好きとキスの真実
残された私と悟は笑顔で裕也君を見送り、裕也君が見えなくなってから、お互いその顔から笑顔を消す。
秋をふっ飛ばして夏から冬になったように、その場の空気も一瞬で冷めた。
「……優里先輩」
「な、なに……」
悟の冷え切った声に思わず後退る。
今だけに限ったことではないのだが、悟は裕也君の前と私の前とでは声のトーンがかなり違う。無意識ではなく故意だと思われるが。
「金属バットと包丁、どっちがいいですか?」
笑顔に点数を付けるとしたら、悟のその笑顔は間違いなく百点満点中百点。満面の笑み。
人間どういう状況になったらそこまで完璧な笑顔を取り繕うことができるのかと真剣に考えてしまいそうなほど、その笑顔は完成しきっていた。
同時に、この場では不釣り合いで不自然なその満面の笑みは果てしなく不気味で、得体のしれない恐怖が私の胸を締め付ける。
その笑顔の意味をなんとなく理解してしまった時点で、私の負けだ。
「なにその質問……」
「撲殺と刺殺、どっちがいいですか?」
「死因で言い直さなくていいから! ごめん!」
私の七五三発言で裕也君に笑われたことを余程根に持っているらしい。
まあライバルに笑われたら人一倍悔しいだろうけど、でもあなた私のこと好きなんでしょ? 好きな人からの可愛いは褒め言葉として受け取りなよ。
可愛いと言われて嬉しい男子は少ないらしいけど。
「まったく、こっちはとんだ赤っ恥ですよ。裕也先輩にあんなに笑われたのなんて初めてです、屈辱的です」
「素振りで素っ転んで尻餅ついてたくせに、今更恥も屈辱的もないでしょ」
ここぞとばかりに悟の弱点を突いていく。これで悟はバツが悪くなり何も言い返せなくなるはず!
だがそう思った私の期待を裏切って、悟は「何言ってんだこいつ」とばかりに呆れた表情を私に向けた。
え、なに?
「あれはわざとですよ」
悟のその言葉に、思わず私は動かしていた足を止めた。
悟の表情を見ても強がって言って言っているようには見えない。
つまり、嘘は吐いていないということだが……。
でも、なんでわざと転ぶ必要が?
「……なんで?」
考えてもわからなかったので、直接本人に聞いてみることにした。
みんなの前で恥をかくことになんのメリットがあるというのだろう。
私が聞くと、悟は愚問とばかりに呆れた顔を向けてくる。
「なんでって、転べば裕也先輩が手を差し伸べて立たせてくれますし、下手な演技してれば部活の後二人きりで個人練習ができるんですよ?」
「……んー?」
その言い方だとまるで、裕也君に構って貰うためにわざと運動音痴の振りをしているように聞こえるんだけど。
いや、聞こえるんじゃない。実際そう言っている。
私は唾液を嚥下し、渇いた喉を潤してから、すっと沸き上がってきていた疑問を、恐る恐る口にした。
「……あのさ、今までちゃんと聞かなかった私も悪いんだけど……」
喉が渇く。
「はい、なんですか?」
自分が導き出した答えに対する拒否反応が起こる。
「なんで、私にキスしたの?」
あの時奪われた唇。
「だから、好きな人が取られそうになったから――」
私が、裕也君に告白しようとしたあの瞬間。悟の好きな人――
「――悟の言う『好きな人』って、誰のこと?」
「は? そんなの決まってるじゃないですか」
その後悟の口から告げられた名前は、私が最も恐れていた名前だった。
「叶裕也先輩です」
二日連続の絶望を味わった。
※ ※ ※
私は探偵のように顎に指を当て考える仕草を取りながら、混乱した頭を無言で整理する。
つまり、あれだ。私は裕也君が好きで、悟「も」裕也君が好きで、私「に」裕也君「を」取られると思った悟が、咄嗟に私にキスをして、恋人にして……。
……ばっかじゃねえの?
思わず感想が汚い言葉で浮かんでしまう。
いや、でも本当、ばっかじゃねえの?
「なに、悟ってアホなの?」
「は? ふざけた事言ってるとあなたの背中の皮剥いで血管の浮かび上がるランプシェード作りますよ」
「発想が猟奇的すぎる!」
最悪だ! 何が最悪って、こんな奴に好かれてるなんて勘違いしてた自分の思考回路が! ショート寸前! しかも二日間も気付かずに!
一生の恥だ。
ここまで自意識過剰という言葉を体感したことが、今までにあっただろうか。
高校二年生にもなって黒歴史が生まれてしまった。これから私はこのことを思い返すたびにベッドを転げ回るという現象に襲われなければいけない。
でもキスされたら、した相手は自分のこと好きなんだって思うのが普通だよね? 私変じゃないよね?
「それにしても今更こんな話で驚くなんて思いませんでしたよ。まさか今まで知らなかったんですか? なんだと思ってたんですか?」
思えば悟は「優里先輩のことが好きです」なんてセリフは一度も言っていない。あの時の「好きだからです」は、裕也君のことが好きだから、裕也君を取られない為に咄嗟に私にキスをした、という意味で……。
なんだかちょっと変だとは思っていた。
そもそも私のことが好きならあんなに堂々と悪口だって吐かないだろうし、仲のいい先輩に笑われただけであそこまで私を睨むはずない。
悟が私を見る目は、少なくとも「好きな人」を見る目ではなかった。
私が悟を知らなかったのも当たり前だ。
私と悟は昨日までお互いの存在さえ知らなかったのだから。
ただ、偶然私が裕也君に告白しようとしたから、偶然悟が私を止めようとあんな行動に出て、偶然私に悲劇が起こった。それだけの話。
きっと悟は私でなくても、他の女子相手でも、いざとなったらああいう行動に出たのだろう。
自分と付き合っていることにして、裕也君への告白を遅らせる……そんな、よく考えれば無意味だとわかるような目的のために。
私は完全に、悟の我が儘に巻き込まれただけの一般生徒だったらしい。
悟に好かれているわけではなく、むしろ敵対視されているのにも関わらず、それに気付かないまま「あ、こいつ私のこと好きなのか」なんて猛烈に恥ずかしい勘違いを今の今まで続けていたということだ。
悟が剣道場で裕也君に竹刀の握り方を教えて貰っていた時に、恥ずかしそうに頬を赤くしていたのは、つまりはそういうことで。
その後に私を見て舌打ちでもしそうなほど嫌な顔をしたのは、私に見られていたことに気付いたからではなく、裕也君との個人レッスンを邪魔されたからで。
……とんだ茶番だなぁ。
私は大きく息を吸い込むと、胸の底から湧き上がって止まることを知らない羞恥心を全て吐き出すように、夕日に向かって全力で叫んだ。
「……なにこれえ――っ!」
「珍百景でも見付けました?」
「お前だよ!」
夕暮れの中を飛び交うカラス達の鳴き声が、今日はなぜだか心に刺さる。