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嘘付きは彼じゃない。

作者: 伊藤 唯羅

「俺ら付き合わない?」

 友樹の口から唐突に出た言葉。ふわりと笑みを浮かべながらも何処か不安を帯びたその瞳は真っ直ぐに私を貫いていた。

 更は即答した。

「付き合う」

 只純粋に嬉しかった。友樹の事が好きだったから。


 ***


 高二になって間もない頃、漸く新しいクラスにも慣れ始め、しかし、未だそわそわとした緊張感が漂う中実施された席替え。更の隣になったのは、「格好いいよね」なんて仲良しの友人との会話に出てきたクラスでイケてる男の子――春野友樹。

 癖の強い茶がかった髪、健康的に焼けた肌、少し垂れた目、形の良い唇。笑顔はまるで子犬のように愛らしくて、それでいて爽やかで。誰にでも優しくて明るくて気さくで。

「よろしくね、御幸さん」

 軽い会釈をしながら友樹はふわりと微笑んだ。

 瞬間、更は息を呑んだ。

 その笑みは春風のように優しく暖かくそっと更を包み込んだ。脈打つ音が、妙に近く聴こえた。


 席替えから数日経ったある日の休み時間、授業の準備をしていた更はふと手を止めた。

 ――教科書を忘れてしまった。

 次の時間は現国だ。教科書が欠かせない教科であるし、そうでなくても忘れ物など許される事ではない。借りに行くにも授業開始まで後一分と少ししか無い。仕方無い、と、隣の席の男子に声を掛ける。

「すみません。次の時間、教科書を忘れてしまったので見せてもらえませんか」

 出来る限り丁寧にお願いしてみた、が、相手の男子は嫌そうな顔になった。

 可愛い女の子でもなく、別段仲がいい訳でもなし、それどころか会話すら殆どしたことが無い相手なのだ。その反応も仕方無いだろう。一瞬歪んだその表情に多少傷付いた事には見ない振りをして、申し訳無く思いながらも、動かそうと机に手をかけた。と、その時。

「俺が見せるよ」

 友樹だった。

「別に良いだろ?」

 若干の冷気を帯びた視線が男子に降りかかる。ビクりと小さく震えた彼は、少し怯えた様子で「ああ」と短く答えた。

 庇ってくれたのだろうか。

「あ、あの……ありが、とう」

「ううん。俺が見せたかっただけだから」

 しどろもどろに答えた更に友樹は優しく微笑む。

その現国の授業は、緊張であまり頭に入って来なかった。


「これ」

 突然更に小包を渡され、それを反射的に受け取った友樹は暫くの間目を瞬かせていた。チラリと手の中を見やると、小包の中身はどうやらカップケーキだという事が分かった。

「この間教科書見せてくれたから、そのお礼です」

 更にとって身内以外の異性に何かをプレゼントするというのは初めての体験で、それ故言い知れぬ恥ずかしさが襲って来る。

 そうよ、これはただのお礼なんだから。

誰にでも無く言い訳をし、頬を紅潮させつつも、しかしその瞳は友樹をしっかりと見つめていた。

「……もしかして、甘いの苦手ですか?」

 いつまでも手元を見つめ固まる友樹に、耐えられずに尋ねてみる。

 サッカー部のエースである友樹は、マネージャーや彼に黄色い声を上げる少女たち――所謂ファンだ――から頻繁に差し入れを貰っていたので平気だと思ったのだが。

「……あっ、いや、そういうんじゃなくて」

 漸く反応した友樹に更は安堵の笑みを浮かべた。

「良かった! 女の子からよくお菓子貰ってたから平気かなって思って。一応甘さは控えたのですが……」

「て、づくり、なの?」

「あ、はい。趣味で休日とかによく作るんです」

 若干片言の友樹に不思議に思いながらも素直に答え、しまった、と更は頭を押さえた。

 そもそも、甘さがどうのという前に、味の保証出来ない素人の作った食べ物なんて、自分のような人に渡されても嬉しくなんてない。寧ろ気持ちが悪い。

 そう考えた更は慌てて頭を下げる。

「ごっごめんなさい! こんなもの貰っても困りますよね」

 と、友樹の手の小包に手を伸ばす。それを今度は友樹が慌てて止めた。

「違うんだ! そうじゃなくて、困るとか全然……寧ろ嬉しいって言うか……」

 顔を隠すように手で押さえ、真っ赤になりながら友樹は答えた。それを呆然と見ていた更にはっとして、「ありがとう」と、小包を大事そうに抱えた。

 はにかんだ友樹の表情に更は暫く動けなくなった。酷く、擽ったかった。


 それからというもの、段々と話す機会が増えて行った。好きなお菓子の話から始まり、好きな本、好きな動物、好きな芸能人…………春樹が甘い物が好物である事や、逆に珈琲のような苦い物が苦手だと言う事、意外だったりそうで無かったり。自分の知らない春樹を知っていく事は更の楽しみになっていた。

 席が離れてからは以前程の頻度では話さなくなったが、挨拶は欠かさず交し、度々目が合う事に毎度の事ながらもドギマギする日々を過ごしていた。


 そうしてある日、遂に友樹から告白された。

 自分が友樹に好意を持っている事にはとっくに気付いてた。断る理由なんて、これっぽっちも見当たらなかった。


 ***


 交際を開始してから3ヶ月が経とうとしていた。

 あの日を境に更は友樹を「友樹君」と、友樹は更を「更」と、互いに名前で呼び合うようになっていた。

 教室内での会話も増え、今日も先日見に行った映画について話し合っていた。と、その時。

「友樹せんぱーい、差し入れ持ってきましたぁ」

 ガラリと扉が開き、教室に入ってきたのは二人の女生徒。制服のリボンの色が赤である事から一年生だと分かる――更達の高校では学年毎にネクタイ及びリボンの色が違う。三年生が青色、二年生が緑色、そして一年生が赤色だ――。彼女たちの手には手作りと思わしきお菓子の入った包みが握られている。頬を染め、薄く化粧の施された可愛らしい顔。その表情はまるで友樹に恋しているかのようで……いや、まるで、じゃない。

