
「河辺このみさんだよね」
俺は思い切って切り出した。彼女の頬が途端にこわばる。
「ごめん、過去の卒業アルバム見たんだ」
「そう、ですか」
「このみさん、あの、もうすぐ君は学校入れなくなる」
この前の木曜日、彼女が去っていった後を確かめた。すると、学校のフェンスの一部に彼女くらいならば通れそうな穴を一つ見つけた。そして、それを報告しようか迷っている間に、昨日、職員会議でその穴を修繕する作業に入るとのアナウンスがあった。
彼女は困惑の表情だ。
「それで、提案がある。もしよかったら、ついてきて」
彼女は意外にも素直についてきた。
俺は校門をくぐり、時々ついてくる彼女を確認しながら、学校から一本道の先にある喫茶店の扉をくぐった。ベルが小気味の良い音を立てる。そこは流行りの隠れ家風と言った感じの喫茶店。
「健太、久しぶりだな」
「あぁ」
ここは俺の大学の同期の店だった。教育大学を出て喫茶店を開いた変わり者。しかし、なかなか繁盛しているらしい。しかし、それでいて騒がしくないのがうりだった。
「どこでも座って」
そう言われてもあいている席はほとんどない。奥の方に二人掛けの席を見つけて彼女を促す。
「何でも頼みな」
ほいとメニューを手渡す。
「ココアを一つ」
彼女は一通り目を通すと消えそうな声でそう頼んだ。少しして、アルバイトらしき店員が持ってきたそれを彼女はとてもおいしそうに飲んだ。俺はそれをただただ見つめていた。
「ところでさ、次はいつあのベンチに行く予定だった?」
「明日……です。学校、もう休みだし」
「そっか、大学生だもんな。じゃあ、明日はいつもの時間にここに来ればいい。もうすぐ修繕が入る予定だから」
彼女は少し考えている様子だった。
そして、小さくうなづいた。
「よし、じゃあ明日な」
「ええ、もし生きていたら」
これがあの奇妙な別れの挨拶の始まりだった。
あの日から、俺らの不思議な関係は始まった。友達でもなく、もちろん恋人でもなく。冬休み中はほぼ毎日、このみはあの喫茶店に来た。新学期に入ると週に一度になったが、それでも木曜日は欠かさずに喫茶店で一緒に昼食を取った。彼女はあのココアが気に入ったらしく、必ず食後はココアを注文した。このみは必ず財布を出そうとしたが、絶対に支払わせなかった。というよりできなかった。あの毎週のベンチでの昼食を見る限り、資金が潤沢にあるとは思えない。
このみは多くを語らなかったが、それでも彼女の状況は少しずつ少しずつ分かってきた。おそらく、家庭環境はあまりよくなくて、家に居づらいこと。大学で友人関係がうまくいっていないこと。高校時代も友達を作るのが苦手だったこと。そのため、人間恐怖症気味でアルバイトをする勇気が出ないこと。これだけのことを何か月もかけてようやく聞き出した。
そして、その間にもう一つ分かったことがある。それはこのみは本当はとても面白い女性だということ。彼女が言葉少ななので、必然的に俺が一方的に話すことになる。俺もあまり話は得意ではないから、沈黙の時間も多いのだが、それでも、俺の方が圧倒的に多く話している。そして、俺の話に返す彼女の言葉に俺は時々舌を巻く。ウィットに富んだ会話とはこのようなものを言うのだろうと、口下手な俺にも思わせてくれる。しかも、彼女はほとんど話をしないにもかかわらず。はじめは半ば一人の少女への憐れみのようなもので始まった俺の関心だったが、やがて俺もこの時間を楽しみにするようになっていった。
大学がかなり早い春休みに入ったころ、つまり俺はもうこのみの連絡先を知り、頻繁にではないが、スマホでも連絡を取り始めたころ。このみは一段と深刻な顔をしていた。うぬぼれかもしれないが、俺と食事をするようになってから、彼女の消えてしまいそうな青白さは少しずつ和らいでいたように思う。しかし、初めて会ったあの日よりも蒼白な顔をしている。ただでさえ少ない会話も一段と減ってしまった。彼女のプレートの料理はどんどんと冷めていく。それを箸で細かくつついている。
「食べないのか?」
このみの箸はご飯粒を3つつまんで口に運ぶ。そしてまた、プレートの上を小さく泳ぐ。
「どうかした?」
しばしの沈黙。そして沈黙。
「あの……。」
空気に溶けていくような、淡い声。
「どうした?」
「もし、私が死んだらどれくらい悲しいですか」
え……。
「ごめんなさい。変なことを聞きました」
俺はまだ硬直している。その間に彼女は逃げるように店から出ていってしまった。
