昔の話1
死にそうだった俺を救ってくれた、たった一人の人。
俺にとってはただ一人、生きる理由だった人……叶裕也先輩。でも裕也先輩にとって、俺は数多くいる『その他』に過ぎない。特別な一人には絶対になれない。
でも、それでよかった。だって裕也先輩には元々、『特別な一人』なんていなかったのだから。
裕也先輩は特別を作るのを怖がっている。全員を平等に愛して、平等の愛を無条件で振り撒く。それはとても残酷で、歪で、嘘に塗り固められた汚い心の搾りかす。裕也先輩が本物の愛を送る相手は、いなかった。
だから、俺はこの関係に満足していた。胸の内に秘められた恋に気付いてからも、俺は決して想いを口から吐き出すことはなかった。この想いは伝えなくていい……だって、裕也先輩の汚く醜く弱い心を知っている俺こそが、一番裕也先輩と近い場所にいるのだから。
隣にいるだけでいい、一番近い場所にいられる俺は幸せだった。
あの日、裕也先輩の見たこともない表情を間近で見るまでは。
裕也先輩と出会って、数ヶ月程経った頃だった。あの日のことは今でも忘れられない。
日曜日、俺は裕也先輩に買い物に付き合って貰っていた。休日の大きなデパートは人で溢れていて、俺はうっかり裕也先輩とはぐれてしまい、迷子の子供のようにうろうろしながら裕也先輩を探していた。背の高い裕也先輩の姿は案外早く見付けることができて、俺は名前を呼びながら裕也先輩の元に駆け寄る。が、裕也先輩は俺とは真逆の方を見ていた。
その視線の先を追うと、姉弟らしき二人組と親子連れが、手を振り合って別れている場面が見える。
何かあったのかと問おうと裕也先輩の横顔を見て、俺は背筋を凍らせた。
他人に見せたことのない微笑み。無造作に振り撒く愛ではなく、本物の愛が込められた、優しい笑みだった。
その後すぐに俺に向けられた微笑みは、わずかではあるが確かに先程の姉弟――同い年程の女子に向けられていた笑みとは違う、いつも通りの笑みだった。
義務とでも言うような、空っぽの笑み。その違いを見せ付けられた途端、自分の内に沸き上がって来た感情は、言葉で言い表してはいけないようなどす黒い嫉妬だ。
自分が一番裕也先輩に近いと思っていた俺は、裕也先輩の見たこともない表情に動揺を隠せなかった。
その夜、俺は真っ青な顔を布団に埋めながら震えた。
取られる、裕也先輩を取られる、俺の居場所を取られる、俺の居場所にあの女がくる、殺される、裕也先輩が遠くに行ってしまう、裕也先輩を、裕也先輩に、裕也先輩が、あの、アホそうな女に――
しばらく不安が消えることがなかった。体調を崩した俺を裕也先輩が心配してくれたことだけは美味しかったけれど。
でもその不安が杞憂に終わったらしいということは、俺が裕也先輩に鎌をかけた時に発覚した。
裕也先輩と二人きりで駅前を歩いていた時、俺はいち早くあの女を見付けたのだ。たまに駅で見掛ける中学校の制服を着て、友人と二人で歩いている。早くその場を離れようと本能が叫んだが、俺は確信を得るためにその場にとどまり、女に気付かない裕也先輩の袖を引っ張った。
そして近くのレストランのメニューを指さして「今度あれ食べたいですねー」なんて思ってもいないことをぼやく。裕也先輩は「え、でもあれ辛い奴だろ? 悟辛いの大嫌いじゃ」なんて俺の適当な話題に真剣に応えてくれたが、次の瞬間にメニュー表の目の前を通り過ぎたその女に、裕也先輩は目を見開いた。
思わずと言った体で走り出そうとする裕也先輩の手を、少し強目に引っ張る。するとハッとした裕也先輩は足を止めた。
俺は「どうしました? 知り合いでもいました?」と白々しく聞く。裕也先輩は女が去っていく方向を名残惜しげに見ながら、俺に笑い掛けてくれた。
「いや、人違いだった」