 彼女達を見つめていた更はふと自分を見下ろしてみる。

 特別目立つような容姿でもなく、地味で、人見知りで、得意な事なんて何一つ無くて。そんな自分より彼女達の方がずっと友樹に釣り合っている。

 友樹は爽やかな笑顔で差し入れを受け取った。友樹の指先が彼女達の指先と触れ合って――。

 更は自分の中のモヤモヤとした感情にかぶりを振った。このままではいけない。少しずつでも自分を変えていきたい。友樹に釣り合う彼女になりたい、と。


 その日の放課後、更は、話がある、と友樹に呼び出された。その目は甚だ緊張を孕んでいて更の気も引き締まる。

 教室から更達二人以外が去り、暫く経ってから――十五分程だろうか――漸く友樹がその重たい口を開いた。

「更の他にも付き合っている子がいるんだ」

 あの日の告白のように、またしても彼の唐突な言葉に思考が停止する。

「更の事も勿論好きだ。でも、彼女の事も好きなんだ」

 分かってくれないか、そう続けた友樹はあまりにも真剣で、決して冗談なんかでは無いという事が嫌でも伝わってくる。……意味が、分からない。

 完全に脳が活動を止めようとした時、教室に入って来た気配に目を向ける。それは昼間の差し入れをして来た少女の一人だった。美作寧々。一つ下の学年で、サッカー部のマネージャー。おまけに美少女。華奢で小動物みたいに可愛らしくて、クラスの男子が騒いでいたのを思い出した。

 何でこのタイミングで彼女が。

 寧々は呆然としている更をチラリと見やり友樹に視線を戻すと、小走りで駆け寄り彼の腕に抱き着いた。

「ねぇ友樹、お話終わった?」

 甘ったるいその声に鈍器で殴られたかのような衝撃が頭を襲う。くらりと眩暈に倒れそうになるのを必死で踏み止まる。

 何で。何で。何で。

 更は酷く混乱していた。考えようとしても浮かんでくるのは只“何で”とひたすらに無意味な問いかけだけだ。何で、寧々は当然のように『友樹』と呼ぶのだ。自分は未だに『友樹“君”』としか呼べていないのに。

 自分の呼吸音が耳元でした。

 ……本当は分かっている。寧々が友樹の好きな人であると。友樹の、浮気相手。いや、寧々と自分なら浮気相手は自分の方かもしれないな、と更はぼんやり考えた。馬鹿みたい。恋人になれた事に浮かれて、勝手に舞い上がって。

 気付けば走り出していた。何処へ行くでもなく。

 乾いた笑みが零れた。頬を生暖かいものが伝うのが分かった。


 更が走り辿り着いたのは使われていない空き教室だった。使われていないとは言っても汚れてはいなかった。どうやら定期的にきちんと清掃されているらしい。適当に椅子を引き、座る。鞄は教室に置いたままだ。

 戻りたくない。

 彼らにも部活があるので流石に何時までもあそこに居ることは無いだろうが、万が一にも鉢合わせたくなかった。自分が今酷い顔をしている事位、容易に分かった。

 ふと、自分の映る窓の外を眺めてみると、もう空は茜色に染まっていた。帰らなきゃなあ。そう思いながらも動こうとはとても思えなかった。

「……更?」

 ドキリとして振り返ると、そこには更のよく見知った幼馴染みが立っていた。

「っ渡……!! 」

 驚愕に染めた声を出し、すぐ様頭をそらす。

 渡には見られたくなかった。


 同い年でクラスメートでもある桜庭渡は更にとっての所謂幼馴染というもので、生まれた時からずっと一緒だった。親同士の仲が良く殆どの時間を同じ空間で過ごしていた為にその関係は親友と呼べる程に互いを信頼していた。

 そんな渡に、勿論当然の如く友樹との事も話していた訳で、彼がその事について初めから良い顔していない事も知っていた。友樹に二股をかけられていた、なんて言った暁には、

 ――だから言っただろう?お前がアイツと釣り合う筈が無いんだって。

 といった具合に馬鹿にされるという事は容易に想像がついた。

 何でも気兼ねなく話してきた仲として隠し事をするのは心許ないが、しかし、今ここで、この状況で渡に容赦ない言葉を浴びせられようなら、更は立ち直れなくなるだろう。

 そう思い、顔を隠すように渡に背を向けながら、怪しまれない様にと必死に言葉を紡ぐ。

「……渡はこんなとこで何してるの?」

「…………」

 渡からの返事はない。渡の表情は見えない。

 沈黙が続く中、少し狂った秒針の音が教室中に響き渡る。

 かつて無い程の居心地の悪さに更が小さく身じろぎをすると、静かに渡が息を吸うのが分かった。

「春野に浮気されたか」

「な、ん……っ」

 ――何で渡がそれを知ってるの。

 思わず振り返った更は訝しげに渡を見た。

 確かに更の様子は傍目から見て変だったろうと更自身自負しているが、それだけで何があったのか分かるものなのだろうか。

 やがて渡が口を開く。言葉にならなかった疑問は、それでも渡には伝わったようだった。

「ずっと見てたんだ」

 真剣な眼差しが更を貫く。それは火傷しそうな程の熱を帯びていて、苦し気に細められた。今にも泣きそうで、そんな中にも色気が入り交じっていて、更をドキリとさせた。

 ――いつからそんな大人っぽい顔をするようになっていたの。

 それが何を意味するのか、更でも理解出来た。ゆっくりと瞬きをし、暴れる脳内を必死に宥める。

 そんな、だって彼は幼馴染で、気の置ける友人で――。

「さっきも、更の様子がおかしくてそれで気になって追いかけて来た」

 混乱する更に渡は追い討ちを掛けるように言い放った。

「ずっと好きだったんだ。ずっとずっと更だけを」

 息を飲み込んだ音はどちらの物だったのか分からない。

 友樹にも向けられた事のない視線。アイツなんかがお前に釣り合う筈がない、といつの間にか近付いてきた渡は耳元で囁いた。

 想像していた言葉は若干のニュアンスを変えて更に降り掛かったのだった。


 *


 翌朝、学校。生徒玄関。

 「おはよう」

 友樹はいつも通りだった。いつも通りの挨拶。いつも通りの爽やかな笑顔。教室で毎日のように交わす他愛ない会話も何もかもいつも通り。――何を考えているんだろう。

 更は悩んだ。堂々と浮気してます宣言をしたのだから関係は否応なしに、何処と言わずとも変わるものだろうと、そうしたら更も素直に受け止めようと、そう考えていたし、それが普通であろうとも思っていた。浮気をされたのだから別れを切り出されるかもしれないと覚悟も決めていた。しかし、彼と来たらどうだろう。本当に拍子抜けする程何も変わってはいない。

