prologue
――いったいどこを歩いているのだろう。
ここがどこなのか、どこへ向かっているのか。それは少女自身にもわからない。
胡乱な瞳は視点が定まらず、ぼんやりと地面に視線を這わせている。心は一切の感情――喜怒哀楽の色彩をうしない、澱みきっていた。
たった五歳の少女にとってそれはあまりにも重く、心の崩壊を招くには十分過ぎるほどだった。
――お父さんはきっと帰ってくる。
そう信じていた彼女に突きつけられたのは、残酷な現実だった。
戻ってきた父は、小さな木箱という変わり果てた姿となってしまっていた。そこにかつての面影はなく、ただただ沈黙を続けている。
その事実を許容するには、少女はまだ幼すぎた。
「お父さん……」
まだ成長過程の少女の心がそれに耐えきれるわけがない。
一歩間違えればこの世から消え去ってしまいそうなほど、少女は生気を失っていた。
少女にとって唯一の家族はこの世を去り、もはやその瞳に感情は宿っていない。
わずかな希望も絶望すらもない、完全な無。穴だらけで歪な心は、いつまでその形を保っていられるだろうか。
焦点の定まらない――暗闇に堕ちたような――虚ろな少女の瞳は、もはや本来の機能を果たしていない。いや、目が視認した景色を脳が認識していない……というのが正確なところだろう。
少女は、細い足で行く先も分からぬまま歩きだした。足を引き摺りながら、一歩ずつ一歩ずつ。ゆっくりだが、確実に進んでいく。
目的地などない。こうべを垂れ、力なく腕を放って足を進める彼女の姿は、まるで街をさ迷う亡霊のようだった。
やがて街随一の大運河に掛かる、ルーチエ大橋の中腹にさしかかったところで、
「マナっ!」
怒りと慈愛をはらんだ絶叫が轟く。
同時に、少女は温もりに満ちた両腕にやさしく――それでいて力強く抱きしめられた。
決して離さない、という確固たる強い意思が――その腕には在った。少女の細い体駆を抱きとめる腕には、心の深淵に響くような、むせかえるほどの人間の慈愛が、在ったのだ。
「マナ、一緒にくらそう。あたしがお前の親になってやるから……家族になってやるからっ! だから行くなっ! 頼むから、行かないでくれ……」
――行くなっ!
その言葉は少女の胸中深くに残響し、色を失ったこころに一滴の感情という色を落とした。それは少女のなかに静かな波紋をつくり、全身へゆっくりと伝播していく。
心が、次第に色を取り戻してゆく。
空っぽの胸が様々な感情で押しつぶされそうになる。
戻りつつある意識のなかで、少女は涙が頬を伝っていくのを感じていた。優しく抱きとめてくれる腕の中で、少女は安心して泣いた。周囲の目など気にも止めず嗚咽を漏らす。
夜の水上都市に響きわたる慟哭。それは、消失していた感情が戻ったという証でもあった。
夜空に光る天の川のように、街の人々の清らかな心を映すかのように。
徐々に開けていく視界一面に、広がっていた。
――沈みゆく太陽を映して紅に輝く、大きな運河が。
いきなりシリアスですみません。