似たもの同士
春休みに入ってから、ずっと同じような日々を繰り返している。起きる時間はいつも昼間近く。パジャマ姿のまま冷めた朝食を食べ、それから電車とバスを乗り継いで図書館へ行く。
借りていた十冊のうち、読まなかった八冊を返す。
ため息をつきながら本を返却ポストに入れるとき、返却ポストがゴミ箱に見える。面白くなかった――読む気を起こさせなかった本を捨て、借りる前に抱いていた期待を捨てる。
そして、読み切れなかったことの罪悪感もまた、本になすりつけて捨てる。きっとこのポストには、そうやって溜まった黒い感情が渦巻いているのだろう。
きっとぼくのものだけではない。
ぼくのものだけではない、と信じたい。
さようなら、太宰治。
ばいばい、森鴎外。
元気でね、夏目漱石。
読みもしない文学作品を借り、返す。著作権が切れているからインターネットでも読めるのに、なぜか借りてしまう。「本のページをめくる感覚が好き」なんて人に話している。
実際好きなのは、減って行くページ数を見ることだけだ。貯金通帳の残高を見てニヤニヤするようなものなのだ。
文章なんて頭に入ってこない。脳内では好きな音楽が壮大な世界を創り、好きなアニメのワンシーンがリピートしているだけだ。
いったいぼくは、なにをしているんだ。自分にそう訊いたことがある。
自分は沈黙し、ぼくが思考を止めるまで口を開くことはなかった。
「文学は自分を成長させる、心を豊かにするんだよ」
「文学を読まないと、将来馬鹿にされる。教養のない人だと思われるよ」
どれも、ぼくの発言だ。自分はきみたちよりもはるか高みにいるんだ。そんな気持ちがあったのかもしれない。自分は文学についてなにもわかっていないのに。
文学なんて、暗号めいた単語にしか聞こえないのに。「太宰治が好きです」なんて言いつつも、読むのはベストセラー小説か、変なタイトルの薄っぺらい新書なのに。
なんでこんなことになってしまったんだっけ。なんで、文学――ブンガクを読まないといけないなんて思ったんだっけ。図書館の中を歩きながら考える。
こうやって気持ちに押しつぶされそうになると、きっかけを忘れそうになる。でも大丈夫、なんとか引き出せた。
あいつだ。クラスで一番成績のいい大浦。あいつが言ったんだ。
「俺、読書が趣味なんだけどさ、」
大浦は運動部の学生だ。毎日遅くまで部活動に励んでいるくせに成績はトップで、人望も厚い。
しかし、ぼくは大浦が嫌いだった。大浦は、やたらと知識を見せびらかすのだ。そしてなにより、大浦はことあるごとにぼくを嘲るのだ。
「毎月二十冊は絶対文学作品を読むんだ。意外と森鴎外とか面白いぜ」
この一言で、ぼくは青ざめた。あの大浦が。先生に見つからないようにぼくをいじめるほど要領がいい、そして――認めたくないが、まあそこそこの努力家だから、勉強ができるのはわかる。
しかしあの大浦が、文学を読んでいるなんて。なんということだ。ぼくはその日から、図書館に毎日通うようになった。
そして、このざまだ。
ぼくは、勉強も運動も、そして頼みの読書でも大浦に勝てなかった。渇いた諦めだけが残った。
思い出すと、叫びだしたくなる気持ちが被さって来た。本棚に伸ばした手を引っ込め、声の代わりに息の塊を吐いた。
今日はもう、帰ろう。
だめなのだ。ぼくは、大浦に勝てない。それでいいんだ。あいつは、天才なんだ。神なんだ。勝てないんだ。
ぼくは図書館から出ようとした。そのとき、『貸出/返却』と書かれた受付プレートの下に座る女性が、「あ」と呟いた。
「大浦さん、こんにちは。今日は早いんですね」
ぼくは反射的に本棚の後ろに隠れた。
「こんにちは。……やっぱりこの作品もダメだったわ」
「そうですか、ふふ。大浦さん、さっさと謝っちゃった方がいいんじゃないですか?」
「それだけは絶対無理」