嘘を吐く。裕也先輩はその微笑みの裏で、簡単に嘘を吐く人だ。
いや、この場合もしかしたら嘘ではないのかも知れない。今あの女を見つけた時、裕也先輩は半ば必死にあの女に駆け寄ろうとしていた。もし本当に知り合いなら、いつだってコンタクトは取れるはずだ。必死になるということは、連絡先も知らず、その女に辿り着くための人間関係も持っていないということだろう。
「もう、人違いで話し掛けるとかやめてくださいね。突然知らない男が話し掛けたら、ドン引きされますよ。通報ものです、事案です」
「そ、そっか……」
俺の言葉を鵜呑みにする裕也先輩に、俺は笑いを堪えるので必死だった。これで裕也先輩は、自分からあの女に話し掛けることはないだろう。あの女も全く違う中学校みたいだし、そうそう何度も出会うもんじゃない。
俺は安心しきっていた。その頃、なんとなく裕也先輩と同じ高校に行けたらいいなぁと軽い気持ちで勉強を始めた俺だったが、ろくに勉強もしてこなかった俺の成績では不可能に近いことに気付いていた。
だから諦め半分で、でもしておいて損はないだろうと、受験勉強に勤しむ裕也先輩の邪魔をしないために暇潰しで始めた勉強。
裕也先輩が難関の雨野宮高校に受かった時、俺は少しばかりショックだった。もう少しランクの低い高校なら、必死に勉強しなくても受かるぐらい、自分の成績が伸びていたから。今まで勉強をしてこなかったとはいえ、俺の頭は賢かったらしく、教科書を開くだけで学年最下位から上の中辺りまで上り詰めた。
が、その程度。雨野宮高校を狙うにしては少し手が届かなかった。
元々裕也先輩と同じ高校に通うのは諦めていたのだ、成績が伸びないことにあまりショックはない。誰にだって身の丈にあった環境というものがある、裕也先輩はちょっとすごかったというだけ。会えなくなるわけではないし、毎日メールをするのも欠かさないし、泣きたくなった時は電話をして慰めてもらう。そんな生活でも俺は満足していた。
そして大した危機感もなく、裕也先輩が高校生になって二ヶ月程が過ぎた頃。
それは突然やって来た。
裕也先輩がいなくなって暇になった中学三年生の俺は、駅前の書店で漫画コーナーをふらついていた。勉強ばかりでは気が滅入るので、参考書の棚から離れて娯楽のための漫画を買おうとしていたのだ。手に取って裏面のあらすじを読みながら品定めをしていた、その時。
反対側の棚を挟んた参考書コーナーから、女二人の会話が聞こえてきた。
「優里ちゃん、そっちよりこっちの方が優里ちゃんにあってると思うよ。漫画形式で分かりやすいし」
「これ中学生用じゃん、私もう高校生なんだけど!」
聞き覚えのある声に、耳を疑った。裕也先輩に特別な表情を向けられる、忌々しいあの女の声だ。
――ふざけんなあの女、こんな所で会うとか呪いかよ。
「優里ちゃんはまず基礎を固めないと。授業に着いていけてないのだって、中学レベルの知識がないからなんだし」
「うぅ――」
この広い町中で、俺は何度あの女に出会さなければならないのかと、己の不運を嘆く。すっかり気分を害した俺は、会計を済ませてさっさと帰ろうと、手に持っていた漫画を手にレジへ向かおうとした。
が、耳に届いた会話の意味を理解した瞬間、俺はレジに向かう足を止める。
「――せっかく雨高に受かったのに……」
次の瞬間、俺は漫画を元あった場所に戻し、ぐるっと反対側の棚へ周り、雨野宮高校の制服を着た間抜け面の女のすぐ隣にある参考書を引ったくって、ずかずかとレジへ向かった。
後ろからそいつらのひそひそ話が聞こえてくる。
「……受験生かな、なんか殺気立ってたね」
「みんな必死なんだよ……」
くそ、くそっ! 人の気も知らないであの女! 交通事故にでも遭って死ね!