 ――更の事も勿論好きだ。でも彼女の事も好きなんだ。

 あれは、自分に対する告別なんかではなくて、ただ純粋に二人と交際を続けたいという意味だったのだろうか――二股をしている以上、その感情を純粋と表現していいものなのかは置いておいて――。それってつまりは自分達を弄んでいるという事に等しくて。そんなの、酷いじゃないか。最低じゃないか。

 更は交際を始めてから初めて友樹に対する怒りを感じた。しかしながらも、それを口にする勇気は些か無かった。そんな事を口にしては彼との関係が壊れてしまう。それが堪らなく嫌だった。恐ろしかった。せっかく手に入れた幸せを易々と手放せる訳が無い。

 ――嗚呼。

 結局の所、自分は彼を好きなんだ。こんな状況を“幸せ”だと語れる程度には。

 友樹に恋する前よりも自分が弱くなったような気がして、更は酷く情けない気持ちになった。


 そうして放課後。

「どうして怒らないの」

 渡に更は責められていた。

 突然の彼の気迫に怖気づいた更は追い詰めに追い詰められ、遂に、行き場のない壁へと背中を押し付けた。その上顔のすぐ横に渡が手をついた為、昨日のようには逃げられない。

 結局、あの後反応に困った更は逃げるように……いや、実際に逃げたのだが、渡を突き飛ばしてそそくさと帰った。

 その後ろめたさもあってか今日は一日目を合わさないようにしていたのに。

 友樹とはいつも通りでも、渡はそうはいかない。きちんとお断りの意思を告げなければいけないし、出来る事なら普段のようにまた、仲の良い友人関係に戻りたいと思っていた。

 これまで、彼は更にとって気の置ける親友のような存在であった。恋愛感情を抱くことはこれっぽっちも無かったのだ。故に、数少ない対等の友人を失いたくはなかった。

 それがどれ程彼を傷付け、自分の勝手な都合だとしても。

 しかし、なかなかどうしてそれを伝えるのに躊躇してしまっている。そんな訳で、ここまでグダグダと返事を長引かせているのだが。

 最初、渡の怒気の原因はそれだと思っていた。が、彼の口にした疑問は違うものを指していて。要は友樹の仕打ちや態度に対して更が怒らない事に腹を立てているらしい。

 ――本当、私の幼馴染は、自分の事より私の事を考えてくれる。優しいよなあ。

 そこまで考えて、更はどこかの誰かと比べている自分に気付き、カブリを振る。

 ――こんなの、友樹にも渡にも失礼じゃないか。

 ふと、目前に迫っている渡を見やる。

 押し黙っている更を見て何かに気付いた様子の渡は、にやりと得意気な笑みを浮かべて言い放った。

「昨日の告白の返事はまだ良い。イエスしか受け付けないから」

 言い終わってから、肩に流ている肩胛骨ら辺まで伸ばされた更の長い髪をするりと掴みとり音も無く口づけを落とした。

 直ぐさまその手を振り払うと、更は自分の胸元で拳を作り、きっと渡を睨み上げた。

 ――前言撤回。渡はただ優しいだけの奴ではなかった。

 はぁ、と大きな溜息が溢れる。

 彼はまるで意に介さない様子で、未だ意地悪げな笑みを浮かべていた。


 *


 堂々と浮気宣言された日から一週間が経とうとしていた。

 あの日から寧々が休み時間や放課後、この教室に訪れる回数が頻繁になっていた。

 友樹は変わらず更とも恋人としての接触を続けているし、あからさまでもないが、寧々と友樹の距離が前以上に近付いたようだった。

 更の前でも普通にくっついている二人に対して初めは怪訝そうな表情を浮かべていた周囲も、それが見慣れてしまったからか、今では当たり前の光景となってしまっている。最も、渡は今でも心底気持ち悪いと言っているかのように顔を歪めているが。

 更でさえも、少し心に靄がかかるが、それでもそれを平然と受け入れられる様になってしまっていた。

 そんな麻痺した生活の中、更は寧々を見ていてふと思った。

 自分もお化粧してみようかな、と。

 ふわふわと小動物のように可愛らしい彼女もイマドキの少女らしくピンク系統の女子らしいメイクが施されていた。

 対する更はまるで化粧っけの無いスッピンだ。髪もストレートの薄ら色素が足りてない黒とも言えない黒髪を、結うことも巻くことも無くただおろしている。はっきり言って地味だ。

 現在彼女は絶賛友樹から頭を撫でて貰っている。嬉しそうに目を細め口角を上げている彼女に、周りの男子達も釘付けだ。

 そんな彼女達を、そう遠くはない席から更は眺めていた。


 翌日。

 更は朝から時たま感じる視線にそわそわと落ち着かない様子で友樹を待っていた。

 ふ、と小さく息を吐き出す。

 ――そんなに変だろうか。

 思い立ったらすぐ行動、という事で昨日の放課後、早速化粧用品を買いに行った。普段は買わないそれらは一体何がどう違うのか分からなくて、軽く一時間は店内で頭を悩ませていた。

 結局買ったのは肌の色に近いベージュ系のものばかりで、グロスもサーモンピンクと、オレンジに近い色を購入した。

 途中寄ったコンビニで入手した人生初のファッション雑誌を見ながら、必死で夜遅くまで練習した為に若干寝不足気味である。

 髪は編み込んでからハーフアップの形を取り、毛先も緩く巻いた。胸元でふわふわと揺れるそれはまるで自分の髪の毛じゃないように感じられた。

 これまできっちりと着ていた制服も着崩してみた。着崩したといってもシャツのボタンを一つだけ開けて、スカートをひと折りしただけなのだが、それでも大分印象が変わって見えた。因みに、更たちの通う学校は校則がそこまで厳しくない為に、更の格好は余裕でセーフだ。――中にはリボンやネクタイを着けなかったり、第三ボタンまで開けたり、スカートを三折りも四折りもして今にも下着が見えそうな程に短くしている輩も居るくらいだ。