ぼくは本棚から、そっと顔をのぞかせた。かなりの数の本を抱えている大浦の後ろ姿が見えた。
「そう言うと思いましたよ。ついでに言えばここに来ることもわかってました。というわけで、この本はどうですか?」
「げ、なんだこれ。子ども用じゃないか?」
「そうです、子どもに世界文学を読んでもらうため、工夫された本です。読みやすいですよ?」
「こんなの読んでたら恥ずかしいだろ……」
「わたしが思うに、大浦さんにとって恥ずかしいのは、実は文学なんて読んでないことを知られることだと思うんです」
ぼくは、気づけば口を半開きにしていることに気づいた。
「わかったよ。じゃあそれ、貸してくれ」
大浦はまわりを気にしているのか、落ち着かない様子で本の貸し出しを済ませた。大浦が図書館からいなくなったあと、思わず受付の女性に近寄った。
「あ、あの……」
ぼくは話すのが苦手だ。見知らぬ人に、しかも女性に話しかけるなんてありえない。しかし、今回は例外だった。
内容は勢いで出てくるかと思ったものの、案の定言葉が引っ掛かった。「あ、えっと、その、ほら、その」などと言いながら、大浦が返した本を指差した。
「あ、これですか? 貸し出しならできますよ」
女性は穏やかそうな目を細め、大浦が返した本をぼくに渡そうとした。
「そ、そうじゃなくて、その、大浦――あ、大浦はその、ぼくの学校の、」
「あ、大浦さんのお友だちですか?」
誘導されるまま、うなずいた。
「彼、文学を必死に読もうとしてるんですよ。それこそが文武両道だ、って言って。プライド高いけど、がんばり屋さんで負けず嫌いで、なんかかわいいですよね」
女性は微笑み、「あ、ちょっと待ってくださいね」と一言言った。ぼくに背を向け、受付の裏にある本棚から本を取り出した。
「これ、大浦さんにお貸ししようと思っていたんですけど、あなたにお貸ししましょうか。大浦さん、きっと文学のライバルができたら一生懸命がんばると思うんです」
ぼくは促されるまま本を受け取った。ハードカバーで、ページ数は百ページくらいしかない。文字の大きさは小指の爪くらいで、時々かわいらしいイラストが入っている。タイトルは、だれもが知っているあの作品のものだった。
「よかったら感想、聞かせてくださいね」
貸し出しがおわったあと、女性はそう言って笑った。黒いウェーブのかかった髪がわずかに揺れた。石鹸の匂いが漂ってきた。
「わたしも、そして彼も、ほぼ毎日図書館にいますから」
ぼくは一言あいさつする。声が震えた。言葉が引っ掛かった。
呆然としたまま図書館を出た。
図書館を出たあと、ぼくは思わず噴き出した。なにが「毎月二十冊は絶対文学作品を読む」だよ大浦、全然だめじゃん。
思い出すとまた笑えて来て、通行人に変な目で見られた。顔が熱くなり早足になる。
それでも、笑いは止まらなかった。
気が済むまで笑うと、さっきの出来事のことを思い出した。
大浦のことが一割、残る九割はあの女性のことだった。なに考えてるんだ、と自分を叱る。それでも、気づけばあの女性のことを考えていた。もう一度思いを振り払い、大浦のことを考えた。そう言えばあいつ――。
「俺、年上好みなんだ」
そんなこと言ってたっけ。あいつが図書館に通う理由ってもしかして――いや、まさかな。いや、でも、やっぱりそうかも。
がんばれよ。なぜか大浦にそう言いたくなった。なんだか大浦が、とても近くにいるみたいな気がした。どういう意味で近いのかはわからないけれど、そんな気がした。
ぼくは珍しく本を開くことなく、バスと電車に揺られていた。
電車に揺られながら、考えた。
大浦のことだ。
もしかしたらあいつは、案外わかりあえるやつなのかもしれない。
でも、あいつとは仲良くできない。むしろこれから、どんどん憎くなってしまうかもしれない。
ぼくは、あいつを超えられるだろうか。
ひとりの女性のことを考えながら、ぼくは作戦を企てるのだった。