崩れる足場
「裕也先輩、大切な話があります」
「なんだよ、改まって」
優里先輩が去ってしばらく。居残り練習も終盤に差し掛かり、これが終わったら帰ろうかと話していた時。
俺は不自然なくらい突然、裕也先輩に話を持ち掛けた。
今日が記念日というわけでもない。特別なイベントがあるわけでもない。いつもと変わらない日常の一コマを無理矢理切り取って、俺は裕也先輩にぐっと近付いた。
普通の部活動の他に、俺に付き合って居残り練習をしてかいた、汗の匂い。突然顔を近付けた俺に驚いた裕也先輩は、少し後ずさりをして困惑した表情を浮かべる。
俺はそんな裕也先輩の目をしっかり見つめて、とうとうそれを口に出した。
「好きです」
「……え?」
思ったより簡単に出たその言葉は、長年抱えてきた想いがびっしりと詰まっていた。
案外呆気ないな、なんて思いながらも、俺の頬は熱を帯びて赤くなっていたと思う。辛うじて残っている夕焼けの色がそれを隠してくれるだろうけど。
ぽかんと口を開けて間抜けな顔をする裕也先輩。
俺は念を押すように、目を逸らさずもう一度想いを吐き出した。
「俺、裕也先輩のことが好きです」
「どうしたんだよいきなり。そりゃ俺だって……」
変な誤解をされたまま話を流されるのも癪だ。俺は勘違いの余地がないように、解説するようにもう一度想いを告げる。最初から一度だけで伝わるなんて思っていない、この人は超の付くほど鈍感な天然男だ。
「違います。俺は裕也先輩に恋愛感情を抱いているんです。裕也先輩とずっと一緒にいたいんです」
――言った。
恋愛感情。そう言えば、いくら裕也先輩でもこの「好き」がどういう好きなのか、理解できるはずだ。
裕也先輩はまた少しだけ困惑した表情を浮かべながら、「何言ってんだよ、悟は亘理さんと付き合ってるだろ」と尤もなことを言ってきたので、すかさず俺は「別れます」と即答する。
「……」
少しだけ見開かれるその瞳。そこに俺が映っていることを期待しながら、俺は裕也先輩の返答を待った。
三年。三年だ。いや、正直どの時期からこの人が好きだったのかは覚えていないけれど、三年と言わず、きっと俺の人生はこの人で一杯だ。
今までも。これからも。
さっき優里先輩は、俺のことを不安げに見ていた。振られたら俺が自殺でもすると思ったのだろう、単純な人だ。一人で自殺するくらいなら裕也先輩と心中する。それくらい、俺は裕也先輩一筋である。
俺は裕也先輩に振られたって死にはしない。ただ、裕也先輩の前から消えるだけ。
それは裕也先輩に気を遣わせたくないからとか、気まずいから傍にいたくないとか、そんな理由ではなく。
ただ、自分を守るため。汚い自分を封じるために、俺は裕也先輩の傍にいてはいけないのだ。綺麗な心だけを伝えて、綺麗な想いだけを思い出にしたい。欲と嫉妬に溺れた、汚物のような裏側は、見せなくていい。
それでいいのだ。
だって裕也先輩は、俺の気持ちに、真っ直ぐ応えて――
「――悟は、勘違いしてるよ」
裕也先輩が、目を逸らす。
沈み掛けた夕日が不気味な紫色に変化して、一気に体温を下げられたような、そんな感覚に陥った。
「……え」
俺は今、なんと言われただろうか。
凍える脳が、今聞き取った言葉を反芻する。
――『勘違い』。
「……勘、違い……?」
勘違い――間違って思い込むこと。思い違い。
間違って、思い込むこと……。
間違い?
俺、何か間違ってますか?
「あ、れ……」
何を間違ってるんですか?
何が勘違い?
思い違い?