 いつもより丈の短いスカートや、いつもより窮屈でない制服にドギマギしながら友樹をひたすら待つ。

 途中、更の姿を見た彼女の友人達に、

「おー! どうしたの、似合うじゃん!」

「更かっわいいー! もしやイメチェンですかな?」

 などと口々に言われ、何だか気恥ずかしかった。

 また一人、褒め言葉を浴びせて行った友人の後ろ姿を羞恥に悶えながら見詰めていると、聞き慣れた声が教室に入って来た。

 友樹だった。彼の腕には例の如く、寧々が抱き着いている。これも毎朝の景色だ。

 いつものように更に挨拶しようと彼女の方を見た友樹が、瞬間固まる。そして上から下までじろじろと遠慮のない視線を巡らせた。

 更は彼が何か言うまで黙っていようと思ったが、その何とも言えない気まずさに口を開くことした。

「おはよう友樹君。おはよう寧々さん」

「おはようございます、先輩。いつもより可愛いですね。イメチェンですか?」

 先に応えたのは寧々だった。言い方に棘があるように感じるのは恋敵と認定されているからなのか。彼女の“イメチェン”という言葉に乾いた笑みをこぼして誤魔化しながら、更は友樹の方をチラリと見やった。

 彼ははっとしたように更を見つめる。

「おはよう更。言い遅れてごめん。ちょっと更に見惚れちゃってた。可愛いよ」

 言いながら照れたように笑った友樹の頬は紅く染まっていた。そこから本気でそう思っているのだという事が分かった。

 友樹が更の頭を撫でようと手を伸ばした時、傍でその様子を見ていた寧々から横槍が入った。

「友樹、学校着いたらホームルームが始まる前にキャプテンの所に行くんじゃなかったの? 早くしないと始まっちゃうよ」

 そうだった、と友樹は顔を青ざめさせた。「うちのキャプテン怒らせると怖いんだよなぁ」と呟きながら、それじゃと片手を挙げながら慌てて教室を出て行った。

「それじゃあ先輩、また」

 そう言いながら寧々も教室から出て行った。

 毎日毎日、よく飽きずにこの教室まで来るな、と感心してしまう。

 彼女達一年生の教室は二階にある。対して更達二年生の教室は四階にあるのだ。登ってくるのも一苦労だろう。

 ぼんやりともう立ち去られた教室の出入口を見つめていると、頭に衝撃が襲ってきた。次の瞬間、わしゃわしゃと髪が乱され、更が驚いて見上げると、そこには不機嫌そうな渡が立っていた。

「ちょっと渡! 何すんんっ……」

 突然の理不尽な仕打ちに怒鳴りつけてやろうと声を貼った更の口は渡の制服の袖に塞がれてしまった。ゴシゴシと口元から頬にかけて擦られて、何も言えなくなる。摩擦が痛い。

「似合わねーよ」

 やっと離れたかと思うと、たった一言言い捨てて早々に自分の席へと戻ってしまった。

 更は暫く何が起こったのか理解が追い付かなくて固まっていた。はっとして彼を呼ぼうと席を立つと、丁度チャイムが鳴り担任も入ってきたので、敢え無く断念した。

 号令がかかってから、友樹は帰ってきた。


 昼休み、更はクラスの女友達といつものように固まってお弁当を食べていた。気の知れた仲の良い彼女達とは他愛もない、そして色気もない話で盛り上がる。

 しかし、その日はいつもとは話題が違っていた。突然の更のイメージチェンジに感化されたのか、女子高生らしく、そして彼女達らしくない恋話に花を咲かせていた。

 一人の友人がそれにしてもと感心したように言う。

「更ってば本当にどうしちゃったのさ、急に女子に目覚めちゃって」

「何言ってんのよ。元々更はこの中で一番女子力高いじゃない」

 他の友人が言いながらニヤニヤとした視線を更に向けてくる。

「でもま、一応真面目ちゃんな更がって意味ではびっくりよね。やっぱり彼氏君?」

「まあ、ね」

「最近は女子マネだっけ、あの子がやたらと友樹君狙ってるもんねー。ヒトのだって分かってる癖に何を考えてるのやら」

 はは、と誤魔化し笑いをしながら俯きがちにお弁当をつつく。

 彼女達には言っていない。言えるわけなかった。『あの女子マネさんも友樹君の彼女なのよ』だなんて。

「でもさー、私前から思ってたんだけど」

 ふと、もう一人の友人が上の方を見上げながらぼんやりと呟いた。彼女は一体何を見ているのだろう。

「更って渡君と付き合ってるんだと思ってた」

 まるで予想していなかったその言葉に、更はぽかんと口を開けてしまった。箸からおかずがこぼれ落ちそうになる。

 まさかと言おうとしたところで、他の子達も彼女と同じように考えていたのか、突然それらの表情が明るくなり激しく同意している。

「そうだよね、そうだよね! 渡君と更っていつも一緒のイメージだし!!」

「二人って幼馴染みだったんでしょ? 幼馴染み同士の恋……良いわあ。憧れちゃう」

「朝も何かワサワサじゃれ合ってたし……」

 きゃあああ! と乙女な歓声が上がる。

 ――あれ、皆ってこんなにきゃぴきゃぴしてたっけ。ていうか、朝のはじゃれ合ってた訳じゃないし! 一方的な暴力だし!!