俺はずっと彼女に返事ができなかったことを後悔している。しかし、仕事の日々は続く。40人の子どもが俺を必要としている。それでも、彼女の質問が引っかかっていた。同僚の教師に自殺願望のある生徒への対応を質問して、騒ぎになりかけた。俺のクラスにそんな生徒がいると完全に誤解されるところだった。ただ、一つ収穫はただ話を聞くことが何よりも重要だと分かったこと。俺はさっそくこのみにメッセージを送信した。
『次はいつ、喫茶店に来ますか?話がしたいです。』
返事はない。毎休み時間スマホを確認する俺を見て、今度は恋人ができたと誤解を生むこととなった。
『体調が悪いのですか?また明日も喫茶店で待っています。』
それでも返事は来ない。帰宅後も俺はスマホを握りしめて過ごした。
『何か忙しくなったのですか?一言でいいです。返事を待っています。』
やはり返事はない。まるで彼女にすがるどうしようもない奴だとスマホをベッドに投げる。憎たらしいほど、きれいに弾んでベッドのクッションに吸収される。そのまま自分もベッドに倒れこむ。が、壁で肩を強打して、痛みに悶えることとなった。
昨日はあのまま眠れぬ夜を過ごした。そして、寝不足のまま学校に行くと、再び恋人説がささやかれる。普段ならもう少し積極的に消火しようとするのだろうが、今日はその余裕はない。少しでもスマホが振動しようものなら、反応してしまう。今日が授業日でなくて本当によかったと心から思う。もしそうだったら、普段の生徒の携帯電話指導の説得力がガタ落ちしていたことだろう。昼頃になってもやはり彼女からの返信はなかった。これまで彼女からこんなに長い時間返信がないことはなかった。
もしかしたら、奇跡的にアルバイトが決まって忙しいのかもしれない。もしかしたら、友達ができて、俺のメッセージを気にしている暇がないのかもしれない。もしかしたら、恋人が……。
色々なもしかしたらが俺の中に生まれたが、どれもかなり可能性は低い。
「もし、私が死んだらどれくらい悲しいですか?」
彼女のセリフが昨日からぐるぐるとめぐっている。彼女は死ぬつもりかもしれない。人間関係がうまくいかず自殺。一日に一度は新聞で見る出来事だ。しかし、それに直面するとは思わなかった。
どうすれば彼女を引き留められる?
これもまた昨日から繰り返した自問だ。答えは出ない。そしてまた、昨日の彼女のセリフとその寂しげな表情がくっきりと脳裏に浮かぶ。
「鈴谷先生、この書類間違えてますよ」
唐突に現実に引き戻される。
「すみません」
「大丈夫ですけど……。そんなに大きな心配事があるなら、もう帰ってもいいですよ?この書類もまだ余裕ありますし」
学年主任が心配と少しの不信感の混ざった視線を送っている。
「いや、大丈夫です。すぐにやり直します」
「そうですか。じゃあ、お願いします」
俺は書類に目を落とす。普段ならやらないような間違いをしている。これは心配されるわけだと少し納得する。だからと言って、いつも通りの集中力を取り戻せるわけではない。スマホが震えたような気がして取り出すこと数回。たぶん、片手では数え切れないほど。それを繰り返しながら、何とかミスを訂正できたのは昼頃だった。
プルルル プルルル
視界に入らないように鞄にしまっていたスマホの音に気づいたのはその時だった。
「はい、鈴谷です」
やや前のめりになって通話する。画面に表示されていた名前は河辺このみだった。
「河辺です」
やや年配の女性の声だ。
「娘を知りませんか」
とても疲れた声をしている。
「家にいないのですか」
「ええ、昨日からどこを探してもいなくて」
母親らしき女性の狼狽ぶりが電話越しでもよく分かる。
「このみはあなたとよく連絡を取っていたようなので」
そして、俺がこのみの居場所を知らないことへの落胆の色がはっきりと見える。
「分かりました。探します」
居ても立っても居られなくて、俺は電話を切り、職員室を飛び出した。門を出て、一本道を走る。あの日、このみの歩調に合わせてゆっくりと歩いた道を精一杯に走る。
からからん
ドアベルがあのときよりも忙しくなる。
「どうした」
俺の必死の形相に驚いているようだ。
「こ、ここ、このみ、来てない、、、か」
息が切れてうまく喋れない。
「ああ、来てないけど」
「分かった。あり、がとう。来たら、連絡、してくれ」
俺は来た道をもう一度駆け戻る。彼女がいそうな場所を思いめぐらす。もう、一つしか浮かばない。あそこに居なければもうお手上げだ。どうかいてくれよ……。