俺の、何が――
「助けられたから好きになった……それはわかるよ。でも、純粋な好意は恋とは呼ばない」
なぜだろう、気持ち悪い。吐き気がする。胃の中の物が逆流するようだ、今息を吐けば嘔吐してしまう気がして、俺は呼吸さえできなくなった。
「……」
喉を閉め、吐かないよう慎重に呼吸だけ繰り返す。俺は目の前の人を見ることができなかった。目を逸らしたわけじゃない、俯いたわけじゃない。
それなのに、さっきまで真っ直ぐ見詰めていたはずの瞳が、認識できない。不気味で、真っ黒な空洞が見えるだけ。
「もう一度よく考えてみて。悟は……」
「嘘だって、言いたいんですか」
それが答えですか。
唯一信じていたものが、呆気なく壊れていく。それは俺が唯一存在できた足場。
「……そうですね。少し考えればわかりますよね。すみません」
ああ、消える。足場が。存在していた居場所が。
「でも格好いいって思ったのは本当ですよ? 裕也先輩はずっと、俺の憧れの先輩ですから」
真っ白になっていく。
「変なこと言っちゃってごめんなさい、疲れてるんですかね」
「そうだよ。ちゃんと休めよ」
この話は終わり。一分もしないうちに、この恋は終わってしまった。
夕日と一緒に冷めていく心。キラキラと綺麗だったはずの心の表面が、裏側に浸食されていくようだ。
「そういえば裕也先輩、好きな人がいるって噂は本当ですか?」
俺の問いに「もう終わったことだから」と答える裕也先輩。
そんな平気で嘘を吐く裕也先輩に、俺は少しだけ、腹が立った。
裕也先輩の好きな人。告白できなかったくせに……。
自分の想いは大切に仕舞っておきながら、俺の想いは簡単に踏みにじるんですね。
……ずるい。
裕也先輩だけ、ずるい。
だから俺は、駄目だとわかっているのに、心の裏側の浸食を抑えきれなくなった。
「嘘ですよ。龍宮先輩を振った時、『他に好きな子がいるから』って理由だったらしいじゃないですか」
ダメだ。見せちゃいけない。
「それは……そう言えば先輩も、すんなり諦めてくれると思ったから」
それを見せたらダメなんだ。
「それだけのために嘘を吐いたんですか? 龍宮先輩は嘘偽りなく裕也先輩に想いを伝えたのに、裕也先輩は嘘で返したんですか?」
汚い。
「……それは」
見られたら二度と戻れない。
「龍宮先輩の味方をするわけではありませんが、裕也先輩も裕也先輩です。俺知ってるんですよ、裕也先輩が好きな人のことを諦めてないんだって。好きな人がいるから、今まで誰とも付き合わないで、ずっとその人のことだけ見てきたってこと」
黙れ、黙ってくれ。
「……まるで知ってるみたいな言い方だけど、悟には関係ないだろ」
これだけは言っちゃダメだ。
「関係ない……関係ないですか……?」
お願いだから。
「――俺が裕也先輩の好きな人を知ってるって言ったら、どうします?」
早く誰か、俺を止めて。
「……ははっ、知らないくせに。もし知ってたとしたら――」
止まれ止まれ止まれ。
「――こうなってるはずない、ですか?」
裕也先輩の動きが、止まる。
嫌な汗が背中を流れて。
次の瞬間、俺は自分を突き落とした。
「――俺が裕也先輩の好きな人に手を出さないなんて保証……どこにあったんですか?」
ドンッ!
木製の床に背中を打ち付ける。転んだ時と同じ音が、二人きりの剣道場に響き渡った。
裕也先輩が俺を押し倒し、震える手で胸ぐらを掴んでくる。
初めて裕也先輩が、感情を表に出す。初めて裕也先輩に睨まれる。今まで一度も見たことがない、怒気を孕んだ眼差しで。俺を。
――ああ、その表情。
俺以外の誰にも見せていないだろうその表情に、俺の口角が自然と上がった。突き落とされた瞬間に俺の胸に沸き上がってきたのは、後悔や悲しみじゃない――心地よさだった。
「っ……悟、お前……!」
裕也先輩が、中学の頃から好きだった相手。
――亘理優里。