 更は呆れたような表情で今も尚続いている恋に恋する乙女達の雑談、所謂女子トークを聴いていた。

 すると、ふとこちらを振り向いた彼女達は、でもまあとしみじみとしながら話を続けた。

「更は友樹君が好きなんだもんねえ。付き合えるってなった時もう今にも泣きそうになってたくらいだし」

 ふふ、と彼女は笑う。

「浮気は駄目だぞ! でもあたしが相手だったら許す!!」

「アホか」

 茶目っ気たっぷりの彼女の冗談に強烈なツッコミが炸裂した。

 “浮気”。

 軽く言われた筈の言葉がずしりと更の心にのしかかる。

 ――何故私はこんなにも簡単に友樹君の浮気を受け入れられたのだろう。それも、今も尚、堂々と続いているというのに。

 更の箸を持つ手が止まった。

 少し沈んだ更に気付いた彼女達に、更は大丈夫と微笑んで再びお弁当を口に運んだ。

 大好きな筈のそのおかずは、いつもなら頬張って食べるくらいに美味しいのに、その時はまるで味がしなかった。


「ちょっといいですか」

 寧々が話しかけてきたのはお昼休みが終わる五分前だった。

 教室に友樹はいない。つまり、彼女は友樹ではなく更自身に用があるのだと気付くのにそう時間はかからなかった。

 すでに昼食を食べ終えていた更は寧々に素直に着いていくことにした。

 寧々は友樹のもう一人の彼女だ。友樹の好きな人。可愛くて、明るくて、甘え上手な年下の、自分とは正反対の女の子。

 考えれば考えるほど、友樹が分からなくなる。

 連れて来られたのは同じ階の女子トイレだった。授業開始前の今、ここを訪れているものはいない。

 目の前の寧々は背を向けたまま何も話さない。いつまでも黙り込んでいる彼女に、とうとう痺れを切らした更が口を開いた時、

「先輩は」

 ゆっくりと、寧々はこちらを振り返った。

「先輩は、本当に友樹が好きなんですか」

「……す、好きよ……っ」

 この子は一体何を言い出すのか。好きだから付き合ってのだ。何を当たり前のことを、と思う。

 けれど。

 返した声は震えてしまっていた。思わず声量が大きくなってしまったが、気のせいだろうか、意地を張っているような音に聞こえた。

 何であろうか、心臓を鷲掴みにされたようなこの感覚。

 どきりとした。

 全身が毛穴や足の爪先の隅々まで急激に冷えていくようだった。

 寧々の眼差しは真剣そのものだった。表情は凛としていて、まるでこちらが悪者のようにさえ感じられた。

「私は友樹が好き。胸張って言えるくらい本当に好き。たとえ他に彼女がいたとしてもそれが友樹にとっての幸せなら許そうと思ってます。彼の為なら何でも出来る。死ぬ事すら構わないわ。だから、真剣に好きじゃないなら、私達の邪魔をしないで下さい」

 ひとしきり言い終わると、では失礼しますと頭を垂れてそのまま去っていった。

 何も言えなかった。言い返すことが出来なかった。

 ……どうして。

 寧々の言葉が反芻する。

 ――本当に好きなんですか。

 ――私は好き。

 ――“友樹”が好き。

 更は唇を噛み締めた。そうしないと涙が零れそうだった。

 どうして彼女がそんなことを言うのだろうか。友樹を奪った彼女が。

「私だって、私だって好きだよ。信じたいよ……」

 信じさせてくれないのは彼の方ではないか。その要因を作ったのは彼女じゃないか。

 もう信じられない。

 『好き』が何なのか、分からない。

 ぼそりと呟いた声は、思っていたよりもずっと弱々しいものだった。


 この一週間、更は放課後は毎日、渡に迫られていた。

 勿論、更は友樹が好きだからと全てを断り流していたのだが、渡はまるで堪えない。寧ろ段々とヒートアップしているくらいだ。いや、だからこそと言った方がいいのか。

 故に、更は違和感を覚えた。いつもであれば帰りのホームルームが終わり、友樹が部活に行くと直ぐ様駆け寄って来る渡が、その日は誰よりも先に足早に教室を出て行ったのだ。

 更はどうしたのだろうと疑問に思った。そして即効その考えを拭った。

 彼が更の隣に居て当たり前だと言う訳ではない。彼にだって用事があるし、そもそも恋人であるわけでもないのに四六時中一緒という方がおかしいのだから。習慣って恐ろしいなあと思った所で、“恋人”の言葉に引っ掛かりを覚える。

 教室では常と同じように丁度例の彼女が友樹を呼びに来ているようだった。今日は部活が休みらしいから一緒に帰るのだろうか。

 友樹を見ると彼は寧々に微笑みながら何か懸命に話し掛けている。

 思わず机に視線を落とし溜息を零してしまう。

 ――帰るか。

 虚しくなって更が席を立ち上がった時、友樹があっと声を上げた。更が何だろうと振り返ると、こちらを見ていたらしい友樹と目が合った。

「今日、一緒に帰らない?」


 ふう。

 更は本日何度目かの溜め息を吐いた。

 ガヤガヤと混雑している人混みの中、更はメニューを見ながら順番待ちをしていた。

 ここはハンバーガーショップだ。隣には友樹が並んでいた。

 …………てっきり寧々と帰るのだと思っていた更は彼のいきなり過ぎる提案に目を白黒させた。どうやらそれは寧々も同じだったようで、不満そうに彼の名前を呼んだ。しかし、

「ごめん、寧々。今日はどうしても更と帰りたいんだ」

 はっきりと笑顔のまま告げられてしまえば、もう何も言えず口を噤んだようだった。それは、ね、と幼い少年のような表情でウインクされた更も例外では無かった。

 結局、一緒に帰ることにした更は、道中、彼の「腹減った」という要望に応えるためにこのハンバーガーショップへと入店したというわけだ。…………

 それにしても、こういうジャンクフード店に入るのも久しぶりだな、と更は考える。

 中学時代は野球部のマネージャーをやっていた為に、帰りに渡とよく夕食前に寄り道していたのだ。高校に入ってからは更も渡もやっていないので、来る機会がめっきり減ってしまっていた。

 ――懐かしいな。今度渡と来ようかな。

「最近」

 突然友樹の声が聞こえて更は体を跳ねた。そんな彼女にふっと笑いかけ、迷いながらも言った。

「最近、全然更に構えてなくてごめん。でも好きだから。ちゃんと、好きだから」

 真剣な眼差しが更を射抜いた。

 二人の間に沈黙が落ちる。周りの賑わう声がやけに耳についた。

 気付くと前に人はもう居なくて、二人分のメニューを注文する。

 品を受け取った後は席について他愛もない話をした。定期テストの話や部活であった先輩のとんでも話。偶に相槌を打ちながら、偶に声を出して笑いながら、ゆっくりと、穏やかに時間が過ぎていく。