俺は職員室の裏手にまわった。そして、倉庫との間の薄暗い道を歩く。昨日の夜中に振った雨のせいで泥に足を取られそうになる。もどかしい。
あ……。
あのベンチの上にうずくまる人影があった。
「このみ!!」
俺は泥を巻き上げながら駆け寄る。彼女はピクリともしない。頬は氷のように冷たかった。そっと顔に手を
かざす。か細い吐息が感じられた。一瞬、悪い想像をしてしまった。しかし、手足も恐ろしく冷たくなっている。いつからここに居たのだろう。しかも、この寒さなのに薄着だ。携帯電話も家に置いてきたようだし。やはり自殺を試みたのだろうか。
どうしても目を覚まさない彼女を抱きかかえ、俺は保健室に走った。やはりこのみの体は氷のように冷え切っている。さほど広くはない構内だが、保健室が異様に遠く感じられる。つまずいたり、少しぶつけたりしながら、ようやくたどり着く。
またしても養護教諭不在と掲示されている。
それでもドアはあいた。
おれは泥まみれの靴を脱ぎ散らかして、彼女をベッドに運ぶ。手あたり次第、引き出しを開けて、湯たんぽとカイロを発見した。瞬間湯沸かし器に水を入れ、スイッチを入れる。
彼女に駆け寄って、そっと服をめくった。カイロを貼る。彼女の雪のような素肌にそんな場合ではないと分かっていながらドキリとする。抱きかかえているときに気づいた首筋と手首の傷にも絆創膏を貼っておく。そして、布団でぎゅっとくるんだ。少しでも暖かくなるようにと布団の上からこのみをさする。
カチッと音がした。湯が沸いたようだ。焦る気持ちを抑え、そろそろと湯たんぽに注ぐ。今まいた布団をめくり、彼女の雪のような足元に置く。そして再び、少しも冷気が入らないように布団を巻き付けた。
また彼女をさする。無心に。彼女の頬に少しずつ色が差し始めた。俺の心も少しずつほどけていくのが分かった。彼女の吐息にも温度が戻っていくようだ。
どれくらい時間が経ったのか分からない。西日が保健室内を暴力的なまでのオレンジに染める。
彼女のまつげが揺れた。
少しうとうとしかけていた俺ははっとする。
「このみ! このみ!!」
しっかりととじられていた瞼が二、三回震えて、そしてやがてしっかりと開く。すこしまぶしそうに顔をしかめている。
「健太……さん」
「ああ、このみ分かるんだね」
ゆっくりとこのみはうなずいた。そして、窮屈そうに身もだえする。
「あ、ごめん。かなりきつく巻いてしまった」
「大丈夫です。助けてくださったんですよね」
「ああ。でもなんであんなところに?」
「死のうと、思ったんです」
彼女は訥々とこれまでのことを話してくれた。家で商売をしている父親のしつけが過剰なほど厳しいこと、そもそもはそのせいで昔から友達を作りにくかったこと。毎日、死んでしまおうと考えていたこと。
だから、「生きていたら」だったのだ。
そして昨日、もう本気で死んでしまおうと思ったそうだ。きっかけは父親の叱責。いつものことではあった。けれど、ぱちん、と許容量を超えてしまったようだ。彼女は本気で死ぬことを考えた。そして、ナイフで手首を切り、死ねなくて、首筋を切った。それでも死ねなくて、絶望して家を飛び出した。ふらふらと歩いているうちにあのベンチにたどり着いたらしい。それが夜中の出来事。このみは半日以上もあの寒空の下でうずくまっていたことになる。
「よかった、無事で」
「ありがとうございます」
俺たちは二人、保健室に明かりが必要になるころまで向かい合っていた。
結局あの後、俺は保健室の散らかしようを見た山本先生に叱られた。そして、抱きかかえて走る俺をみた先輩の教師が連絡を入れてくれたこのみの母親が迎えに来て、彼女を引き渡した。母親は外でしっかりと働く、キャリアウーマンらしく、家の様子を分かりながらも何もできなかったという。しかし、これからは少しずつ変わっていきそうな予感がした。職員室に戻った俺は先輩たちに大いにからかわれた。本当に今日が生徒のいない日でよかったと思う。
あれからも、俺たちはあの喫茶店で同じように会っている。変わったことといえば、別れ際の挨拶。
「じゃあ、またね」
「ええ、また。楽しみにしてます」
このみのこれだけの言葉が死ぬほどうれしかった。そして、彼女と疑いなく再会を約束できる喜びを俺はただ心に抱きしめた。
いかがでしたでしょうか。
少し重かったですが、当たり前ではない「また明日」を感じていただければ幸いです。
……こんなつもりではなかったのに、過去最高の長さを記録しました。本当はもう少し軽く描く予定だったのです。彼女がこんなに深刻な状況だったとは。