勘違い
「優里、ちょっといいかしら?」
「ん、何?」
それは休日のこと。
居間のテーブルで宿題をするヒビキ君の背中に抱き付いて、勉強の邪魔をしていた時だった。
掃除をしていた母が、珍しく改まって椅子に座る。
何か大切な話のような気がして、私もヒビキ君から離れ向かいの椅子に座る。
ヒビキ君も宿題の手を止め、緊張した面持ちでこちらの様子を伺っていた。
え、なに、穏やかじゃない……。
なんだろ、そろそろ成績について寛容な母からお叱りを受けるのだろうか……。うん、そうに違いない。なにせ二年生になってからというもの、学校の通知表から3以上の数字が姿を消し始めたのだ。
3以上ということは3も含まれるのであって、すなわち私の通知表は限りなくオール2に近い状態。教科によっては1もちらほら……。
「あのね、優里」
「……はい、ごめんなさい……」
怒られる前にと私が謝ると、普段表情を変えない母の目が少しだけ見開かれた。
成績が悪い自覚があることに驚かれた……。
「……どうして謝るの?」
「それは……私がいつになっても真剣に向き合わないから……」
勉強に限らず何かに真剣に向き合うということは、辛く、長い時間が掛かることだ。
だからといってそれを言い訳に勉強をしてこなかったのは私の怠慢だし、真剣に向き合ったところで元々頭の悪い私が人並みに勉強できるようになるとは思えない……。
あ、私また言い訳してる。
「何か悩みがあるの? お母さんになんでも相談して」
「悩みっていうか……自信がなくて……」
雨野宮高校に入学したのだって、とある人物から逃げる為だった。
でももう無意味に終わってしまったことだ、今更必死に勉強する理由も意味もない。
「いいじゃない、自信なんて後から着いてこればいいの。優里が決めたことだもの、自分を信じてぶつかってみたらどう? 当たって砕けるのは、優里くらいの年頃の女の子だったら普通のことよ」
「お母さん……」
それ、私が砕けること前提に言ってない?
「優里、お母さんは優里を応援しているわ」
「っ……」
あの、そんな優しげな眼で見詰めないで。私の成績どれだけヤバいの?
堪えがたい焦燥が私の体中を駆け巡ってるんだけど……。
「――母さんはそれでいいのかよ!」
「……え!?」
突然だった。
宿題のプリントを真面目に見ていたと思っていたヒビキ君が、急に立ち上がって声を上げたのだ。
普段母の前で大声を出さないヒビキ君が突然大声を発したので、私は驚いて息を飲む。
「ひ、ヒビキ君、どうしたの……?」
突然どうしたのだろう……。
「姉ちゃんはついこの間まで男の人が好きだったんだよ! それなのに突然女の人を好きになるなんて、騙されてるとしか考えられないでしょ!」
突然どうしたのだろう!?
「好きな男にフラれたから、心の傷を埋めようとして同性に逃げただけでしょ!? そんな愛まやかしだよ! 目を覚ましてよ姉ちゃん!」
「ヒビキ君が覚まして!?」
「ヒビキ、お姉ちゃんが誰かに取られるのは寂しいかもしれないけど、認めてあげるのが家族愛というものよ」
「私の声届いてない!」
なんで私が女の子好きってことになってるの!?
いや、そういえばこの前そんな誤解をされたまま放置した気もするけど……どうして本人に確認もしないまま自分達だけで深刻な問題にしてるの!?
「ま、待って二人とも! 誤解だよ! 私はちゃんと異性の人が好きだから!」
「優里、気を遣う必要はないのよ。私達家族じゃない……」
「家族の言葉ならもっと真剣に聞いて!?」
「ヒビキ君、お姉ちゃんを困らせちゃダメよ。愛の形は人それぞれなの。愛にこうでなきゃいけないなんてルールはないのよ」
「いいこと言ってるけど娘の言葉も聞いて!」
「でも、だって……!」
ヒビキ君の瞳から涙が溢れ、頬を伝う。私の瞳からも涙が出そうです。
そのまま母はヒビキ君を抱きしめて、涙を拭うヒビキ君の頭を優しく撫でていた。
母の目にも、若干涙が浮かんでいる。
そして呆然とする私に一言。
「……私達、優里を応援しているわ」
「……あり、がと……」
二人とは違う意味で涙を浮かべて、私は二人に礼を言わざるを得なかった。
※ ※ ※
「どうしたんですか優里先輩。ここ数日、進化したゾンビみたいな顔してますけど」
「……別に……」
あの涙の記憶から、もう三日が経とうとしていた。
三日。実にあっという間だった。
この進化したゾンビ状態なら、悟との恋人生活もあっという間に終わる気がしてきた。
こうして悟にジュースを奢るのも三日目だ。
まさか「来週飲み物奢って下さい」の来週が「来週いっぱい」という意味だとは思わなかった。おかげで今週だけで五百円近い出費である。
あの一件でヒビキ君が私に反抗的になってしまいお金を借りることができなかったので、両親からお小遣いを前借りすることになってしまい、母から意味深な笑顔で千円を渡されたのは記憶に新しい。
前借りする時はいつも何に使うのか聞いてくるのに、今回はなぜか聞かれなかった……。
「悟はさ、両親に男の人が好きだって言ってる……?」
私のこの状況を打破するヒントになればと、勘違いされる原因となったであろう悟に質問をしてみた。
まあ勘違いの原因は私の何気ない一言だったわけだけど……。
私の前借りしたお小遣いを吸収した自動販売機からジュースを選びながら、悟は「どうでもいい」と言いたげに、実に適当に応えた。
「優里先輩は好きな人ができたらいちいち家族に報告するんですか?」
「しないけど、ほら、普通の恋愛とはちょっと違うし、家族に相談とかしないの?」
ピッと、選んだジュースのボタンを押す悟。
「しませんね。別に裕也先輩を好きで困ってることとかありませんし、何を相談するんだって話ですよ」
ふむ、全然参考にならない。こいつ堂々としてやがる。
「悟のせいで私が女の子好きって勘違いを家族からされてるんだけど」
「え、まじウケます」
「ウケてんじゃねーよ!」
「でもどうせ優里先輩が勘違いされるようなことを言っただけでしょう? 説明すればいいじゃないですか、自分は男好きだって」
「ちょっとその言い方だと悪い意味に聞こえるんだけど……」
「適当な男見繕って、家族に挨拶して貰えばいいんじゃないですか? この人が彼氏です、って」
あ、悟はやってくれないんだ……。
今の私の彼氏は一応、不本意だが、この毒舌男だ。
悟が私の家族に私と付き合っていることを伝えてくれれば、家族からの誤解も解けて一番手っ取り早いというのに……。
私の視線から落胆を感じ取ったのか、悟は選び抜いたココアの缶を開けながら、嘲笑う。
「俺は嫌ですよ、憐みの目で見られたくありません」
「……」
カチンときた。
「……ふへー、そっかぁー、じゃあ裕也君にやって貰おー」
「……は?」
裕也君の名前を出した途端、悟の声のトーンがおぞましいものになる。
こちらを睨んで来ているのがわかったので、私は敢えて目を逸らした。敢えてと言うか、怖いからというか……。