 帰りは申し訳ないと思いながらも家まで送ってもらい、また明日ね、と手を振り合った。

 更は、長い一日を思い出しながら深い眠りに落ちていった。


 *


 待っていましたとばかりに更は渡に攻められていた。責められているのではない。あくまで攻められているのだ。即ち、言い寄られている。

 今は放課後、つまりはいつも通りの事である。

「あーもー。こんなにも毎日好きだって言ってるのに、いつになったら俺の良さに気づくんだかなー」

 口を尖らせながら、ぶーぶーと不満を言っている。合間合間にチラチラと更を見ている。

 そういうことは本人が居ない所で言って欲しい。

「よく言うわね。昨日はさっさと一人で帰っちゃった癖に」

 瞬間固まった渡は直ぐ様意地悪い笑みでこちらを見つめてきた。

 しまった、と後悔した。

 ――これじゃあ、まるで……。

「なーに。寂しかったのか?」

「違うし!!」

 反射的に反論したが、彼のニヤニヤは治まらない。口は災いの元とは、まさにこういう事だろうか。

 へぇとかふぅんとかひとしきり言って更をからかうと、じゃあ行くかと渡は彼女の腕を引いた。

「行くって、どこに。私、渡と帰るつもりなんてさらさら無いんだけど」

「酷えなー。病院だよ、びょ・う・い・ん!」

「は……」

「どうせまだ行ってねえんだろ」

 な、と有無を言わせないように更をぐいぐいと引っ張って行く。

 ――気付いていたのか、私の体調が悪いの。

 改めて更は、目の前の男が自分をよく見てくれているなと感心した。

 まじまじと見つめていると、渡がそれに気付き、照れた様に目を伏せた。

「小さい頃からずっと一緒にいるんだ。……それに好きな奴の具合くらい分かるに決まってるだろ」

 ボソリと捨てるように吐いた言葉に、更はふ、と笑みを零した。


 結局、病院には行かなかった。

「病院には行かないよ。家で大人しくしてたらすぐに下がるから」と、更が頑なになったからだ。少しの体調不良で病院に行くのは大袈裟だと思った。

 また、更が行こうとすれば渡も着いてくるであろう。更は渡に病院などに近付いて中学生時代の事をあまり思い出させたくなかった。

 更の断固とした返答に対して、渡は思ったよりもあっさりと頷いた。その顔は不本意そうだったが、「その代わり絶対安静だぞ」という言葉を残して帰っていった。


 *


 翌朝、更は熱を出した。

 土曜日に入り、部活も入っていない為丁度良かった。

 スマートフォンに何やらメールが届いているようだが、今は見る気にもなれないくらいに更は朦朧としていた。

 普段、滅多な事でもなければ風邪を引かないせいか、発熱時には酷く体がダウンしてしまう。連日の疲れもあってか、本当に怠かった。吐き気もするし悪寒やら頭痛やらでもう参ってしまう。

 こんな日は布団の中で大人しくしているに限る。

 更は瞼を閉じた。


 それから何時間が経過したのだろうか。

 ……手に何かが触れている。冷たくて気持ちが良い。

 おもむろに目を開けると、そこには何故か一人の男の姿があった。心配そうに更を見つめている。更の手に触れているそれは彼の手だった。ずっと握られていたのだろうか。

「……渡、何でいるの」

「昨日はああ言ってたけど、更の事だし無理するんじゃないかと思って」

 ボソリと、不貞腐れた様な表情を浮かべて。それでも本当に心配してくれている事が分かった。今もまだ手は繋がれていて、先程より熱を感じた。

「ごめん。あと、ありがとう」

 くすりと屈託の無く笑った渡は、次に更の顔に自分の顔を近づけた。こつんと額と額がぶつかる。

 ぎゅうと目を瞑れば顔全体の温度が一気に上昇したのが感ぜられた。いや、元々高くはあったのだが。

「熱、さっきと殆んど変わってない。まだ寝とけ」

 言い放つとそのまま渡は部屋を出て行ってしまった。荒々しい足音が遠ざかっていく。しんとした部屋に一人残された更は、急に寂しさを感じた。体調が悪くなると心がいつも以上に弱くなってしまう。

 ふと友樹の事を思い出した。

 彼は自分なんかの何処を好きになったのだろう。そして何故彼女を好きだと言いながらも尚、この交際を続けていられるのだろうか。正直彼の事がよく分からなくなっていた。確かに彼の事は好きだ。でもその行動には全く理解を寄せることは出来なかった。

 ……駄目だ。熱が出ると本当に余計な事ばかり考えてしまう。どうせ渡は私の母の手伝いでもしているのだろうから、暫く来ないだろうしそれまで寝てようかな。

 再び更が眠りにつこうとした時、静かに部屋の入口が開かれた。

「渡? 早かったね……」

 そう言って体を起こすと、目の前に立っていたのは友樹だった。

「友樹君……何で――――」

「更」

 二人の間に気まずい沈黙が訪れている。

 彼の話によると、メールを送ったのに何時間経っても返信が来なかった為に心配になったのだとか。慌てて確認してみたら確かに届いていた。どうやら朝ぼんやりしていた時に送られたみたいだ。

「今日、急にオフになってさ、良かったら二人で出かけたいと思ってたんだけどその様子じゃ無理だね。体、大丈夫?」

「うん。そんなに酷くないよ」

 ぼうっとしながら何とか笑顔で答えた。すると友樹はいつものように笑みを浮かべて更の頭をゆるりと撫でた。

 ああ、本当に………………。

「そう言えばさっき“渡”って言ってたけど……」

 首を傾げながら友樹が言うと、丁度渡が部屋に入ってきた。


 じっと混じり合う視線。

 部屋に入ってきた渡はドアノブに手を掛けながら

、友樹を睨み付けている。その手にはコンビニのビニール袋が握られている。中身は更の為のプリンやゼリーだろうか。

「何でお前がいるんだよ」

 渡から出た声は酷く低かった。彼がどれだけ友樹に対して良く思っていないのかが分かる、地を這う様な重苦しい声。

 それを聞いた友樹は、先程からずっと只不思議そうに渡を見ていた表情から一変、更も見たことが無い形相になった。

「それはこっちの台詞だよ。何故君が此処に居る」

「お前に関係無いだろ。部外者は引っ込んでろ」

 吐き捨てられた様に放たれた言葉に、友樹はカッとなった。

「彼女は僕の恋人だ。君こそ引っ込んでなよ」

「よく言うぜ。更が調子悪い事にすら気付いて無かった癖によ。どうせもう一人のカノジョにばっか構ってて、更の事を気に掛けもしなかったんだろ」

「そういう訳じゃない!」

「だったら何で恋人である筈のお前が一番にコイツの事見てやってねえんだよ!!」

 そう叫んだ渡は辛そうに、悲しそうに顔を歪めた。まるで彼自身が傷ついたかの様に。握られた拳はガタガタと震えている。全身で悔しいと語っているようだった。

 なんで。

 何で、渡は私の為にこんなにも尽くしてくれるのだろう。私は彼に何も返せていないのに……。

 気付けば更は涙を流していた。

 更は苦しかったのだ。

 渡は更の事を一番に考えてくれる。更が悲しまないように。幸せになれるように。

 だからこそ更は彼に何も返せていない自分が嫌だった。告白の返事さえもきちんと返せていない。確かに彼が返事はまだいいと言ったのだけれども、それは彼の優しさだった。更を混乱させない為の優しい嘘。返さなくていいだなんて、そんな筈は無いのに。

 真摯な想いに応えられていない自分がたまらなく嫌だった。

「更……? どうしたんだ」

 突然泣き出した更に渡と友樹が慌て、心配そうに顔をのぞき込んだ。

 ふるふると必死に頭を振り、声を絞り出そうとする。

「っごめん、ごめんね……私っ。私は……」

 そこまで言って、ふっと更の頭をくらりとしたものが襲う。

 更の意識はそこで途切れた。


 **


 寧々と並んで楽しそうに話し込んでいる二人。絵に描いたような美男美女で、本当にお似合いだと思った。他の誰かが入り込む余地なんて無いくらいに。

 すると寧々がチラリとこちらを見てほくそ笑み、友樹をあちら側に連れて行こうと彼の腕を引っ張った。友樹の顔に浮かぶのは笑顔。

 待って!行かないで!!

 更は必死に叫んだ。泣きじゃくりながら必死に友樹達に手を伸ばした。なのに、二人の足は止まらない。どんなに走っても、どんなに腕を伸ばしても、どんなに泣き喚いても。こちらを一瞥さえしない。

 更はとうとう躓いてしまった。そのまま前に倒れ込み、ゴロゴロと転がり込んだ。起き上がれない程体の至る所から出血してしまっていた。痛い。とても、痛い。何より心がボロボロだった。

 友樹は自分を好きだと言った。そして更自身が確かに好きであったのに。

 もう声も出なかった。唇を噛み締め、爪が刺さるくらいに拳を握り締めた。ぱたぱたと無情に涙だけがこぼれ落ちていく。

 ふわり。

 呆然と座り込んだ更を何かが包んだ。驚いて辺りを見回してみるが誰も居なかった。只、白い温かな光が更を大切に包んでいた。

「更」

 明瞭なその音が、更の耳を貫く。はっきりとして、それでいて優しい。よく聞き慣れた声。まるで更の頭を撫でているかのような柔らかい声は、再び心地良い音を紡ぎ出す。

「俺の更。こっちへおいで」

 気付けば手を伸ばしていた。


 **


 ゆっくりと覚醒した更はぐるりと部屋を見回した。部屋には彼女以外には誰も居ない。どうやら二人は帰ったようだった。

 窓を見ると、すっかり外は暗くなっていた。

 一体何時間眠っていたのだろうか。かなり深く微睡みの中にいた気がした。

 そのせいか、まだ少し倦怠感は感じるものの、大分身体が楽になっていた。

 体温計を脇に入れると、もう殆ど熱は下がっていた。

 じわりと手が汗で湿っているのが感じられた。身体も全体的にじめじめとした不快感があった。

 着替えなきゃ。体も拭こう。

 もぞもぞとベッドから降り、クローゼットに手を伸ばしたところで、ふとすぐ傍に置かれた全身鏡を見た。

 そこには何処と無くスッキリとした表情が映り込んでいた。にこりと更は笑ってみせる。

 彼女の心はもう決まっていた。


 *


「おはよう」

「おー、もう大丈夫なのかよ」


 放課後。

 いつものように更と渡、そしてこの日は友樹もいた。

「話があるんだよね」

「奇遇だな、俺もだ」

 友樹と渡が睨み合う。更は自分の席に座り、じっと鞄を見つめていた。

 しんと静まり返った教室に、地を這う様な渡の声が響いた。

「何でお前みたいな奴が更と付き合ってんだよ」

 鋭く睨む視線が友樹を貫く。友樹はそれに一瞬たじろいだが、すぐに同じ様に睨み返した。

「好きだからに決まってるだろう」

「だったら、その好きな奴を何で泣かせてんだよ」

「それは……」

「大事にできないなら初めから付き合うなよ!」

 悲痛な叫びがじんじんと教室中に伝った。

 渡の目には薄らと涙が溜まっていて、まるで自分の事のように悲しんでくれている、苦しんでくれているという事が更には分かった。

 いつもこうであった。

 渡は、更を一番に気にかけた。いつもそばにいて、共に笑い、励ましてくれる、更にとってかけがえのない幼馴染み。

 血が出るのではないか、と心配になる程強く拳を握る渡に、友樹がボソりと呟いた。

「君はやっぱり……」

「ああ。俺は更が好きだ」

 真っ直ぐな、嘘偽りのない告白。

 気付けば更は口に出していた。

「ごめんなさい……」


「更」

 慣れ親しんだその声に更は振り向いた。

「何? 渡」

 更が問えば、言い辛そうに口を吃らせながらも、渡は応えた。

「その、本当に良かったのかよ。アイツと別れちまって……好きだったんだろ」

「良いのよ、もう」

 ザアザアと風が騒めく。

 遠くの方では野球部らしき生徒達の熱心な掛け声が木霊していた。

「更」

 空を見つめながら歩いていた更は再び渡の方へ目をやった。

 渡は何処か緊張した面持ちで、けれども瞳は逸らされる事無く更を貫いた。

「いつのまにか、こんなにも更のことが好きになっちまった。後戻りなんて出来ないくらいに。俺は諦めない。喩え俺が更にとって只の幼馴染でしかなくても、更が振り向いてくれるまで諦めない。何年でも、いや何十年でも待ってやる」

 どこまでも真剣な渡に、更はくすりと笑った。

「ふぅん。渡ってば、すぐに手に入るものを何年も何十年も経ってから手に入れるっていうの?」

 だとしたら相当な馬鹿ね、と呟く更に、渡は目を瞬かせた。

「は? え? え、あの、それって…………」

「さあね。どういうことかしら、ね」

 くすくすと笑った更は得意げに、回って見せた。


「ごめんなさい」

 更は俯いた。けれども意を決したように立ち上がり顔をあげて言った。

「ごめんなさい。友樹君」

 か細いながらもはっきりと放たれた言葉に、二人は目に見えて動揺した。

 更からこんな言葉――友樹に対する謝罪の言葉――が出るとは思ってもいなかったのだろう。当然のことだ。

 石のように固まっていた二人であったが、渡よりも早くフリーズから開放された友樹が慌てて問うた。頭上にはクエスチョンマークさえ浮かんでいた。

「それはどういう……?」

「私、もうこれ以上、友樹君とは付き合えません」

 ピシャリと友樹が再び停止した。

「友樹君の事は好きでした。だけど、もう……」

 耐えられなかったの。許せなかったの。

 友樹君が、じゃない。自分自身が許せなかった。

 ぽつりぽつりと更は話していく。ありのままを、正直に。

「友樹君から他に好きな人がいるって聞いた時、どうしてって思った。どうして私がこんな目に遭うのって。友樹君はなんて酷いんだろう。私を好きだなんて全部嘘だったんだ。私はなんて可哀相なんだろう。馬鹿みたいよね」

「そんなことはない! もともと俺が悪かったんだ。俺がはっきりしないから、更を不安にさせた」

 友樹が否定する。

 渡もそれに同意するように何度も頷いている。

 けれども更はゆっくりと頭を横に振った。

「自業自得だったの。友樹君の彼女になれたってことに胡坐をかいて、私は何もしなかった。友樹君に好かれ続ける為の努力を怠った」

「俺は、今だって更のことを好きだ!」

「……そうだよね。友樹君は今でも私を好きでいてくれてるんだよね…………。だけど、私は分からなくなったの。好きなのかって問われて、はいって即答出来なくなった。胸を張れなくなった。友樹君を好きだという自分を情けないとさえ思った。誰かにちょっと突かれて簡単に揺らいでしまうようになった」

 思い出すのは寧々の言葉。何度も脳内で繰り返された言葉。

 ――本当に好きなんですか。

 そんな言葉に立ち止まってしまった自分。好きだと大見栄を張ったところで所詮はその程度でしかなかった。寧々にはそれが見透かされていた。だからこそ、あんな風に故意に挑発するような態度を取っていた。こちらの出方をじっと見つめていた。

 ――邪魔しないで下さい。

 本当にその通りだ。邪魔者は自分だ。

 思えば友樹も嘘など吐いてなかった。始めから、正々堂々と更を好きだといっていた。好きでなくなったなどとは一言も言っていなかったのだ。

 その言葉を信じられなくなったのは間切れも無く更自身であった。

 その言葉に素直に返せなくなったのは更の方であった。

 ちらりと渡の方へと目をやれば、彼の瞳もまた、更を映していた。

 瞬間、血液の巡りが早くなった気がした。

 ――いつのまにか、私はこんなにも……。

 嗚呼、と自分を嘲笑する他なかった。

 ――私だった。

   (ともき)を騙したのも、(わたる)を誤魔化したのも、自分の心にさえ嘘を吐いたのも、全部私だった。

 更はじっと友樹の瞳を見つめる。彼の目は僅かだが潤んでいるように見えた。

 逸らさずに。真っ直ぐに。

 思わず零れそうになった涙に、泣いてはいけないと更は思った。

「ごめんなさい。私は、もう友樹君とは付き合えません」

 訪れる沈黙。

 友樹は何も答えず、只、唇を噛み締めている。

 しかし、意を決したのか、やがて口を開いた。眉には深い皺が寄っていた。

「…………分かった。別れよう――――」

「うん」

 更は微笑む。心からの感謝を込めて。

 ――好きになってくれてありがとう。好きにならせてくれてありがとう。

   さようなら、私の初恋の人。

 更は今度は渡の方へと顔をやった。

「帰ろう、渡」

「あ、ああ……」

 もう、振り返らない。


 先ほどまで目を白黒させていた渡はふと、けどさ、と自虐的な笑みを浮かべた。

「俺はそんなに強くないし、忍耐強くもないよ。俺、一度諦めかけた事があったんだ。ほら、一回さっさと帰ったことあったろ。あの時はあんな酷い扱いされてるのにお前が何時までもアイツの事好きでいるからもうダメなんじゃないかってさ、本当にもう挫けちゃってて。でも次の日にそれに対して不満そうなお前見て、もう止まらなくなった。諦めることなんて出来るかよって」

 いつも更にぐいぐいと迫っている様子とは打って変わって、随分と沈んでいるような渡に、これだから目を離せないんだよなあと更はぼんやり考える。

 渡は昔からこうであった。

 目的のためならば多少強引な事でも気にせず実行する積極的な性格かと思えば、しかし、いざ届きそうになると忽ち自信を喪失してしまう。

 要するにヘタレなのだ。

 ――本当、変わらないよなあ。

 中学時もそうであった。

 野球部に所属していた渡は一年生ながらかなり力があり、顧問や部員達からの期待も厚い選手であった。そんな中、始まった中体連の試合。三回戦まで進むも、選抜投手であった三年生の一人が怪我をしてしまう。悔し涙を流しながらも、あとは任せたと、渡に託されたのだが、極度の緊張とプレッシャーから思わぬ事故を招いてしまう。そこで、渡は肩をやってしまい、そしてそれ以上に先輩達の期待に応えられなかったと一時期塞ぎ込んでしまった。

 ――あの時、どうにか立ち直ってもらいたくて試行錯誤して励ましたっけ。

 結局、あれ以来野球は出来なくなってしまった渡だけれど、取り敢えず元気になってくれて良かったなとは思っている。

 そんな、今も昔も変わらない性格の渡に、どうも一人にはしておけないなと更はしみじみ感じた。

 そして変わらないことはもう一つ。

「本当は一番にお前の事を考えてやらなきゃいけないのに、俺は焦ってばっかであんな告白したり強引に迫ったりして更を困らせた。これじゃアイツと同じだよな。ダッセェ……」

 更のことを誰より、何より大切に思ってくれていること。

 ちくしょう、と顔を顰めながら呟いている渡に、くすくすと更は笑う。

 ――本当、変わらない。

「……おい? 何で笑ってんだよ?」

 訝しげに渡は尋ねる。

 更は何だか気恥ずかしくなって、誤魔化すように先を歩き始めた。

「別に? 本当に渡はヘタレだよなって思っただけ」

「何だよそれ、人が真面目に考えてるだけだってのに!!」

 考えすぎなんだよ、と更は心の中でツッコんだ。決して口には出さない。

 そういえば、と思う。

 以前、友人達が言っていた更と渡の幼馴染みという関係。

 彼女達は憧れるだの、お似合いだのとはしゃいでいたけれど、それを聞いた更は何食わぬ顔でスルーしたのだが。嫌ではなかったな、と。

 ――案外、あの時から既に満更でも無かった……?

 思考回路がその考えにまで至ると、更の顔に熱が集まっていく様だった。

 慌てて首を降る。

「何してんだ? お前」

「べっ、別に!」

 本当かと覗き込んでくる渡の顔が近い。今にも鼻と鼻の先がくっ付いてしまいそうな距離だった。

 再び頬が熱くなっていくの感じた。

 反対に、平然とした様子の渡に無償に腹が立った更は、口を募らせて。

 仕返しを試みようと、ぐいと唇を寄せた。

 後に二人が茹でダコのごとく赤くなったことは言わずもがなである。




 そうして季節は過ぎていく。

 新しい恋の予感を乗せて。

読んで頂きありがとうございました。


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